一ノ章 屋根裏の来訪者⑨


    ***


 あの夜明け前の出来事以来、リディアは再び己の生きる価値を見失い、しようすいしきった日々を過ごしていた。

 それがどんなに小さな希望であったとしても、もともと持っていなかったときよりも、一度手にして再びなくしてしまったときのほうが何倍もつらいものだ。

 以前の生活が戻ってきただけのはずなのに、それを喪失だと感じる自分をひどく浅ましくも思う。元より自分には過ぎた望みだったのだ。そう割り切ろうとしても、喪失感は胸をえぐった。文字通り死人のように、命令をただひたすらこなすだけの日々が続いた。

 そんなある日、オーケリエルムの屋敷内がにわかに活気づく出来事があった。

 ヨセフィンがかねてより交際していた、アーレンバリ有数の資産家であるアンデル家の当主に、とうとう求婚されたのだ。

 当主はアーレンバリ軍部の幹部で、アーレンバリ国内の経済界にも多くのを持つエリートだった。軍部の中にはアンデル家の一族から輩出されたエリート軍人が他に何人もいるし、国内最大の百貨店である『オルヘスタルズ』に出店しているテナントの多くはその親族らが手がけているという、恐るべき一族である。

「やっとこのクソ田舎からおさらばできるわ!」

 居間でこの吉報を真っ先に母親にしらせたヨセフィンは、興奮気味にそう言った。

 居間の外の廊下を掃除していたリディアは、ぞうきんを持つ手は止めないまま、思わず耳をそばだてる。

「商業が発展した軍事国家でそれだけの地位を確立してるなんて、アンデル家はうちとは比べものにならない、本物の権力を持った金持ちよ。都会に住めばドレスだって食べ物だって、流行はやりのものをいち早く手に入れられる。一生遊んで暮らせるわ、ママ!」

「だけど相手の男はお前より三十も歳上だろう? それに死に別れた前妻との間にお前と同じ年頃の息子までいるなんて。ヨセフィン、お前、息子のほうじゃだめだったのかい」

 あら、とヨセフィンは鼻を鳴らす。

「遺産をがっぽりせしめるなら、早くくたばりそうなほうに嫁ぐほうが賢い選択じゃない」

「だけどお前は見目のいい若い男が好きだろう。耐えられるのかい? せっかく今持ってる若さと美しさを、その男のために無駄遣いすることになるんだよ」

「平気よ、遊び相手は他で確保しておくもの。それにベンノ様はあの歳にしては男前よ。なかむつまじい新妻を演じるにしたって、あれなら吐き気を催さずに済むわ」

 ベンノというのがそのアーレンバリの権力者の名らしい。

 大体、とヨセフィンは色っぽくためいきを吐いた。

「向こうだってこのヒェリ・バーリ一のぼうに目がくらんで若い娘に手を出したんだもの。相応の対価を支払ってもらわなくちゃね」

「お前、ちゃんと吹っ掛けたんだろうね?」

「もちろんよ。うちの店をアーレンバリ都心の一等地に移転させてもらうことを、結婚を受ける条件の一つに入れておいたわ。あの有名な百貨店オルヘスタルズの中よ、オルヘスタルズ。当然、あっちで住む場所の手配も、この家を引き払った後の売値の分配もね」

「やるじゃないか、ヨセフィン。さすがはあたしの自慢の娘だよ」

 母娘は下品な笑い声で盛り上がり、アーレンバリで暮らす日々の計画を話し合っている。

 一方、リディアはそうを続けながらまゆひそめた。

(……店をアーレンバリに移す? 屋敷を引き払う?)

 嫁に行くのだから、ヨセフィンの住む場所が変わるのは当然だ。だがイサベレまで店ごと引っ越すとは予想外である。この屋敷を売却するつもりであるならば、家財道具を一切合切アーレンバリに持っていくということはないだろう。大きな家具などは屋敷の備品として一緒に売りに出すはずだ。

 ではリディアは一体どうなるのだろう。

 向こうでも使用人は必要だろうが、アンデル家がオーケリエルム家よりもはるかに豊かだというのなら、既に向こうには何人もの使用人がいるはずだ。リディアもそこに交ざることになるのか、それとも。

 そんなことを考えていたのがまるで見透かされたかのように、居間からリディアを呼ぶ声がした。

 リディアは驚き、内心飛び上がった。慌てて雑巾を水を張ったおけに放り、エプロンで手を拭きながら急いで居間に入室する。

「お呼びでしょうか、奥様」

「お前、今の話を全部聞いていたね」

 全部ではないが、聞こえていたのは事実だ。震える指先を握り締めたまま思わずじっと押し黙っていると、イサベレは鼻を鳴らした。

「まぁいい。ヨセフィンの結婚が決まった。あたしもアーレンバリに引っ越すんだ。だがお前は連れて行かない」

 え、とリディアは思わず顔を上げた。

 リディアだけではなく、ヨセフィンも信じられないような顔でイサベレを見ている。

「ちょっとママ、本気?」

「本気も本気さ。アンデル家には質のいい使用人が腐るほどいるはずだからね。そこにこんなみっともない娘を連れていくなんざ、オーケリエルム家が馬鹿にされるぐらいじゃ済まないよ」

「それはそうだけど、でも……」

 言い募ろうとするヨセフィンに、イサベレは鋭く目配せをした。途端にヨセフィンは押し黙る。

 イサベレは再びリディアをにらむように見た。

「ヨセフィンの嫁入りの日まではこの家に置いてやる。嫁入り当日に、お前も出てお行き。当然無一文でだよ。この家のものは何一つ持ち出すことは許さない。お前の薄汚い私物以外はね。オーケリエルム家にいたってことも、お前は生涯誰にも口外しちゃならない。わかったね」


 その夜、リディアは硬いベッドに横になり、曇った窓から夜空を眺めながら、イサベレに言われたことをはんすうした。

 どう考えても、何度考えても、結論は同じだ。信じられないことだが。

(それって……わたし、お嬢様のお嫁入りの日に、自由になれるということ?)

 何度その結論に至っても、やはり狐につままれたような気分になる。そんな都合のいい話があるはずないと思うのに、イサベレの言葉にはやはりそれ以外の解釈をする余地がないのだ。

 ヨセフィンの嫁入りの日取りは二ヶ月後の月初に決まったらしい。しくもそれはリディアの十八歳の誕生日だった。無論、偶然だろう。あの母娘はリディアの誕生日を覚えていたことなど一度もないのだから。

 ともあれ成人となる日に、一人の人間としてこの家を旅立てるなんて。

 そんな噓のような巡り合わせが、本当に自分の身に起こるだなんて。

 無一文で放り出されて、一人で生きていけるだろうか。魔女と噂されている自分が。働き口が見つけられなければ、すぐに野垂れ死にだ。

 ヒェリ・バーリ国内には神殿が運営している救貧院や孤児院もある。ひょっとしたら、そこでなら働かせてもらえたりはしないだろうか。けれどこの醜い容姿を死ぬまで隠しながら、果たしてそんなことが本当に可能なのだろうか?

 いや──そもそも自由になれるというのが、やはり自分の都合のいい思い違いなのでは。

 今日も深夜まで働いて体はくたくただ。けれどそんなことを延々と考えてしまって、その日は明け方まで寝付けなかった。

 初めのうちこそ信じられないという気持ちが勝っていたが、日を追うごとに、リディアの中に一筋の希望が見え始めた。ヨセフィンの嫁入り準備が進み、本当にこの婚礼が行なわれるのだと実感していくうちに、リディアが自由になれる日が近いということもまた、次第に現実味を帯びていったのだ。

 それはヨセフィンとイサベレの二人が華やかな婚礼準備を進めながら、事あるごとに「もうすぐ醜い顔を見なくて済むようになると思うとせいせいする」というようなことを、聞こえよがしに語るからだった。

 どんなにつらい日々でも、未来への一筋の希望の光を頼りにすることができれば、その日が来るまでがんばろうという気持ちが少しずつでも湧いてくるというものだ。

 石にかじりつく思いで二ヶ月を過ごし、そして、いよいよヨセフィンの嫁入りを──リディアの成人、十八歳の誕生日を明日に控えた夜。

 リディアの人生を大きく揺るがすその出来事が、ついに起こる。

 その瞬間は刻一刻と近づいていた。

 リディア自身も、己の運命を知らないままに。

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