一ノ章 屋根裏の来訪者⑩

 その夜もリディアはくたくたになるまで働いて、日付が変わる少し前にようやく屋根裏部屋へと戻った。

「ただいま、アイノ。ベッテ、マイレも。ヨエルは今日は少し葉っぱに元気がなかったわね」

 窓際の鉢植えたちに語りかける。

「だけど明日あしたになったら、あなたたちをお屋敷の外に連れていってあげられるの。わたしたち、自由になれるのよ」

 流石のリディアも知らず声が弾む。枕もとの時計を見ると、午前零時まであと数分だ。

「明日になったら、シーツをかばん代わりにしてあなたたちを包むわね。もしシーツも持ち出したらだめだって奥様に言われちゃったら……その時は何とかするわ。わたしはドロワーズで外を歩いたって構わないもの、スカートを脱いで包むことだってできるし、がんばれば両腕に抱えられないこともないわよね。ああ、待ち遠しいわ」

 リディアは鉢植えたちを丸ごと抱き締めるように両腕で包み込んだ。そして至近距離で見たヨエルの葉に、やや眉を顰める。

「……やっぱり少し元気がないわね。待ってて、お水を取ってくるわ」

 今日はいつになく浮き足だっていたからか、いつもなら仕事を終えて屋根裏部屋に下がってくるときに必ず一緒に持ってくる水差しを忘れてしまった。一日も忘れたことのない習慣を今日に限って忘れるなんて。

 再び階下に下りていく足取りも、やはり弾んでいる。

(わたし、これからは外の世界で生きていくんだ)

 と──一階の台所までの階段を下りる途中、二階にあるヨセフィンの部屋の扉の隙間から明かりが漏れていることに気が付いた。屋根裏部屋に戻る前に見回ったときには消えていたはずだ。

 さすがの彼女も輿こしれ前夜は眠れないのだろうか。そう思いながら恐る恐る通り過ぎようとしたとき、かすかな話し声が聞こえてきた。

 思わず部屋に少し近付き、耳を澄ませる。ヨセフィンの声だけではない。イサベレの声もする。

「やっとあの娘をこの手でぶち殺してやれる日が来たね」

 いまいましげに言い放たれたイサベレのその言葉に、リディアは思わず声を発しかけた。慌てて両手で口を押さえ、呼吸を静める。

 あの娘、とはリディアのことだ。疑いようもなく。

「オーケリエルムの屋敷に魔女がみついてるなんて噂が街中に流れていたせいで、店の売上げはどんどん落ちてるんだ。そりゃそうさ、どこのどいつが魔女が棲む家からものを買いたいと思うんだい。毒でも入ってるんじゃないかって客から言われたこともあるんだよ。あの娘のせいで商売あがったりだよ」

 まぁでも、とイサベレは続ける。

「今夜あの娘を殺しちまえば、屋敷の地下室に死体を隠して、あたしらはアーレンバリにとんずらこいて、それで終わりさね。地下に隠し部屋があるなんて、外からぱっと見たんじゃわからない。引っ越しでいろんな業者がうちに出入りしようが、誰にも見つかるはずはない。あとは死体が腐る前に、アーレンバリの新居に持ち出すものを取りに戻るふりをして、ここに戻ってきて死体を焼いて、灰を裏庭に埋める。そうすりゃあとは素知らぬ顔で屋敷を売りに出すだけだ」

「結婚前夜なんてこんな忙しい日まで待たずに、さっさと殺しちゃえばよかったのに」

 ヨセフィンの不満そうな声に、イサベレはあきれたように返す。

「馬鹿だね。あの娘を殺しちまったら、誰が今日まであたしらの世話をするんだい」

「あ。それもそうね。死ぬまでこき使ってやらなきゃ損だものね」

 きゃはは、とヨセフィンは楽しげに笑う。

「だがそれも今日までさ。せっかくアーレンバリの資産家の威を借りて店を大きくしようってときに、あの娘の存在は禍根になりかねない。今夜中に確実に殺さなけりゃならないよ」

「ええ、ママ。明日からはアーレンバリで、あたしたちの新しい人生が始まるんだもの」

 その時──時計の針が、午前零時を刻んだ。

 ヨセフィンが邪悪な笑みを浮かべた声がする。

 まるで見えない火の粉に、あるいは黒いもやに覆われたかのような。

「ああ、もう明日じゃなくて今日ね」

 その言葉とほぼ同時だった。

 リディアの背中が突然、激しくうずいた。

 激しい痛み、いやもはやそれはけるような熱さだ。驚きで一瞬息が詰まる。慌てて呼吸をしようとしても、のどすらも灼けたようになってしまって息ができない。

(な、何……!? 一体何なの!?)

 身体の内側が熱く沸騰して、そのまま裏返ってしまいそうな心地だ。

 足を引きずるようにして階段まで戻り、手すりを摑む。そして今下りてきたばかりの階段を、いつくばるようにして再び上り始める。足に根が生えてしまったように重くて、一段上がるだけでも身体中から冷や汗が噴き出す。痛みのあまり背中をむしりたくなる衝動を、手すりに爪を立てることで何とか堪える。

(早く……早く、逃げなきゃ)

 階段を上ってしまったのは失策だったと気付いたのは、苦労して屋根裏部屋に辿たどり着いた後だった。ここには逃げ場がない。最上階だし、窓は開かないのだ。

 今にもあの二人が凶器を手に階段を上がってきて、リディアを殺そうとしているというのに。

 そう考えて、ふと我に返る。

(わたし……殺されるの?)

 やっと今日まで生き延びたのに。

 今日、ようやく自由になれる、そのはずだったのに。

(お母様と、お姉様に、わたしは……)

 殺される。血のつながった実の家族から。

 また背中が強く痛み、疼く。まるで脈動だ。

 苦しみに耐えながらリディアは扉をしっかりと閉めた。かぎなどないから気休めでしかないが、せめてもの身を守るすべをと部屋の中を見回す。そして椅子やチェストを動かし、扉の前に置いてふさぐ。

 けれど結果が同じであることはもうわかりきっていた。その瞬間がほんの少し後になるだけで。

 窓は変わらず曇っている。窓の外にぼんやりと見える夜空もいつも通りだ。

 階下から階段を上ってくる二人分の足音がする。

 じきにこの部屋の扉は破られ、二人が乱入してきて、自分は殺される。

 その様子をありありと思い浮かべた瞬間──リディアは、自分の胸がすっとぐのを感じた。

 何を恐れているのだろう。自分はもともと生きている価値のない存在だったではないか。それが今日、その価値通りの結末を迎えるだけではないか。

(……そっか。そう、だったわ)

 リディアはまるで夢の中を歩くように、ふわふわとした足取りで窓辺の鉢植えたちのもとに向かう。

 自分の人生は今日、ここで終わってしまう。この鉢植えたちを外の世界につれていけないことだけが心残りだ。

「……ごめんなさい、みんな。約束したのに、わたし……だめみたい」

 涙が頰を伝う。もう背中の疼きも、苦痛も、何も気にならない。ただ鉢植えたちの行く末を案じることしかできない。

「誰かがあなたたちに気付いて、お水をやってくれるといいのだけど……」

 それが絶望的な展望であることはわかっていても、そう願わずにはいられない。

 二つの足音がじりじりと迫ってくる。そしてついに、ドアノブが外から回される。

 勢いよく開かれようとした扉が、大きな音を立てて、扉を塞いでいたチェストにぶつかった。部屋の外から驚いたような声がする。

「ママ! あいつドアを塞いでるわ!」

「生意気な小娘だね。さっさとここを開けるんだよ、リディア!」

 がちゃがちゃと扉を揺らしたり、外から殴打したりしながら、二人は口々にののしりの言葉を怒鳴っている。

 背中がまた脈打つように大きく疼き、強い痛みがリディアを襲う。否、その間隔はどんどん狭まり、波のように押し寄せてくる。

 扉のちようつがいが外れたような音がした。リディアは反射的に扉のほうに向き直る。窓に背を向けるような格好になるから、差し込んだ月明かりで扉の様子がよく見える。

 外から加えられる衝撃で、扉は今にも破られそうだ。

 がんがんと鳴っているのは、扉が殴打される音か、それとも己の身体の血液が波打つ音なのか。

 視界が真っ白になるほどの疼きにみ込まれる。吞み込まれる──


 そのとき突然、一陣の風が屋根裏部屋に吹き込んだ。

 夜の香りと一緒に、窓辺に並んだ鉢植えたちから花のいい香りがその風に乗って、リディアの鼻先をくすぐった。

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