一ノ章 屋根裏の来訪者⑪


 生き返ったように、心臓が大きく収縮した。

 窓は閉まっていたはずだ。この部屋の窓はかんぬきび付いてびくともしないし、窓枠もゆがんでしっかりと食い込んでしまっていて、リディアの力では開けられないのだから。

 振り返って窓のほうを見て確認しなければ。突風が吹いて窓が開いてしまっただけだと。

 だが振り返ろうとした瞬間、また背中が大きく疼く。リディアはとうとう、自分の身体を抱き締めるようにして床にへたり込んでしまった。強い痛みに全身に冷や汗まで浮かんできて、床に爪を立て、歯を食い縛る。

 扉の外からは変わらず二人の怒鳴り声と、激しい殴打音がする。がたがたと扉が上げる悲鳴も。

 しかしそんな騒音の中であるにもかかわらず、──ぎし、と古い木の床がきしむ音が聞こえた。

 背後からだ。

 依然背を向けている、窓のほうから。

 体重の軽いリディアが踏んだのでは鳴らない床。それが、ぎし、ぎし、と音を立てている。

 何かが──窓からこちらに近づいてくる。

 四つ足の獣のようなうなり声が聞こえる気がする。それも犬猫ではない、大型の獣。

(そんなはず、ない)

 ここは住宅街だ。窓から獣が入ってくるなんて、そんなことあるはずがないではないか。

 足音が止まる。

 リディアの真後ろだ。すぐ背後にいる。

 思わず息をむ。恐怖なのか混乱なのか焦燥なのか、リディア自身にも訳がわからないまま、心臓が強く収縮する。と同時に背中の疼きの波がまた大きく押し寄せてきて、リディアは苦痛に顔を歪める。

(痛い、熱い──)

 背中がちぎれて粉々になってしまう、と思ったその時──ふと、柔らかい感触が触れた気がした。

 鳥の羽のような、あるいは動物の体毛のような。確実に人間の手とは違う何かが、いたわるようにリディアの背中に触れたのだ。

 そして次の瞬間──視界が大きく揺れた。

 背後にいた何かが、リディアを抱き上げたのだ。

 しかしそれは四つ足の獣でも、鳥でもなかった。

 一人の青年が、リディアを両腕に抱き、こちらをまっすぐに見つめている。

 その金色の二つの輝きに、リディアは思わず見入った。

(……猫の目、みたい)

 透き通ったそのひとみは、どこか人間離れしている。作り物めいているというよりは、自然界に存在する明かりや、水の透き通り方に近いような印象だったのだ。

 青年の長い髪が、さらりとこちらの顔に落ちてくる。月明かりの中で、白いような、銀色のような、あるいはごくはかなく輝く金色のような、不思議なきらめきを放つ髪だ。

 その髪の色も眼光も、冷たく鋭いようにも見えるのに、腕の中は温かく、このまま眠ってしまいたいと思っている自分がいる。

(人間じゃ……ないのね、きっと)

 物語の中では、人が死ぬまさにその瞬間、死をつかさどる神がやってきて、大きなかまでその命を刈り取っていくという。

『誰か』が、唇を開く。リディアに何かを告げようとしている。

 否、何を言われるかなんて、もうわかりきっているではないか。

 生まれてから今まで何度も浴びせ続けられてきたあの言葉を、死の間際にも言われる。ただそれだけだ。

 お前には生きている価値がない。

 お前には生きている価値がない──


「──見つけた。お前は、私の花嫁だ」


 世界から音が消えた。

 次の瞬間、屋根裏部屋の扉が、そこを塞いでいた家具もろとも音もなく粉々に消し飛んだ。

 扉を殴打していた姿勢のまま、イサベレとヨセフィンがきようがくした顔でこちらを見ている。その手にはリディアを殺すためのものであろう刃物が握られている。

 リディアは、たった今信じられないことを告げてきた相手をただ見つめることしかできない。あまりに想像もしていなかったことを言われたために、こちらの言葉は完全に奪われてしまった。

 その『誰か』はリディアを腕に抱いたまま、視線をイサベレとヨセフィンのほうに向ける。

 その目にかれてしまったかのように、二人は腰を抜かして床に座り込んだ。その手から凶器が転がり落ちる。二人の傍には脈絡なく砂のようなものがこんもりと山になっていた。それが粉々になった扉や家具のざんがいであることに遅れて気付く。

 まさか、とヨセフィンが震える声でつぶやいた。

「その髪の色、その瞳……それにその人間離れした美しさ! 間違いないわ、あなたエルヴィンドきようでしょう!?」

 イサベレが目を見開く。

「そうだ、あたしも姿は見たことないが噂には何度も聞いてるよ。ああ、間違いない!」

 エルヴィンド、という名の持ち主が一体誰なのか、リディアはとつに思い出せなかった。

 エルヴィンドと呼ばれた『誰か』はうなずき、目を細めた。

「私のことを知っているならば話は早い。この娘は今日より私の花嫁としてもらい受ける。……もっとも、血のつながりがありながらも家族などではなかったお前たちに伺いを立てる必要などないだろうが」

 そう告げて、エルヴィンドは窓のほうへ向き直った。窓も扉と同じように、いつの間にかガラスが跡形もなく消し飛んでいて、その粉々になった残骸とおぼしき砂が床に積もり、月明かりを反射してきらきらと煌めいている。驚いてエルヴィンドを見上げると、彼はリディアを見下ろし、ひとつ頷いてみせた。安心しろとでも言いたげに。

「あ、あの……」

 問わなければならないことは山ほどある気がするのに、頭がまったく回らない。そうしている間にもエルヴィンドはリディアを抱えたまま窓のほうへ向かって歩いていく。

 その背中に、ヨセフィンの金切り声が追いすがってくる。

「待ってよ! どうして……!? どうしてリディアなのよ!?」

 その問いには、エルヴィンドは答えなかった。代わりにいちべつだけを投げると、そのまま窓から外の世界へと飛び出す。

 驚きのあまりされるがままだったリディアは、その瞬間、思わず鉢植えたちのほうに手を伸ばした。

 しかしその手が、取り残された小さなそれらに届くことはなかった。

 背中のしやくねつうずきと痛みはとうとうリディアを吞み込んでしまったのだ。

 指先はむなしく宙をき、意識を失った細い腕はだらりと垂れ下がった。


    ***


 窓の外へと消えたリディアと美しい青年をぼうぜんと見送り、ややあってイサベレとヨセフィンは我に返った。

 慌てて窓辺に駆け寄ったときにはもう遅く、夜空のどこにも二人の影はない。

 どうするのよ、とヨセフィンが地団駄を踏んだ。

「なんでよりによってリディアが選ばれるのよ!? なんであたしじゃないの!?」

 まぁまぁ、と娘を落ち着かせようとなだめるイサベレもどこか悔しげな顔だ。

「お前のだんになるベンノ・アンデルは反聖獣・反神殿思想者じゃないか。いずれアーレンバリ軍部の中で同志を先導するかもしれない。そうすればリディアは聖獣もろともおぶつさ」

「そんなのいつになるかわからないじゃない! 本当に実行するかどうかも──」

 と、イサベレは何かを思い出して娘を制止する。

「ヒェリ・バーリにも反聖獣・反神殿思想者は隠れているだろう? 前にそういう人間と少し話したことがあるんだよ。うちは神殿をあがめもしなければ積極的に逆らいもしない中立派だ、神殿に礼拝に行ったことは一度もないって言ったら、そいつが興味深いことを教えてくれたんだ。聖獣は確かに花嫁を探しているが、それは人間で言うところの婚姻とは訳が違うんだと」

「……一体どういうことよ?」

 まゆを寄せるヨセフィンに、イサベレは唇をゆがめてわらった。

 黒いもやまとった火の粉が、瞬間的に燃え上がるように。

「聖獣の花嫁ってのは実際のところ、供物としてささげられるいけにえなんだ。一緒になったら最後、に食われちまうってことさ。──あたしらがやらなくても、どっちみち近いうちにリディアは死ぬってことなんだよ!」



~~~~~




増量試し読みは以上となります。


この続きは2024年3月22日発売予定の『聖獣の花嫁 捧げられた乙女は優しき獅子に愛される』(角川文庫刊)にてお楽しみください。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る