第一話 ゴブレット⑧


 鑑定書には上等な紙を使う事にしている。

 時代が時代なら羊皮紙や木簡を用いただろう。コットンのみでいた上質紙は、繊維のざらつきを残しながらもペン先が引っかかる事はない。

 匡士がたくましいたいを捻って細め、店の骨董品に触れないようにする。

 海星はフェデラル様式のサイドチェアにおくする事なく腰かけて、天鵞絨ビロード張りのトレイに立たせたゴブレットに見入っている。

 匡士は海星の背後を大きくかいして、コレクターケースの反対側に避難した。

「鑑定書って手書きなんだな」

「うちはね。最新の所有者と作品名はインクで書いて、二ページ目以降に来歴と資料を印刷している。でも、鑑定士の名もしんぴようせいに関わるから、もっとベテランの人に書いてもらった方がいいと思うけどな」

「所有者の希望だ」

 匡士が資料の束を手に取ってページを送る。来歴は短いが、屈折率の科学鑑定書類がかさって、厚みを出していた。

「二人は罪に問われるのかな」

「紅田祝子は被害届を出さず借金の返済を約束して、三好花也も詐欺被害の訴えを取り下げた。刑事は窃盗と詐欺を個別に扱うが、民事裁判は案外プラマイゼロが有効だ。どの道、大事にはならないだろう」

「誤解が解けたから仲直りとはいかないか」

 どんなに愛された記憶があっても、傷付けられた痛みは消えない。

 陽人は所有者の文字に並べて彼女の名を記した。

 匡士が腕組みをして本棚の柱に寄りかかる。

「紅田祝子は、母親を好きだからと言って傷付けられ続けてまで傍にいる義務はないし、父親の行いをけいべつして嫌おうと受けた愛情は消えてなくならない」

「うん」

「我が子をできあいする親だって、二十四時間三百六十五日子供が可愛い訳じゃないだろ。憎たらしくて声も聞きたくない時があっていいんだ。この世に完全な聖人と悪人しかいなかったら、刑事なんてやってられねえよ」

 飽き飽きと吐き捨てながら、相反する感情を混同せずにいられる匡士の強さは、傍にいる者をも安心させる。

 陽人はひそかに笑みを浮かべて、作品名に『ガレット・デ・ロワ』と記した。

「海星、書き終わるよ。そろそろ箱に仕舞って」

「兄さん」

「まだ苦しそう?」

 ダイヤモンドは今もガラスの海に沈んでいる。可哀想だが、壊して解放する事は出来ない。

 ところが、海星は小さく首を振った。

「誇らしげだ」

「ゴブレットは何も変わっていないのに?」

 陽人が不思議に思って尋ねると、海星はゴブレットの輝きをひとみの奥に閉じ込める。

「見付けて欲しかった。大切に守っている物を、誰かに気付いて欲しかった。兄さんが光を当ててくれたからだよ」

 陽人に妖精は見えないが、表情の乏しい海星が喜んでいるのは分かる。

「よかったな、お兄ちゃん」

 匡士が口の端を上げる。

 気高き騎士の様に悠然と直立するゴブレット。

 ペンを走らせる音が耳に心地い。陽人は鑑定書に署名をして、木製のブロッターでインクを押さえた。

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