第一話 ゴブレット⑦



 ロープをゆるめるとテントが無惨につぶれて夜風にはためく。

 匡士と黒川が三好を連行した後のキャンプ場は、何事もなかったかのように穏やかな月夜に満たされた。実際、テント間は充分に距離があったから、話し声は聞こえても内容までは聞き取れなかっただろう。

 陽人が地面に固定したペグを抜くのに難儀していると、祝子が横に座って、専用のリムーバーをペグの穴に通した。

「ありがとうございます」

「いえ、三好が前に使っているのを見たので」

 祝子は笑い返そうとしたようだった。が、その顔はひどく疲れていて、すぐに暗く沈んでしまった。

「ごめんなさい」

「どうして僕に謝るのです?」

「巻き込んだから……私の悪い癖に」

 癖とは妙な言い方をする。

 聞きあぐねる陽人から目をらして、祝子がペグを抜いた。

「優しくして貰って、好きになって、お付き合いをするまでは何歳になっても少女漫画の主人公みたいにふわふわドキドキします。でも結局、不安に勝てません」

「変化を拒む恐怖とは違うように聞こえます」

 関係が安定して穏やかになる状態を停滞と錯覚する人間も多いが、祝子からは不安という単語では言い表せない焦燥感を覚える。

 ランタンに風で飛ばされてきた蛾が纏わりついて、光が不規則に瞬いた。

「私の中にある愛情は本物だろうか、いつまで続くのだろうかと。疑心暗鬼が日増しに肥大化して、結婚の話題が出る頃にはどうにも抑えきれなくなるんです」

「……警察と会う時は慎重に自宅を伏せた人が、詐欺を仕掛ける相手に自宅を教えるとは思えません」

 三好は祝子との付き合いを真剣だったと嘆いた。

 祝子も、真剣だった。

「初めは本気で、結婚を考えていたから援助も受けて、冷めたから別れた。された方から見れば詐欺と変わりないです」

 これまで不起訴だったのも道理だ。しかし回数を重ねる内、遠からず彼女の故意を疑う者も現れる。現に警察には彼女を詐欺師と警戒する記録があった。

「本職のディーラーがあのゴブレットを見ても、犯罪に手を染めてまで得る価値があるとは考えません。一般の方にはなおの事、単なるグラスに見えるでしょう」

「はい」

「窃盗犯はあなたに近しい人物、お父様の『世界にひとつだけ』という言葉を聞いた人に絞られます」

「結婚詐欺の被害者ですけど」

 ちようする彼女の笑みは何処か投げりだ。

 噓の愛情、偽物の恋人。

 また、現実と矛盾している。

「あなたはゴブレットを取り戻したかった」

 陽人は彼女の手からリムーバーを譲り受け、かぎの先端をペグに引っかけた。

「けれど、被害届を出せば彼が逮捕される。被害額が低ければ罪は軽くなるのだろうか。警察に相談したものの、鑑定士が呼ばれて真実が現実に迫った」

「真実が現実に……」

「お父様の言葉が噓になるかもしれない」

 鑑定士として、寂しい顔を見るのは慣れている。鑑定が望む結果でなかった時、依頼者は夢見るひとみかげらせて失意を持て余す。

 ゴブレットが安物だとしたら、三好の罪は軽く済む。

 ゴブレットが高価でなければ、父親の愛は噓になる。

 板挟みで悩んだ祝子は、鑑定を聞かずにゴブレットを取り戻す方法を選んだ。

「三好のアパートを訪ねた時、あなたは直談判をするつもりだったのでは? 自然公園に来る間に気が変わったのでしょうか」

 祝子が意味もなく、風を含んだテントを押さえた。

「悪い考えを思い付いたんです。アパートに侵入するのは無理ですが、テントはカッターで切る事が出来ます。三好のかぎを盗もうとして失敗しました」

「シィ」

 陽人はとつに人差し指を唇の前に立てた。

 長身の影が丘に上がって来る。彼はキャンプ場の中央を脇目も振らず直進して、地面に転がるスチールのカップを拾い上げた。

「後片付け、任せて悪い」

 匡士がロープをつかんで、残りのペグを素手で引き抜く。

「先輩はこっちに来ていいの?」

「元々、所持品の回収は警察の仕事だ。あと、これも」

 彼が上体をひねって、肩から掛けたニュースペーパーバッグを前に回す。中から取り出されたのは両手に収まる大きさの化粧箱だ。

 祝子のそうぼうがランタンの光を受けて感情の色を差す。

「証拠品の返却は後日になりますので、一目無事をお見せしておきます」

 匡士が金具を外して箱を開けた。

 陽人は立ち上がって、ようやく実物のゴブレットと対面した。

 左右対称の形状が美しい。ランタンの明かりを当てるとかすかにくすんで緑がかっている。新しいガラスは透明度が高く、時代や経年に応じて色味が差す。復刻品だから、えて鉛クリスタルで当時の色合いを再現したのだろう。

 表面にクリズリング──ひびきずあとは見られない。これも新しい証拠だ。

 水を注ぐボウルを支えるステムはバラスター形に分類される、一七〇〇年代前半に流行したデザインの特徴があった。

「偽物でしたね」

 祝子がゴブレットを見つめて、り上がる呼吸を押しとどめるように唇を固く結んだ。

 ランタンが風に揺れ、ガラス細工に光が散る。

「母は父を恨んでいましたが、私には優しい父でした。母に父の愚痴を聞かされる度、父の私への愛情も噓だったんだろうかと過去を否定されるのがつらくて、母とも距離を置いて……両親どちらに対しても薄情な娘です」

「人の感情で引き算は出来ない。紅田さん自身が言った事です」

 匡士がなだめる。

 甘い言葉をささやいても暴言は帳消しにならない。ひどい仕打ちを受けても愛情を否定出来ない。正反対の感情が同居するから、人の心は引き裂かれるように苦しめられる。

 祝子が頭を振った。

「『王様の秘密の杯だ。世界にひとつの特別だぞ』『祝子も大切な世界に一人だけ。注いでも注いでもあふれてなくならない、お父さんから祝子への愛のあかしだ』。ゴブレットはこつとうじゃなく量産品の偽物、父の言葉は噓でした」

 テントが空気を含んでたたみにくい。陽人は細長く折ったテントをひざで押さえて平たくし、ロールケーキの様に端から巻いた。

「真偽が全てではありません」

 縫い付けられたゴムで留める。ペグを束ねてファスナー付きの袋に入れると、三好の荷物はすっかりリュックに収まった。

「鑑定士とは思えない発言ですね。慰めて下さらなくて大丈夫です」

「お客様のメンタルケアは鑑定士の仕事には含まれません。どのような鑑定結果でも、真実に徹しなければ信用を失います」

 陽人はジャケットのポケットからペンライトを引き出した。

 祝子がげんがるまなしで見守る中、陽人は匡士の持つ化粧箱の前に立った。

「こちらのゴブレットには、オリジナルと異なる作品名が付けられています」

 明確な意思を宿し、精巧に写し取られた複製品。

「『ガレット・デ・ロワ』」

「お菓子の名前?」

「はい。新年、公現祭に食べるフランスの焼き菓子です。コインサイズの豆人形フエーブを入れて焼き、食べた一切れに入っていた人には幸福が訪れると言われています」

 陽人は左手に白い手袋をめて、匡士と目線を合わせた。

「先輩、絶対に箱を動かさないでね」

「お、おう」

 匡士がにわかに緊張して肩ひじを張る。

 陽人はペンライトのスイッチを入れ、ゴブレットを手に取った。

「ガラスの屈折率は1・4から2・1、ダイヤモンドは2・4」

 陽人は夜闇を背景に据えて、ノッブを通る光に目を凝らした。

 涙型のノッブにペンライトの光を当てる。詳細な鑑定は設備の整った研究室に依頼しなければならない。

 けれど、海星はゴブレットのようせいには秘密があると言った。

『分かった』

 彼は海の底から上がってきたかのように、毛布から顔を出して呼吸をした。

『兄さん、妖精はガラスに隠された何かを守って息を潜めている』

 陽人がペンライトをわずかに傾けると、涙の中心で光が曲がったように見えた。

「英国貴族は遊び心を加えました。当時、ゴブレットの製作を請け負った工房に尋ねたところ、百脚余りの内ひとつにだけ、ダイヤモンドを沈めたそうです」

 陽人が不純物の確認として問い合わせると、工房はすぐ教えてくれた。日本に持ち込んだディーラーもこの事実を知っていたのだろう。

 祝子が両手をのどもとに当て、ぼうぜんとする。

「幸運の豆人形……」

「割って取り出せばゴブレットとしての価値は消えます。また、ダイヤも小さく削られるでしょう。王様の秘密の杯は、秘められているからこそ美しい」

 陽人は化粧箱の布張りの台にゴブレットを横たわらせた。一層、緊張する匡士に任せて、いつも通り、依頼人に微笑む。

「雨宮骨董店の名にいて、唯一無二の特別なゴブレットと鑑定致します」

 祝子の頰を伝う涙が月光にきらめいて、流れ星の様だった。

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