第一話 ゴブレット⑥



 黒電話のベルにあこがれている。

 電子音で作られた音ではない。金属製の二種類のベルが電話機の中に入って、着信があると電流の通ったハンマーが交互に打ち鳴らすのだ。

 子機のない時代、電話の呼び出しは家の隅々まで聞こえなければならなかったから、さぞよく通る澄んだ音がしたのだろう。

「出ないなあ」

 陽人は助手席で応答のない呼び出し画面を眺めた。

 紅田祝子。

 窃盗事件の被害者で詐欺師。匡士の電話帳には相談された日付と、彼独自の隠語らしい文字を二つ並べて登録してある。

あきらめて逃亡するのを防ぎたい。鑑定を餌に所在を摑んでおいてくれ』

 頼み事は基本的に断らない陽人だが、黒川の冷涼なまなしには察するところがないでもない。陽人に頼らざるを得ない事へのかつとうを見るに、捜査の都合で人手を割けなかったのだろう。

「出ませんね」

 アナウンスにも切り替わらない。

 陽人は呼び出しを終了させ、半分開いた窓からアパートをった。

 通りに対して縦に建てられた二階建てのアパートだ。匡士と黒川が立つと、扉が並ぶ通路をほとんふさいでしまう。

 黒川がインターホンを二度押して、扉にじかに声を掛けた。

「こんにちは。三好さん、いらっしゃいますか」

 匡士が低音で怒鳴るよりは警戒させないだろう。それでも、静かな集合住宅には彼女の声がよく響いた。

「こんにちは」

「いい加減にしてよ」

 薄いグレーの扉が開く。出て来たのは簡素なジャージに身を包み、長い髪をおさげにした住人だ。彼女は匡士を見るとぎょっとして扉を半分閉じた。警察と知らなければ、匡士の威圧感は悪い想像を呼び起こす。

「その家の人、出かけてますよ」

 陽人からは扉の位置が重なって隣室の住人とは分からなかった。

「いつ頃ですか?」

「昼頃に、学校から帰って来た時にお隣さんの自転車とすれ違って。キャンプ道具を積んでたから今日は帰らないと思います」

 黒川に答える間も、彼女は扉を徐々に閉めようとする。

「ありがとうございます」

「じゃ」

 最後の五センチが閉じる間際、匡士が彼女を引き留めた。

「ちょっといいですか? インターホン、二回しか押してないですよね」

「はい」

「声もいい加減にしろと言われるほど大きくなかったと思うんですが」

「すみません!」

 彼女がおさげまで震わせて縮み上がる。

「あなた様方は全くって五月蠅うるさくなんてございません。不敬な態度で出てしまいました事、おびのしようもございませんが、少し前にも玄関口に通行の妨げをなさるお姉様がいらっしゃったものですから、いないと伝えたのにまたお戻りになられたのかと愚かなわたくしは安易な考えに陥ってしまったのでありまして、お二方を責める気持ちはこれっぽっちも抱いてございません」

「落ち着いてください。我々は警察です。参考にお話を聞いているだけですから」

「け、警察」

「キキ、お前は一歩退がれ。危害を加えようがない距離も信用の一部だ」

 黒川の𠮟しつせきを受け、匡士が両手の平を見せて、害意がない事を示した。

「おれ達の他にも訪ねて来た人がいたんですね」

「え、もしかしてストーカー? お隣さん、大丈夫ですか?」

 瞬間、黒川の顔から血の気が引く。

 考えられる最悪の可能性は、紅田がしびれを切らして自力でゴブレットを取り戻しに来る事だ。逃走中の窃盗犯に被害者が接触して、円満に解決する未来は見えない。

「キキ、早く来い!」

「御協力感謝します。怖がらせてすみません」

 匡士が後部座席に乗ると同時に、黒川がアクセルを踏み込んだ。

「紅田はどうやって容疑者の家を突き止めたんだ?」

「知ってたんですよ。三好と紅田が知り合いなら、紅田が藤見署を選んだのも自然です」

 シートベルトの金具が遅れて音を鳴らす。

「つまり、こういう事か。三好は紅田の詐欺の被害者で、報復に高価な物を盗んだ。三好が捕まると紅田の罪も明るみに出る。だから、紅田は通報を渋り、自ら片を付けようとしている」

「それは……」

 匡士が助手席の陽人を見る。陽人がスマートフォンを返すと、彼は不在の履歴に目を通して、奥歯をみ合わせた。

「とにかく、知人なら紅田は三好のキャンプ趣味を知っている可能性があります」

「県外に遠出していてくれよ」

 願いながら、二人が最悪の事態を想定して行動している事は、迷いのないハンドルさばきで明らかだった。


    *


 藤見市の北西、街を一望する小高い丘は、昭和の時代まで古墳だと考えられていた歴史がある。

 周辺は自然公園として行政に管理されていたが、考古学教授が指揮を取って長年にわたる調査が行われた結果、単なる地層の隆起と判明した時は多くの人を落胆させた。

 しかしながら、市民にとって憩いの場である事に変わりはない。

 開放された元古墳には近年、キャンプ場がオープンした。規模は小さく、見所となる観光名所はないものの、公営の為に使用料が安価で、週末のソロキャンプには打って付けだ。

 売店を兼ねた管理事務所は既に暗い。

 遊歩道を照らす街灯は、丘の斜面に差しかかると小型のソーラーライトに変わり、次第に月の方が明るくなる。

 開けた丘の上、細い丸太のさくに囲まれた広場は雪原の様に白い。

 月明かりが色を奪って陰影を濃くする。まばらに立つテントはさながらカマクラだ。

 南に面するテントの陰を歩いて、近くで見ればサイズや形の差異を見分けられる。探すテントは一人用、他のテントから孤立した南側、柵の傍に張られていた。

 影に身を潜め、テントに耳をそばだてる。かすかに吐息が聞こえる。

 上体を低くして柵側に回る。ポケットを探ってカッターを手に取り、反対の手で入り口のファスナーをつかんだ。

 暗いテントが口を開ける。

 真新しい寝袋の足元から四つんいで忍び寄る細い手首が、寝袋から突き出した手に摑まれた。

 悲鳴が瞬時に塞がれて、テントの形が無様にゆがんだ。


    *


「どっちも動くな。警察だ」

 匡士と黒川がテントに踏み込めたのは、まさに間一髪のタイミングだった。

 祝子がかつぷくの良い男性を襲っている。否、返り討ちに転じる瞬間とも言えるだろう。

 男性は寝袋から半分這い出して肉付きの良い右手で祝子の手首を摑み、彼女の握るカッターナイフが刃を出すのを封じている。左手では祝子の顔を押し退けて、後頭部をテントの側面にり込ませた。

「警察!」

 男性が寝袋を脱ぎ捨てて匡士の顔面にぶつけ、視界が覆われた隙に裸足はだしでテントから駆け出す。匡士は刃物の処理を優先したようだ。

「怪我は?」

 匡士が祝子に手を差し出して、カッターナイフを渡すよう視線で促す。

 その背後で、鈍い音と土煙が上がった。

 突進して来た男性を黒川がかわし、重心を据え、円の軌道上で彼のひじを固める。男性が体勢を崩して地面に転がったのだ。

「三好花也さんで間違いないですか?」

 黒川が警察手帳を見せて問いかける。男性は否定しない。

 陽人は電気ランタンにスイッチを入れて、少し離れた柵の支柱に置いた。三好のテントの辺りだけがぼんやりと明るく照らされた。

 三十半ばを過ぎた頃だろうか。防寒ジャケットを着込んでおり、裸足が対比で殊更寒そうだ。全身のシルエットはしちふくじんだいこく様に似ているが、切羽詰まった顔に幸福感はじんも見られない。

 間に合って良かったと楽観するには早いようだ。

 三好はひざを突いて身体を起こし、黒川の機嫌をうかがうみたいにへつらい笑いを浮かべた。

「御心配なく。痴話げんです。そうだよね、祝子さん」

 匡士に付き添われて、祝子がテントから出て来る。あつに取られる彼女に、三好が畳みかけた。

「俺の居場所を見付けてくれた。俺の理解者はやはり君しかいない」

「アパートの前に自転車がなかった。あんたの家から自転車で行けるキャンプ場は自然公園くらいしかないわよ」

「それこそ『理解』じゃないか」

 三好が黒川に摑まれた肘をひねり、膝を伸ばす。

「君が戻って来てくれれば、君も俺も犯罪者にならずに済む。『理解わか』るよね」

「あ……」

 祝子の表情がかげり、ひとみが力を弱める。ふもとからの強風にあおられてける彼女に、匡士は手を貸す事はせず、前に立って三好の目線を遮った。

「三好花也さん。あなたは紅田祝子さんの家からこのグラスを持ち出しましたね」

 ゴブレットを表示したスマートフォンの画面がこうこうと光っている。

「二人が恋人同士でも、仮に血縁関係だったとしても、所有者の許可なく所有権を脅かした場合、窃盗の罪に問う事が出来ます」

 三好がそうはくになって黒川を見る。黒川は彼の関節を固めて微動だにしない。

「俺には正当な事情があります」

「窃盗はどう転んでも正義にはならない」

「いいえ。聞いて下さい。俺は真剣に交際しているつもりでした。実家のお母さんが病気になったと言われて金銭援助もしました。でも急に連絡が取れなくなって」

 三好の訴えは、匡士らも摑んでいる情報だろう。しかも、今回が初めてではない。

「彼女は結婚詐欺師です。俺は被害者です」

 祝子の非と罪をまくし立てて、三好が肩で息をした。

 空で瞬く星が美しければ美しいほど、地上の人間の醜悪さが残酷に映る。

だまされたからやり返した」

 匡士が端的にまとめると、三好が不服そうに憤りを声音に乗せる。

「幼稚な仕返しの様に言わないで下さい。俺は損失をてんした。慰謝料です」

 陽人も、祝子が詐欺師だと匡士から聞いた直後は賠償目的の線を疑った。

 だが、その前提で一人ずつの行動を追って考えると矛盾が生じる。

「あのー」

 陽人が割り込むと、場の空気がいらたしげに波打った。ディーラー同士の会話に加わる要領で、明るく穏やかに努めたのが場違いだったのかもしれないが、やり直す訳にもいかないので陽人は押し通す事にした。

「少し、いいですか?」

「口を挟むのは遠慮してもらえますか、こつとう店さん」

「骨董店だから挟みたい口があるのです」

 黒川のよそしい物言いを転用する陽人に、刑事二人でくばせを交わす。匡士の後押しは黒川から猶予を引き出してくれた。

「手短に話して下さい」

「ありがとうございます。それでは、三好さん?」

 三好が分厚い身体で身構える。陽人は祝子をいちべつしてから問いを発した。

「支援した治療費の額を伺っても?」

「二百五十万円ほどです。入院の際に個室に入れるよう手配しました」

「では、あのグラス──正しくはゴブレットと言いますが、あれに同等の価値があると思いますか?」

「ええまあ、それなりに」

 先程までの威勢とは打って変わって、三好がしどろもどろに答えをはぐらかす。

 きちんと説明した方が良さそうだ。陽人は普段通り、にこりと微笑んだ。

「ガラス製品は破損し易く、状態の良い品の文化的価値は非常に高い。一方で、恐ろしく高価かと言うと、十八世紀の骨董品なら主に五万円から百万円の間で取引されます。紅田さんの所有するゴブレットは二十一世紀に入ってから作られた物です」

「だから何ですか。俺は祝子さんに話を聞いて、高いに違いないと思っただけです」

「所有者御本人から」

「とても貴重な宝だと聞かされていました」

「成程、ありがとうございます」

「……何のお礼ですか」

 三好が不気味がるようにあと退じさりする。陽人が微笑みを絶やす理由はない。

「先輩。だそうです」

「そこまでやったなら、最後まで自分で言えよ」

 匡士が険のある言い方をしたが、骨董品店が請け負うのは骨董品の話までだ。匡士がおつくうそうにためいきを吐いて、うつむいた姿勢から三好を見上げた。

「慰謝料が目的だったら紅田さんを訴えるのが一般的でしょう。ところが、あなたは窃盗罪で捕まるリスクを犯してでもグラスを盗み、売却しようともしなかった。盗んだ目的が金銭ではないからです」

 一人一人の行動と意図を辿たどって矛盾を消した後に真実は現れる。

「あなたは、紅田さんが大切にしていたからグラスを奪った。あなたを犯罪に走らせたのは倫理的な正義ではなく、感情的なふくしゆう心です」

「復讐」

 つぶやいたかと思うと、三好の身を固めていた虚勢ががれ落ちる。彼はまるでき物が落ちたような顔をして、泳ぐ目で祝子の姿を探した。

 匡士の後ろで縮こまる彼女と目が合った。

「祝子さん。君は俺を裏切った。俺の尊厳を踏みにじった」

 あふれ出す赤裸々な感情が奔流となって聞く者をみ込もうとする。

「俺は本気だったのに。君に笑って貰えるなら、人生を投げ出しても恐ろしくなかったのに。君が! 君がいれば俺は!」

「ごめんなさい」

 祝子が頭を抱えてうずくまる。彼女はおびえきった子供みたいに丸くなって、前後に身体を揺すった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「どうして謝るんだよ……詐欺師なら、大金を騙し取って高笑いしてろよ」

 三好ののどかすれて、しわがれた声を絞り出した。

「紅田祝子さん宅への侵入に関して、三好花也さん、署まで御同行頂けますか? これは任意での事情聴取で、あなたには断る権利があります」

 黒川が冷徹に任務を遂行する。

「行きます。罪を、認めます。グラスはアパートの冷蔵庫の中です」

 三好が深くうなれて、全てをあきらめた。

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