第一話 ゴブレット⑤
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宇宙から夜の地球を見下ろした時、日本ほど明るい国はないという。
輪郭が見て取れるのは海岸線に囲まれた島国ならではだ。港町の
多くの人にとって家の灯りもまたそれだ。
川沿いの桜並木を途中で離れて路地に曲がる。昼はカフェを営む角の店は、日が落ちるとテラスにランタンを下げるバールに様変わりだ。
パリの街並みを手本に作られた通りには、中央にオリジナルの街の下水道を模した溝が走っている。いつもは民家の階段で居眠りしている猫の姿はない。家に入れられたか、ひょっとしたら猫の集会に赴いたのかもしれない。薄曇りの月夜は胸に好奇心の種を植える。
だが、寄り道は別の機会に。今日は海星が、陽人の帰りを待っている。
街並みに
まもなく帰路の終わりに差しかかり、陽人は遠目に雨宮
窓がいずれも暗い。
海星は眠っているのだろうか。否、優しい彼は陽人の帰宅を暗闇で迎えた
「海星」
陽人は住居側の玄関に
海星は身体が丈夫ではない。医師の話では、海星が雨宮家に来た時、人の子供が幼少時に身に付ける免疫を得ていなかったのだと言う。
その頃に比べれば、病床に伏せる回数も格段に減ったが、今でも家の外に出るのは容易ではなかった。
「ただいま」
陽人は呼びかけながら照明のスイッチを入れた。廊下も、リビングも、荒らされた
眠っているだけであれ。陽人は祈る思いで海星の部屋の扉をノックした。
返事がない。
「入るよ」
陽人は断りを入れて、ドアノブを
中は他の部屋同様に暗かった。遮光カーテンは開いており、レースカーテンが月光を透かす。薄明かりに浮かぶベッドに人の気配はなく、室内は
「海星」
家の何処かで倒れているのではないか。いつから、どうして。早く処置をしなければ手遅れになるかもしれない。
脳内で言葉にするより早く、陽人の心臓が鼓動を
クローゼットの折れ戸が毛布を数センチ挟んでいる。
陽人は進行方向を正して、出来るだけ音を立てぬようゆっくり
ハンガーで
「海星」
「おかえり、兄さん」
返事をした海星の顔色はよく、涙も
陽人はほっとして、部屋の電気を点けてから、再びクローゼットの前にしゃがんだ。
「見付けた」
「
海星が毛布ごと
「ゴブレットの妖精は丸まっていたの?」
「体勢ではなくて。息苦しそうだったから、どんな種類の苦しさだろうと思って」
相手の気持ちを推し量る事が出来る自慢の弟と言いたいところだが、安易な同化は自傷に等しい。死者の気持ちに寄り添う為に生命を絶つようなものだ。
「危ない真似はしていないね?」
「何も。限界まで息を止めたり、息継ぎなしで歌ってみたり」
「水に顔を
「…………」
思い付かなかった手らしい。海星が目から
「グラスは水を注ぐものだ。息苦しさの説明は付く」
「絶対にしないで」
陽人はいつもより少し強めに
「立てる?」
「大丈夫」
海星は答えたが、自らを包む毛布を踏んでいて、身体が中腰で
「ありがと」
「かくれんぼなら僕の勝ちかな」
片寄ったクローゼットの服を整えて、折れ戸を閉める。微笑んで振り返った陽人を待っていたのは、海星の気難しそうな
大笑いを求めた冗談ではなかったが、感情の針がマイナスに振れる事も想像していなかった。負けず嫌いの匡士でも悔しがらないだろう。
「海星、どうかした?」
陽人の呼びかけに、海星はなかなか答えない。窓の下を自転車の音が走り抜ける間が過ぎて、彼はぽそりと
「かくれんぼ」
言葉の意味を確認するかのように、海星が静寂に声を置く。
不機嫌に見える表情の裏側で、思考が駆け巡っているのが伝わる。
「隠れている。隠している。息を詰めて……潜めて」
海星が顔を上げると、曇りの晴れた
「兄さん。ゴブレットの妖精は何かを隠してる」
「妖精は物質に干渉出来るの?」
「出来ない、と思う。そうじゃなくて、あの妖精には秘密がある」
物に
だが、海星が言う事を信じない選択肢の方が、陽人にとってはあり得ない。
「
「俺は見た事がない。
「人間の罪深さを感じるなあ」
「真作に何を誤魔化す必要があるんだろう」
海星が肩からずり落ちた毛布の端で口元を覆う。
陽人も別の切り口を探したが、スマートフォンの振動に遮られた。メッセージを受信したようだ。
「藻島さんからだ」
通知欄には彼の名前と添付ファイル名が表示されている。
陽人が画面を開くと、古いパンフレットの画像が一ページ読み込まれた。
骨董品のオークションには詳細が不可欠だ。鑑定に来歴が要るように、買い手も現物のみならず情報を重視する。
作者、制作年、売却履歴、材質に状態。鑑定者が品質の保証になる例もあった。
黒背景に撮られた写真に問題のゴブレットが写っている。
成り立ちは藻島に聞いた通り、イングランドの貴族──家名も明記されている──が息子の結婚祝いに作らせた複製品で、代理出品だが所有者の身元確認済みとある。
骨董品の基準は制作から百年が経過している事が第一条件だから、このゴブレットはアンティークとは呼べない。作品名も真作とは別に付けられたようだ。
「出品番号十二番『ガレット・デ・ロワ』」
「あのゴブレットの名前?」
海星が毛布の下から
「そうみたいだね」
ガレット・デ・ロワと言えば、お祝いの席で食べるフランスの伝統菓子だ。
「俺にも見せて」
「どうぞ」
陽人はスマートフォンを海星に手渡した。
海星が毛布を
「これって」
感情が顔に出
「気になる所が?」
「写真がぼやけていて見
海星が腕を下げると、毛布がふわりと床に着く。
「苦しくない」
「え……」
「あ、もくもくさん」
海星の手の中でスマートフォンが震え出す。陽人は
「本木先輩、こんばんは」
「こんばんはってお前な。陽人の
抜けるほどの毒があると思っているのは匡士自身だけではなかろうか。
海星が毛布を引きずってベッドに腰かけ、両足を引き上げる。彼の考えも気になるが、先に匡士の用件を聞いた方が良さそうだ。二、三、報告出来る話もある。
陽人が頭の中で段取りを組んだ矢先、匡士の深刻な声が耳に突き刺さった。
「紅田祝子の身元が割れた。
今日一日で積み重ねた情報の根底が揺らぐ。
「盗難は噓という事?」
詐欺師が窃盗の通報をすると言って、まず思い浮かぶのは保険金詐欺だ。が、となると彼女が被害届を渋る理由がない。
「少なくとも例のグラスは所有していた。紅田の母親に会って、遺産相続について確認したから間違いない。十年前に親元を離れていて、母親は彼女の今の仕事も知らないようだった」
「窃盗に遭って、詐欺師の身の上で後ろ暗くて通報出来なかった」
「署を変えたくらいで
「紅田祝子というのは本名?」
「そう、調べれば秒で前科が出る。……」
数秒の沈黙は匡士が
「後に正当な所有者を主張する為に本名を名乗っておいたと考えると、窃盗事件は起きたのだと思う。気になる目撃証言もある。
いよいよ公式に捜査が始まる。
陽人はこちらから情報の共有を切り出した。
「ゴブレットの素性も特定出来たよ」
「! これから頼むつもりだった」
「お役に立てれば幸いです」
陽人が決まり文句で答えると、匡士が声に喜色を
匡士が電話口から離れて息を吐く。
「助かる。ひとまず馬鹿高いアンティークじゃないんだな」
「落札価格は二百ポンド、三万円くらいだった」
「安物だろうと通報しない理由と相談した意図は依然、謎だが」
「何が目的なのだろうね」
陽人は
謎は
それ自体の構成要素を
それぞれの立場から時を追う。いつ、何を見て、どう行動したか。歩んだ道筋が
特別な事ではない。人と関わる時に相手を想うのと同じだ。
被害者の視点で、加害者の視点で。
事実を矛盾なく成立させる所に真実は存在する。
「解ったかも」
「分かった」
陽人と海星の声が別の角度から一致した。
何処かの水平線に、陽が昇ろうとしていた。
*
秋の夕陽が赤い海に沈む。
夜闇は街全体に
「お疲れ様」
捜査三課の引き継ぎを終え、日勤の刑事が方々へ散って行く。席に戻らず家路を急ぐ者、席に残って終わらなかった仕事を再開する者、そんな同僚に話しかけて邪険にされる者。
気を
長い黒髪をポニーテールにして、スーツのジャケットのボタンを外す。彼女は未開封のペットボトルを机に置いて、離す手で緩慢な空気を
「用もないのに居座るな。気が散る」
「黒川さん、怖い顔は犯人だけにして下さいよ」
苦笑いでやり過ごそうとする同僚を彼女は決して見逃さない。
「私がどんな顔をしようが私の勝手だ」
黒川が眼光険しく突き放す。
日勤の刑事らは笑顔を引き
「いやあ、折角おしゃれな眼鏡を掛けてるんだから表情もねえ」
「あ、本当だ。どうしたんですか、黒川さん。格好いいフレームじゃないですか」
同僚が驚くのも無理はない。黒川は配属以来、身だしなみ以上の装飾を毛嫌いしている節すらあった。眼鏡も丈夫さが取り柄のチタンフレームで機能重視のデザインの物を使っていたが、今日は鮮やかな青いセルフレームの眼鏡を着用している。
化粧は相変わらず日焼け止めと
「私がどんな眼鏡をしようと私の勝手だ。だが一応、礼は言っておく。そうだろう、格好よかろう」
「何処が礼ですか」
匡士は流石に聞き流せなくなって会話に割り込んだ。
「遅刻したな、キキ。犯人を逮捕する時も少し遅れるからカフェに入っていてくれと頼むつもりか?」
矛先が匡士に変わったのをこれ幸いに、日勤の刑事らが背を向ける。
匡士は甘んじて身代わりを託された。元より夜勤で組む予定だった上、匡士からも話がある。
「黒川さん、頼みがあるんですが」
「何だ。金の始めが縁の切れ目。無心をした日に付き合いが終わると思え」
「
匡士がキャスター付きの椅子を引き寄せて座ると、黒川も異変を察知した様子で自分の席に腰を据える。匡士はノートパソコンを開いて電源を入れた。
「見て下さい。
「お前、越境捜査を」
「最後まで聞いて、規則違反だと判断したら引き渡して
本音ではなかったが、まずは話をしなければ始まらない。匡士の出した条件に、黒川は鼻白んで
「いいだろう」
「二日前の録画です」
匡士はノートパソコンのスロットにマイクロSDカードを挿した。
動画ファイルを開く。画角は店の前の幅五メートルに固定されており、通行人と店に出入りする客が映っている。匡士はシークバーを動かして問題の位置で再生した。
「ここからです。南側から男が走って通り過ぎます」
「ストップ」
黒川が中指で机を叩いて映像を一時停止させる。
人通りが途切れた画面に、ブレた男の影が映り込んだ。
黒いパーカーに砂色のズボン、スニーカーだろうか、靴は白っぽい。年齢に伴う脂肪が付いたふくよかな体型で、走り方にもこれといった特徴はなく、顔が映っていなければ個人の特定は難しそうな背格好である。
「何か持っている」
黒川の着眼点は三課の刑事らしい。匡士は動画の一部を拡大した。
「グラスです。被害者は高価なアンティークだと主張しています。鑑定を頼んだんですが、写真だけでは判断が付かないそうで」
「アンティーク」
黒川が左右の目頭を指で挟んで、
「詐欺だったら隣、強盗だったら更に隣だ」
「空き巣なので三課っすね」
「管轄外は論外だ。どういうお節介でちょっかいを出している?」
中指が
「昨日、黒川さんが𠮟り飛ばした人です」
匡士は紅田が藤見署を訪れたところから今までの経緯を、重要な部分だけ搔い
初めは
相談者が通報を渋っている事、彼女が詐欺で何度か訴えられ、不起訴になっている事を告げると、黒川はいよいよ真剣な顔で匡士に詰め寄った。
「防犯カメラの男は?」
「
「通報がなければ保土ケ谷署でも動きようがなかろう」
警察の大前提である。匡士は
「こっちは藤見通りのアウトドアショップの店内カメラ映像です」
「三好じゃないか」
「店員から寝袋を注文したと聞けました」
「どうやって見付けた?」
黒川は今にも匡士の胸倉を
「勤務外だからって法には従いますよ。三好の自宅アパートは藤見市内にあって、会社の同僚からキャンプが趣味だと聞けました。地元の専門店には行くでしょう」
事実、三好はアウトドアショップの店員が顔を覚えている程度には店に通っていた。
「つまり、逃走中の容疑者を管轄内で発見した事にするのか。紅田に通報させられるのか?」
「被害者の家から逃げる三好の姿を配達員が目撃してます。窃盗罪でなく、住居侵入罪で証言して貰う
「紅田の家は保土ケ谷」
自身に確認するように言って、黒川が理性的な表情を崩壊させる。
「という事は、面っ……倒くさい調整を私に丸投げする気か」
「直属の上司ですので」
匡士が陽人を手本に友好的な笑みを浮かべると、黒川が
「噓くさい笑顔を向けるな」
慣れない事はするものではない。匡士が拳を頰骨に押し付けて筋肉を
「まずは任意で引っ張りに行くぞ。保土ケ谷署への引き渡し期限は交渉しないからな。相談者の件は時間内に始末を付けろ」
「了解」
「それと、雨宮
黒川が
「有能だなあ」
匡士は彼女の伸びた背中に感心しながら、私物のスマートフォンで陽人の番号を呼び出した。
「本木先輩、こんばんは」
「こんばんはってお前な。陽人の
くだらない会話で笑えないのが残念だ。
捜査に支障を来さないラインに注意して事情を陽人に説明する。紅田の素性も来歴と見れば、ゴブレットの鑑定の役に立つかもしれない。
更に匡士が実物の鑑定を依頼したいと伝えようとした時、スマートフォンから二人分の声が聞こえた。
「解ったかも」
「分かった」
それぞれ無意識の独白の様な陽人と海星の得心。
時計の長針が六の文字を指す。匡士の脳内で始業の鐘が鳴った。
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