第一話 ゴブレット④


 タクシーの運転手がバックミラー越しにまゆを下げる。

「本当にメーター回していいの? 後で文句言わない?」

「ドライブレコーダーの録画が証拠になりますよ」

 匡士が警察手帳を畳んでスーツの内ポケットに仕舞う。それから返す手で財布を開き、千円札を二枚、支払いトレイの上に置いた。

わいじゃないんで。運転手さんの分のおやつが要るでしょ。あ、領収書はもらって来て下さい」

「刑事さんがそう言うなら、あんパンでも見付けてきますかね」

 運転手は千円札を受け取ると、タクシーを降りて踏切の方へ歩いて行った。

 線路を挟んで駅のホームに面したコインパーキングには、陽人らが乗るタクシーの他に五台の普通車が駐車されている。

 駅周りの路地は細く一時停止も困難で、タクシーが駐車場に停まっていても違和感がない。見た人は迎車か運転手の休憩時間と解釈してくれそうだ。

 後部座席の窓に使われるプライバシーガラスが可視光線の透過率を低下させ、外から車内をうかがにくくする。匡士が踏切を監視している事を、行き交う人々は想像もしないだろう。

「警察の仕事ではないのでは?」

 祝子は相談という形を選び、被害届も出さない。警察が捜査をする義務はないはずだ。にもかかわらず、匡士が雨宮骨董店を訪れ、陽人を伴って祝子に会い、タクシーで張り込みをする理由に正当性がない事は彼自身の沈黙が雄弁に語っているも同然だった。

「おひとし」

「そんなんじゃねえ」

 身体の大きな匡士はよく狭い空間で不必要に身をかがめる。頭突きを回避する癖が付いているようだ。

 彼の世話焼きに助けられている人は多いのだろう。警察の仕事ではないかもしれないが、匡士の人助けの資質は彼と刑事の職を強く結び付けていると陽人は思う。

「……どうして犯人を知っていると?」

 低い声で尋ねられて、陽人は助手席の陰から駅のホームを忍び見た。

「紅田さんの被害届を出さない理由が一貫していなかったから、かな」

 多くの人間は感覚をいちいち言語化しない。陽人の中にあるイメージもほとんどカフェの空気と音楽に溶けた無形の印象だ。

 祝子は会った時から不安そうだった。

「警察の多忙を気遣ったかと思えば、舌の根も乾かぬ内に警察は安物の捜査を真面目にしない、警察に頼んでも盗まれた物は返ってこないと不信感を理由に挙げたよね」

「建前で本音を隠しきれなかった線は?」

「ある。だとしても被害届を出さない理由が成立しない」

 駐車場に人が入ってくる。匡士が窓から離れて警戒したが、駐車してあった一台の車が何事もなく発車して行っただけだ。

 エンジン音が走り去り、線路に緑の列車が到着する。

「被害届を出しても出さなくても、警察は無能で盗品は返って来ないのだから」

「確かに」

 匡士がけんしわを寄せた。

 彼はゴブレットが高価なこつとう品だと証明して、どうにか捜査を始めようとしていた。被害者に疑いの目を向ける以前の状況である。

「だが、解らないな。犯人に捕まって欲しくないのだとしたら、警察に相談なんぞしないで黙っていればいい」

「紅田さんが気にしていたポイントは三点。捜査の規模、犯人と盗品の処遇、ゴブレットの鑑定結果。素直に考えると、ゴブレットが安物なら人間関係を優先して通報しない、高価なら刑の軽重とてんびんに掛けて通報を視野に入れる……そんな感じかなあ」

 陽人は頭の中のイメージを言葉にして取り出したが、まだ何か、形にならない感覚が残っている。水の中にガラスを沈めたみたいに、光を当てると違和感があるのに透明なそれは水に同化して輪郭も分からない。

「管轄外の警察署に相談したのが、通報しないと決断した時に姿をくらませる保険だとしたら、名前も本名か危ういな」

「居住地もね」

 陽人は助手席の陰からフロントガラスの先に目を凝らした。

 自宅の最寄り駅に客人を迎えに来る場合、訪れる人物に注意を向ける。通い慣れた風景は意識すらしない。

 しかし、祝子は不安げに目を泳がせて、しきりに周囲を確認していた。

「来た」

 カフェの方角から現れたデニムのワンピース。紅田祝子だ。

 彼女はホームに列車が入って来るのを見て走り出そうとしたが、踏切に阻まれて立ち止まる。外出か帰宅か、藤沢行きに乗りたいらしい。

「おれは紅田を追う。陽人は帰れ」

「行ってらっしゃい」

 踏切が上がり、祝子が歩き出す。

「今日はありがとな」

 匡士は運転席に腕を伸ばして後部ドアを開けると、小走りに駅へ向かった。

 タクシーのドアは手で閉めても良いものか。陽人が匡士のいた場所に身体をずらして座り直すと、入れ違いで運転手が帰って来た。

「張り込みはおしまいで?」

 薄茶色のビニール袋は弁当と缶コーヒーらしき形に変形している。

「お昼時に申し訳ありませんが、車を出して頂けますか?」

「実はタクシーはお客様を乗せて走るのが仕事でして」

 運転手が白けた口調で答えて駐車料金を支払いに行く。彼は三十秒で戻って運転席に乗り込んだ。

「どちらまで?」

 弁当の袋が助手席に収まる。

ぜにあらいべんざいてんにお願いします」

 陽人は行き先を告げて、スマートフォンのロックを解除した。

 銭洗弁財天ふく神社の境内には霊水が湧く。

 きゆうこうばいの坂道の中腹に位置しており、最も近い鎌倉駅からでも二十分ほど歩く。

 みなもとのよりともが夢のお告げに従って霊水の洞に宇賀神をまつったのが始まりで、銭洗の名の通りゆうすいで金を洗うと何倍にも増えるという言い伝えは、後にほうじようときよりが一族繁栄を願って銭を洗った事に端を発する。

 金運上昇の御利益にあずかろうと参拝する商い者も多い。

 舗装された坂道の途中、本道から枝分かれするトンネルの入り口に石の鳥居が立っている。山の緑が垂らすつる植物を潜って低いトンネルを抜けた先、待ち構えるのは幾重にも折り重なる鳥居だ。

 静寂が雪け水の様に辺りを冷たく満たす。更に歩を進めると、開けた空が殊更青く感じられた。

 社務所の広いひさしの下に、参拝者があいまいな列を成す。

 陽人は順番待ちの輪に加わって、ろうそくと線香を購入した。白く細い蠟燭は本宮傍に整列するしよくだいに、線香は香炉に献ずる。本宮に並ぶ列は社務所よりめいりようだ。

(お邪魔します。日々それなりに頑張ります)

 陽人は本宮に手を合わせ、あいさつを済ませると、人の流れから外れて奥宮の入り口が見える位置に控えた。

 奥宮とは銭洗の霊水が湧くどうくつを示す。顕になった山の岩肌は、人の暮らしが勇壮な自然の一部でしかない事を思い出させる。八百年前にも人がこの地を踏み、この白色がかった岩肌に触れたと思うと、陽人の心はその事実に吸い込まれて没頭する。

 骨董品とたいする時と同じだ。短い人の生命で受け継ぎつないだ長き時の尊さは筆舌に尽くし難い。

 深呼吸をして山の空気に肺を浸すと、自我が薄れる感覚がした。

「雨宮ジュニア」

 捜しに来た人物に話しかけられて、陽人は微笑み直した。

「こんにちは、しまさん」

「何を見てにやけてやがる」

「岩……ですかね」

「確かに立派だわなぁ」

 彼は意外とすんなり納得して、総髪の尻尾しつぽを地面に向けた。

 藻島はアンティーク・フェアでよく顔を合わせるディーラー仲間の一人だ。とは言え、年齢は陽人の三倍もある。

 岩山を仰ぐ横顔は日に焼けて硬くなった皮膚に皺が深く刻まれている。髪は歳相応に色を失って、当人いわく身長も若い時分に比べて縮んだらしいが、脂肪がぎ落とされた頰も首も衰えるどころかせいかんで生命力が行き届いている。

 ブラウンベースのパンツのトーンオントーンと、マフラーの紺と赤のマドラスチェックをけんさせないセンスは絶妙で、年上の彼の方が若々しくすらあった。

 陽人も彼と一緒に岩山を見上げた。

「今日はいい天気ですね」

「急用なんだろ、雨宮ジュニア」

 散歩コースで待ち伏せをして、今更誤魔化すのも無意味だろう。

「藻島さんなら御存知かと」

 陽人はスマートフォンにゴブレットの写真を開いた。匡士から転送してもらったものだ。

 藻島がセーターのV襟に下げた老眼鏡を掛ける。彼は一目見て細めたまぶたを開いた。

「見た覚えがある。オリジナルは一七四〇年頃に作られた二脚セットで、割れずに生き残った一脚だ」

 やはり彼は生き字引である。陽人は感嘆して思わず拍手した。

 藻島が左頰をゆがめる。

「何じゃい」

「藻島さんの経験値と記憶力は無形文化財ですね」

おだてるな。朝飯もうろ覚えのじじいだよ。そら、ステムのとこ、涙型のノッブが縁起でもねえって珍しがった所為せいだ」

「涙型のノッブに迷信があるのですか?」

 ノッブとは、脚付きグラスのステム部分に施す膨らみを指す。装飾を意図として主に球体を基本とするが、中には動物や果物をかたどるものもあった。象をんだうわばみを思い浮かべるとおおよそ合致する。

 藻島が老眼鏡を外して襟首に掛け直す。

「十数年前、英国貴族が息子の結婚祝いに複製品を作らせて、親しい参列客に配ったそうだ」

うれし涙かな」

「破局したって話は聞いてねえな」

 シニカルに首をすくめて吐く藻島の毒は乾いて軽い。陽人は持ち主とゴブレットの情報を脳内で振り分けた。

「オリジナルの可能性はありますか?」

くだんの英国貴族に撮らせて貰った写真だったら真作だ」

 念の為、確認しても良いが、写真は日本の民家の一室で撮られている。

 香炉から線香の煙が風に流れて漂う。藻島が鳥居群の方へつまさきを向けたので、陽人も合わせて歩き出した。

「何年前だか、転売品がよこはま港にも何脚か入って来るって前情報があった。だが、実際にオークションに出たのは一脚だけでな。俺は元々、百年未満の非骨董わかぞうに興味はなかったが、古道具屋連中は舌打ちしてたぜ」

「売却主は当然……」

「代理出品に決まってら」

 陽人は身をかがめてトンネルに入った。

 引き出物を売り払う参列客の事情をディーラーは追及しない。違法でない限り、買い手から持ち主のせんさくをしないのが古物取引のイロハだ。

「探してるなら何人か声かけてやろうか?」

 藻島は陽人の事情も詮索しない。

「そこまでお世話になる訳には。売りに出された記録は自分で調べます。ああでも、当時の資料が残っていたらお借りしたいです」

「そんなら、うちの物置にチラシの一枚もありそうだ。見付けたら連絡する」

「ありがとうございます」

 最後の鳥居を潜ると、街色の風が線香の残り香をさらった。

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