第一話 ゴブレット③



 秋のしおさいは第二の春を感じさせる。

 夏ににぎわった人が去り、まだ寒さの手前にいる。物悲しさを遠ざけるのは波が乱反射させるまばゆい陽光だ。網膜でキラキラ輝いて、身体の内側が光で溢れている。

 ふじさわからしま電鉄に乗って五駅を過ぎた辺りで列車は徐行運転を始める。更に二駅を経て再び速度を上げる頃には、窓の外一面にぼうようと広がる海に意識を満たされた。

「次で降りる」

 匡士に声を掛けられて、陽人は列車に乗っていた目的を思い出した。

「そう言えば、所有者に会いに行くのだったねえ」

「忘れんな。理由もなくおれらが仲良く並んでお出かけする訳ないだろ」

 車窓の景色がホームに入って停止する。匡士はいつも早足だ。陽人がICカードを用意しながら降りると、改札の手前で匡士が待っている。

「けど、僕の修学旅行に合流して来たよね。一学年上なのに」

「あれは陽人が」

「もしかして、あの人?」

 陽人は改札の外に立つ人と目が合って、会釈をしてみた。

 インディゴ色のワンピースはデニム地だろうか。シャツをそのまま長くしたようなデザインは太めの革ブーツと相性が良い。正面からはショートカットにも見えるが、真ん中で分けた前髪も頭の形に沿って後ろに流れているから、長髪をひとつに結っているらしい。

 明確はつきりした目鼻立ちは化粧映えして、先端にパールをり下げたチェーンピアスと均整が取れている。だが、表情は不安の影をぬぐいきれずに曇って、時折泳ぐ目は何かにおびえているかのようだった。

べにさん、すみません」

 匡士が足早に改札を通り抜ける。デニムワンピースの彼女がお辞儀をした。

「お疲れ様です」

「迎えに来て頂かなくとも御自宅まで伺いますよ」

「私も用事で出ていて、一本前の電車で帰ってきたところなんです。そちらがお電話で伺った方ですか?」

 陽人は匡士に追い付き、隣に立った。

「雨宮骨董店の雨宮陽人です。初めまして」

「わざわざありがとうございます。紅田ときと申します」

 祝子は名乗り終えると早々に半身を返した。

「近くに小豆あずき美味おいしいカフェがあります。お話はそちらで」

 祝子と匡士の後に続いて踏切を渡りながら、陽人は空に浮かぶ雲と幾つかの疑問を数えた。

 匡士はふじ警察署の捜査三課に所属する刑事だ。三課が取り扱うということは窃盗事件だが、藤見署の管轄は雨宮骨董店のある地域に限られる。県内であろうと列車を乗り継いで市をまたげば担当外だろう。

(事件ではない?)

 祝子が、匡士の個人的な知り合いなら有り得る。しかし、鑑定の紹介だとすると、本人が現物を持ってくる方が早い。

 家から持ち出せないのかとも思ったが、祝子はカフェで話すと言い、肩に掛けているミニバッグは財布と一体型でスマートフォンくらいしか入りそうになかった。

(何だか変な雰囲気だなあ)

 陽人は意識しないと微笑んでいるような顔になるらしい。考え事をしている彼を、祝子はいぶかる様子もなく、カフェに二人を案内し、窓際に席を取って注文を済ませた。

「雨宮さんは骨董店の店員さん?」

「はい。鑑定、買い取り、販売をしています」

「お若いのに素晴らしいです」

 感心する祝子は陽人より若干歳上、三十絡みと予想される。彼女は運ばれてきたコーヒーに砂糖とミルクを加えて、スプーンで水面に渦を描いた。

「お電話で伺ったお話では、鑑定が必要だそうで」

「窃盗罪は被害状況で量刑が異なります。主に、被害額と返済です」

「返済?」

 祝子が聞き返す。匡士はコーヒーに手を付けずに答えた。

「盗んだ分を弁償しているかいないかで罪の重さが変わります。まあ、刑事の捜査は十円でも十万円でも同じです」

「私が、奇妙おかしな相談をした所為せいですね」

 苦々しげにつぶやいて、祝子が黒目だけを上へ動かす。彼女はミニバッグからスマートフォンを取り出して操作すると、陽人の方に向けてテーブルに置いた。

 画面にはゴブレットの写真が表示されている。

「私が父から譲り受けたグラスです。これが先日、盗まれました」

「お気の毒に」

「エントランスのかぎに頼って、自宅の施錠をおろそかにした私の自業自得でもあります」

「必要なのは鑑定ではなく捜査では?」

 陽人が匡士に話を振ると、彼は無愛想な顔でコーヒーカップに手を伸ばす。

 祝子が席の周りを忍び見る。

 昼食時を過ぎたカフェは空席が目立つ。白いレースのカーテンは古く、あちこちに吊り下げたドライフラワーが適度に雑然とした印象を与えて、人がいなくとも閑散としているようには感じない。

 店員が壁側の席で空のグラスに水を注いで店内を一周する。

 祝子は店員がちゆうぼうに戻るのを見届けてから言葉を継いだ。

「私が、被害届を出していないんです」

「どういう事です?」

 陽人は半分に割ったマフィンを皿に置いた。

 逆に祝子がバターナイフを取って、粒あんひとすくいする。

「刑事さんもお忙しいでしょう? ですから先にお尋ねしたんです。こういった物の場合、どれくらいの規模で捜査されて、犯人と盗まれた物はどうなるのかって」

 マフィンに盛られた粒餡がふっくらしている。彼女は粒餡ごとマフィンをかじって、更に粒餡を重ねた。

「よく聞くじゃないですか。警察にしてしまうと証拠は返してもらえないとか、物さえ戻れば示談になるとか」

「窃盗は刑事事件、示談で済むのは民事事件です。それで不起訴になったり、刑が軽減されたりはしますが……証拠品の返却時期は事件によるとしか」

 匡士の疲れた口調から察するに、この問答は初めてではないようだ。

「小学生がクラスメイトに消しゴムをられても、警察の方は捜査しないですよね」

「まあ、しないですね」

「こんなつまらない事件なんてと舌打ちしながら捜査されたくありませんから」

「しませんよ」

「警察に捜査して頂くに値する事なのか。捜査をして頂くメリットとデメリットは。きちんと検討して決めようと思って御相談に伺ったら、女性の刑事さんにさっさと被害届を出せと怒られました」

 陽人の脳裏に、匡士の上司、くろかわの顔が浮かぶ。彼女なら言いかねない。

 匡士がためいきみ込んでコーヒーでふたをした。

「被害届が出されなくとも事件が発覚すれば警察は捜査をします。現段階では、あなたが写真のグラスの所有者で、盗まれたという事実が確認出来ないだけです」

 話の断片から、陽人にもようやく事情が推測に及ぶ。

 潜在的事件だ。

 警察が書類上で認定出来ないだけで、事は既に起こっている。盗まれたグラスが高価な物だと分かれば捜査に値すると考えて、祝子は被害届を出す気になるかもしれない。その為に陽人が駆り出された。

 陽人はスマートフォンの写真を隅から隅まで見た。

 ゴブレットの彫刻に反射する光は太陽光だ。ゴブレットを置いたテーブルには傷や汚れがあり、ほこりも落ちている。

 対象物から写真の外周に注意を移すと、左下隅にテーブルに映り込んだテレビの角が確認出来る。外枠が太いから比較的古い型ではないだろうか。

「画面に触れても構いませんか?」

「どうぞ」

 陽人は祝子の許可を得て右上隅を拡大した。緑色の網目はセーターだろう。おそらく個人宅で撮られている。美術館の展示品や店の商品ではなさそうだ。

如何いかがですか?」

 祝子に尋ねられて、陽人は速やかに写真を等倍に戻した。

「写真での鑑定は不可能です。鑑定士は実物と来歴を調べて判断します」

「来歴というのは?」

こつとう品が作られてから、あなたの手元に来るまでの経緯です」

「物を見ればしんがんが見抜けるのかと思っていました」

 祝子が落胆したようにまつを伏せて目をらす。陽人はにこりと微笑んだ。

「よく言われます。お父様はお譲りになる際に何かおつしやっていましたか?」

 覚書でも記録がのこっていれば最善だ。

 匡士が一緒になって祝子の返答を待ち、かたを吞む。祝子は細いあごに手を添えて、薄く開いた唇からうわごとの様にあいまいな声をこぼした。

「『王様の秘密の杯だ。世界にひとつの特別だぞ』」

 大気が冷えて音が消える。グラスに水鏡が張るようだ。

「『祝子も大切な世界に一人だけ。注いでも注いでもあふれてなくならない、お父さんから祝子への愛のあかしだ』」

 思わず言葉を失った陽人と匡士に、祝子が我に返って破顔した。

「お給料を娯楽に使い込んで、家では大声で威張り散らして、母が風邪を引いても自分の食事を作らせるようなろくでなしのたわごとです。甘い言葉で暴言を帳消しにしようだなんて、人の感情で引き算出来ると勘違いしてるんです」

「お父様からお話を聞けますか?」

 匡士が顔をしかめたが、鑑定に不可欠ならば陽人はかなければならない。

 祝子の笑みが世を疎むようにかげる。

「亡くなりました。遊び仲間とけんをして暴れて、警察に連れて行かれた後、帰って来ませんでした」

「警察が何か? 失礼」

 雑に置かれたコーヒーカップが耳障りな音を立てる。匡士が短く謝ると、祝子は頭を振ってチェーンピアスの先のパールを揺らした。

「事故です。帰り道に側溝で足を踏み外して気を失って、通行人に発見された時には手遅れでした。本当に馬鹿な大人……」

「お悔やみ申し上げます」

「お気遣いなく。母は存命ですが、死後も父とのあらゆる関わりを拒みました。配偶者として現金だけを相続して、遺品は全て私が受け取った形です」

「購入された店や国でも分かれば同業者を当たれます」

「国内なのは確実です。パスポートを作った事がなくて、県外に出た事もないんじゃないかな。ずっと港の仕事をしてました」

 祝子が真剣な顔で考え込む。鑑定をして欲しい気持ちはあるらしい。

「入港した商人と飲む事もあって、度々お土産を頂いたというか、というか」

 わずかなアクセントの差異が百を語る。匡士が苦い顔でコーヒーを飲み干す。

 飲食物以外のけ事はばく罪に問われる。深掘りするのは得策ではなさそうだ。

「調べてみます。遺品の中に外箱や書類の様な物がありましたら御連絡頂けますか? 後から作られた箱でも構いません。来歴を辿たどる手がかりになります」

 陽人は懐からカードケースを取り出して、雨宮骨董店の名刺をテーブルに置いた。

 祝子がスマートフォンと一緒に名刺を引き寄せる。彼女は簡素な文面に目を通して口元をほころばせた。

「骨董屋さんって探偵みたいですね。物の探偵」

 面白いたとえだと思った。

 その後も、匡士は何度か被害届を出す事を勧めたが、祝子の返事はいずれも煮え切らない保留だった。

 外に出るとまだ日は高く、涼しい潮風が襟首を擦り抜ける。

「私は反対方向なのでここで。よろしくお願いします」

「どうも」

 歯切れの悪い匡士に背を向けて、祝子のブーツがかかとを鳴らして歩き出した。

「紅田さん」

 陽人が呼び止めるのが遅れたのは、今、見聞きした情報を統合し終えた為だ。

 藤見署への相談、鑑定依頼、保留されている被害届、父親の言葉、不確かな来歴、待ち合わせと別れの場所。

 祝子が振り返る。

 陽人は生まれたばかりの疑問を言葉にした。

「あなたは、ゴブレットを盗んだ犯人を知っていますね?」

「!」

 匡士と祝子が凍り付く。やはり感情には質量があるのだ。二人の時間は停止し、全身を動かせないでいる。

 潮風が街路樹をざわめかせる。じわり、影が動く。

「見当も付きません」

 祝子はそれだけ答えると、会釈をしてさんを西へ曲がった。

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