第一話 ゴブレット②



 廊下と居間を隔てるガラス障子に、一足早い冬が舞う。

 りガラスに雪の結晶を模した柄が散らされており、向こう側に立つ海星の毛布が雪山の様だ。

 陽人がキッチンを回って居間を覗くと、テーブルに三人分のランチョンマットが敷かれて、それぞれにフードパックと水の注がれたグラスが配られる。

「お疲れ」

「ただいま」

 陽人は匡士に応えてキーボックスに店のかぎを仕舞った。

「海星、遅くなってごめんね」

「寝てたから」

 海星が毛布を引きずってソファに座る。テーブルを囲んで、手を合わせたのは相談したみたいにほとんど同時だった。

「いただきます」

 巨大なジュエリーケースの様な形のフードパックを開けると、指輪ではなく山盛りの野菜が詰め込まれている。陽人はフォークを箱の底まで潜らせて、三角形のタコスを掘り出した。まだ湿らずパリパリしている。

「シーザードレッシングのタコスは初めてだ。とうもろこしの風味と合うね」

「署の駐車場にキッチンカーを誘致してる。行政の地域支援らしい」

 大口を開けている訳でもないのに、匡士のタコスは話しながらも見る見る減って、もうミニトマトとパプリカの欠片かけらしか残っていない。

 それを見て、まだ半分も手を付けていない海星が、ソファから足を下ろしてテーブルにフードパックを置いた。

「お茶れる」

「だったら、おれが──」

 匡士が腰を浮かせたので、陽人は彼のシャツのそでつまんで引き留めた。互いに遠慮するような間柄でもない。早く食べ終わった匡士が立つのは理にかなっているが、物事の真理より弟の自立心を尊重したいのが兄心である。

「最近、ハマってるんだ。ハック料理」

「何だそれ」

「工夫と文明の力で作る簡単レシピかな。科学実験みたいで面白いんだって」

 キッチンでは海星が茶葉を物色している。どの缶に何が入っているのか、まだ覚えていないのだろう。

「危なっかしいな」

 匡士ががゆそうにする。

「耐えて見守るのが大人の務め」

 陽人が穏やかになだめると、匡士は全体重をソファに落とす。ほおづえを突いた人差し指で耳元を打って、手持ちはたにも丸分かりだ。

 陽人は野菜の欠片をフォークで集めた。

「ところで、先輩が見せたいものって何?」

「ああ。飯が済んだら」

「最後の一口」

 陽人はフォークを口に運んで、フードパックを空にして見せた。

 キッチンの海星が、茶葉と牛乳をテーブルに並べている。

 匡士が懐からスマートフォンを取り出した。

「率直な感想を聞かせてくれ」

 骨ばった中指が画面に滑らされ、一枚の写真が全面に表示された。

「ゴブレット」

 陽人は目を輝かせた。

 写真には、脚付きグラスが写っている。液体を注ぐボウル、設置面に円を広げるフット、二者間をつなぐ柱となるステムの三パーツから成り立つガラス製の杯だ。

「ワイングラスとは違うのか?」

「スパゲッティとタリアテッレくらいの差だけど」

「全く分からん」

 匡士が三白眼を無感動に据わらせる。陽人は画面に触れぬよう、指先でグラスの上部に輪を描いた。

「一般的にはワイングラスの方が容量が少ない。でも、メーカー基準やデザインによって逆になる事もあるから、併せて見る部分は脚」

「ワイングラスの方が細い!」

「そういう傾向はあるけれど、正確には長さかな」

 陽人がやんわり正すと、匡士が真剣なまなしを返してくる。根が真面目だ。

「ワインは温度管理が重要でしょう? だから、体温が伝わりにくいように脚が長く作られている。この写真のグラスは、ボウル部分は小さいけれど、脚がボウルの高さより短いからゴブレットだね」

「古いのか?」

「本物なら多分、とても。前に見たイングランド製のゴブレットに形状がよく似ている。先輩はガラス税って聞いた事ある?」

「ない」

 明確な返答は理解度を探る必要がないので話しやすい。陽人は微笑みを浮かべたまま、キッチンの海星を視界に入れた。

 海星がガラスのティーポットに茶葉とお湯を注ぎ、牛乳を足す。

「十八世紀後半、イングランドではガラス製品に物品税が課された対策で、職人は課税額を減らす為にゴブレットの脚を細くしたり、装飾のカットを施したりする事で重量を軽くした」

「生活必需品の課税はしんどいな」

「窓税とか、間口税とかね」

 日本でも時代、京都などで施行された。細長い建物を連ねる町屋は、通りに面した家の幅に課税された間口税に対応して作られた構造だ。入り口は小屋の様なのにうなぎの寝床の様に細長く、果ては巨大な倉庫に辿たどり着くなんて事もある。

「雨宮こつとう店が細長いのは、両親が京都のお師匠の骨董店にあこがれたからだよ」

「御両親は元気か?」

「お陰様で。先週、山の様に仕入れて置いて行った。鑑定が追い付いていないのに。勉強にはなるけれどね」

「さっきのテディベアも」

 匡士の得心に水を差すように、電子レンジがピピピと音を鳴らした。

「ガラスの話はどうなったの?」

 海星がぜんとして、ティーポットを取り出す。彼が余った方の手で三つのマグカップのとつに指を通そうとしたので、陽人は立ち上がって二つだけ引き受けた。

「だからね、脚が太いゴブレットは、本物なら一七四五年以前に作られたアンティークの可能性がある。写真だけで判断出来るのはここまで」

「成程な」

 匡士が写真のゴブレットをにらむ。陽人はマグカップをテーブルに置いて、いつまでも注がれないロイヤルミルクティーに気が付いた。

 海星がスマートフォンの画面にくぎけになっている。

「……苦しそう」

 薄く開いた唇から小さな声があふれた。

つらい。ううん、息苦しい」

 海星はまゆを寄せて首を振り、まるで目にした何かに影響を受けているかのように呼吸を浅くする。

「貸して。まだごはん途中だろう?」

 陽人は海星の手からティーポットを引き継ぎ、彼をソファに座らせた。

 匡士がまだ困惑を隠しきれず、いたわるように海星と距離を測ってひざに毛布を掛ける。

 海星には不思議な力がある。

 それが科学的に解明出来るものなのか、超常現象と呼ばれるたぐいのものなのか、陽人は知らない。しかし、彼の言葉を借りれば、ようせいが見えると言う。

 海星に話を聞く限りでは、時に小さな獣の様であったり、はねを持つヒトの様な形をしていたり、得体の知れない物質の塊だったりと様々だ。

 物にいているという表現で正しいのだろうか。妖精のがいぼうおおよそ、取り憑いている物の意匠に影響を受けており、妖精が苦しんでいる時、取り憑く物にも不具合が起きている事がある。因果関係は定かではないが、そういった例が前に確認されたのは事実だった。

「先輩」

 陽人はマグカップに茶しを載せ、ロイヤルミルクティーを注いだ。

 紅茶とミルクの香りが湯気と共に優しく広がる。

「実物が見たいな」

「は?」

 陽人の笑顔から一拍置いて、匡士が豪快に顔をしかめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る