雨宮兄弟の骨董事件簿2《第一話全公開》

第一話 ゴブレット①




 相対性理論が正しいとしたら、感情には質量がある事になる。

 軽薄、気重、羽が生えたような心地、重過ぎる愛。言語表現にも軽重を表す語が用いられるが、ここで唱えたい理論はでなく、手に触れられる物体の話だ。

「…………」

 はるは磨き布の切れ端をピンセットで挟み、蒸留水に潜らせた。

 アルベルト・アインシュタインの説を簡略化すると、重力は時間をゆがめるという。地球と異なる重力の星では時間の流れ方が異なって、ブラックホールは過去につながるとも言われている。

 では、我々の暮らす地球上ではどうだろうか。

 誰しも何かに夢中になって時を忘れたり、退屈な授業を永遠に感じたりした経験があるはずだ。

 つまり、喜びや不満といった感情に質量があり、観測者の時間を歪ませた事になる。

 時計の秒針の音が聞こえない。

 ルーペをのぞいて、らした布を金属の表面に当てる。

 黒いすすき取っては布を替えて数十回、ようやくあるべき凹凸が現れ始めた。

「シュタイフ社の銀ボタン。真正品の手がかり、ひとつ見付けた」

 陽人はピンセットを置いて、作業台にクマのぬいぐるみを座らせた。

 ぬいぐるみというと頭を大きく、手足を短くデフォルメして、愛らしいバランスを追求される事が多いが、シュタイフ社のテディベアは頭が小さめで手足は長く、背中にこぶを持った、動物のグリズリーに近い体型をしている。

 耳から頭部に通る縫い目が特徴だが、立体構造上、真似されやすいのでこれだけでしんがんを見分けるのは難しい。

 贋作フエイクで不自然さが現れるのは何と言っても摩耗加工だろう。

 人工的に摩耗させた毛並みは、やすりを円形に動かしたようなすり減り方をしがちだ。また、可愛がられたぬいぐるみは頭や手の毛並みが薄くなるが、贋作は満遍なく、人が通常触らない目の周りまで加工されている事がある。

 それから、匂いだ。

 陽人はテディベアに鼻先を近付けた。

 正しく年老いたぬいぐるみは、ほこりや人の匂いが染み付いている。

「いい香り」

 陽人は目を閉じて、このテディベアが生きてきた過去に思いをせた。わずかに香る煤の香りは、暖炉の傍で遊んだか、飾られていた為だろう。カポックは一九二〇年代に流行した詰め物で、陽人の主観になるが、一般的な綿より繊維の清涼さがある。

 加えて、チリソースととりにくの匂い。

「何故?」

 陽人は上体を起こし、テディベアと向かい合って首を傾げた。

「おい、陽人」

 低音の深みある声がおつくうそうに呼びかける。テディベアではなさそうだ。

 陽人が凝り固まった首を巡らせると、いつもと変わらぬ店内に、みの顔がたたずんでいた。

ほんもく先輩」

 古いごう天井を背にぬらりとした長身でこちらを見下ろしているのは、商品を買った事がない常連、本木きようだった。

 きようじんというには細身だが、競技用自転車を軽々と担ぐところは見た事があるから、密度の高い筋力と体力が備わっているのだろう。刑事には不可欠だ。

 涼しげな顔立ちとは裏腹に、情に厚い性格が表情に親しみを与えている。旋毛つむじの寝癖が気になるのか、匡士はいかつい手で黒髪をで付けながら口の形を曲げた。

「何遍呼べば気付いてくれるんですかねえ、あまみやこつとう店のお兄ちゃんは」

「お兄ちゃんだって」

 弟に呼ばれるのとは異なる趣がある。

「照れるとこ独特かよ。皮肉だからな」

「先輩。皮肉なんて気の利いた事、出来たんだね」

「お前のそれは純粋な悪口だぞ」

「おや、失礼」

 親しき仲にも礼儀あり。陽人は素直に謝って、テディベアに不織布を覆いかぶせた。

 まだ感覚がふわふわする。

 作業机を囲むコレクターケースは木枠を軸にしたガラス張りで、宝飾品やシルバーボックスなど小さな骨董品を陳列している。壁に飾られた絵画は売り物というより店員の趣味で選ばれる。但し、額縁は正真正銘の十九世紀製だ。

 先月入手したチッペンデール様式の椅子で足を投げ出す磁器人形ビスクドールは、元々座っていたグスタヴィアン・チェアに戻りたいと思っているかもしれない。が、こちらにも事情がある。

 アール・ヌーヴォーのブロンズ彫刻と脚の長い天球儀が寄り添う戸口に至るまで、店内に所狭しと並ぶ骨董品はどれも変わらずそこにあり、陽人と共に時を止めていたが、扉のガラス窓から街灯に明かりがともっているのが見えた。

「真っ暗だね。今、何時だろう」

「夜の七時半」

 匡士が案の定という顔で答える。

 鑑定作業に熱中して、陽人の時間は半日ほど飛んだらしい。

「察するに、先輩が持っているのは僕達の夕食かな」

たまたまだ」

「ありがとう。かいせいにも謝らないといけないね」

 陽人は作業椅子から腰を上げ、ブランケットをたたんでもたれに掛けた。それから、閉店の札を下げに行こうとした時、扉が開く音がする。

 しかし、ブロンズ彫刻のひだが美しく翻るのは風の気まぐれではない。百年以上前に作られた当時からこの形状だ。そもそも、店の入り口の扉は開いていない。

 陽人はカーディガンのすそを階段だんに引っかけないよう習慣で注意して、匡士の更に向こう、コレクターケースの奥を振り返った。

 奥の壁を埋める本棚に古今東西の古書が行儀よく背表紙を揃えている。骨董関連の専門書は常連客の希望で置いたものだ。

 目を凝らせば四つの棚に分かれていると気付けるだろう。その右から二番目の本棚が、手前にゆっくりと押し開かれた。

「おう」

 匡士が気安くあいさつをする。

 本棚の陰から最初に姿を見せたのは使い古した毛布。続いて、小柄な少年が眠そうな顔を覗かせた。

「海星、おはよう」

 陽人の挨拶にこたえて、まだ寝言の様な言葉にならない声を返す。

 長い前髪の下で寝ぼけ眼をしばたたかせて、部屋着は寝返りの所為せいか、前衛的なしわが寄っている。彼が軽く頭を振ると、黒髪がサラサラとほどけて光の輪を作った。

「おはよ。もくもくさん、ごはん何?」

「お前ら兄弟は揃いも揃って。差し入れじゃなくおれの夕飯かもしれないだろ」

「そういうのいいから」

 徐々にかくせいする海星は、意識と同時に言葉と表情も研ぎ澄ませていく。

 一回りも年下の彼に冷たく返されて、ためいきひとつで流せるのは流石の最年長だ。

「……タコスとブロッコリーのポタージュ」

 いささか不服そうではあるが。

 陽人は笑みをこぼして、再び足を外へ向けた。

「店を閉めてくる。二人で先に上がってて」

「あ、陽人」

 匡士が海星に紙袋を持たせて送り出し、自分は本棚の前にとどまる。陽人が足を止めると、いつもは身軽な匡士の肩に、布のかばんが掛かっているのが目に付いた。

「食い終わったら見て欲しい物がある」

「いいよ」

 陽人は応えて店の外に出て『閉店』の札を扉のフックに引っかけた。

 何を見るのだろうと思ったが、深くは考えなかった。

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