雨宮兄弟の骨董事件簿2《第一話全公開》
第一話 ゴブレット①
1
相対性理論が正しいとしたら、感情には質量がある事になる。
軽薄、気重、羽が生えたような心地、重過ぎる愛。言語表現にも軽重を表す語が用いられるが、ここで唱えたい理論は
「…………」
アルベルト・アインシュタインの説を簡略化すると、重力は時間を
では、我々の暮らす地球上ではどうだろうか。
誰しも何かに夢中になって時を忘れたり、退屈な授業を永遠に感じたりした経験があるはずだ。
つまり、喜びや不満といった感情に質量があり、観測者の時間を歪ませた事になる。
時計の秒針の音が聞こえない。
ルーペを
黒い
「シュタイフ社の銀ボタン。真正品の手がかり、ひとつ見付けた」
陽人はピンセットを置いて、作業台にクマのぬいぐるみを座らせた。
ぬいぐるみというと頭を大きく、手足を短くデフォルメして、愛らしいバランスを追求される事が多いが、シュタイフ社のテディベアは頭が小さめで手足は長く、背中に
耳から頭部に通る縫い目が特徴だが、立体構造上、真似されやすいのでこれだけで
人工的に摩耗させた毛並みは、
それから、匂いだ。
陽人はテディベアに鼻先を近付けた。
正しく年老いたぬいぐるみは、
「いい香り」
陽人は目を閉じて、このテディベアが生きてきた過去に思いを
加えて、チリソースと
「何故?」
陽人は上体を起こし、テディベアと向かい合って首を傾げた。
「おい、陽人」
低音の深みある声が
陽人が凝り固まった首を巡らせると、いつもと変わらぬ店内に、
「
古い
涼しげな顔立ちとは裏腹に、情に厚い性格が表情に親しみを与えている。
「何遍呼べば気付いてくれるんですかねえ、
「お兄ちゃんだって」
弟に呼ばれるのとは異なる趣がある。
「照れるとこ独特かよ。皮肉だからな」
「先輩。皮肉なんて気の利いた事、出来たんだね」
「お前のそれは純粋な悪口だぞ」
「おや、失礼」
親しき仲にも礼儀あり。陽人は素直に謝って、テディベアに不織布を覆い
まだ感覚がふわふわする。
作業机を囲むコレクターケースは木枠を軸にしたガラス張りで、宝飾品やシルバーボックスなど小さな骨董品を陳列している。壁に飾られた絵画は売り物というより店員の趣味で選ばれる。但し、額縁は正真正銘の十九世紀製だ。
先月入手したチッペンデール様式の椅子で足を投げ出す
アール・ヌーヴォーのブロンズ彫刻と脚の長い天球儀が寄り添う戸口に至るまで、店内に所狭しと並ぶ骨董品はどれも変わらずそこにあり、陽人と共に時を止めていたが、扉のガラス窓から街灯に明かりが
「真っ暗だね。今、何時だろう」
「夜の七時半」
匡士が案の定という顔で答える。
鑑定作業に熱中して、陽人の時間は半日ほど飛んだらしい。
「察するに、先輩が持っているのは僕達の夕食かな」
「
「ありがとう。
陽人は作業椅子から腰を上げ、ブランケットをたたんで
しかし、ブロンズ彫刻の
陽人はカーディガンの
奥の壁を埋める本棚に古今東西の古書が行儀よく背表紙を揃えている。骨董関連の専門書は常連客の希望で置いたものだ。
目を凝らせば四つの棚に分かれていると気付けるだろう。その右から二番目の本棚が、手前にゆっくりと押し開かれた。
「おう」
匡士が気安く
本棚の陰から最初に姿を見せたのは使い古した毛布。続いて、小柄な少年が眠そうな顔を覗かせた。
「海星、おはよう」
陽人の挨拶に
長い前髪の下で寝ぼけ眼を
「おはよ。もくもくさん、ごはん何?」
「お前ら兄弟は揃いも揃って。差し入れじゃなくおれの夕飯かもしれないだろ」
「そういうのいいから」
徐々に
一回りも年下の彼に冷たく返されて、
「……タコスとブロッコリーのポタージュ」
陽人は笑みを
「店を閉めてくる。二人で先に上がってて」
「あ、陽人」
匡士が海星に紙袋を持たせて送り出し、自分は本棚の前に
「食い終わったら見て欲しい物がある」
「いいよ」
陽人は応えて店の外に出て『閉店』の札を扉のフックに引っかけた。
何を見るのだろうと思ったが、深くは考えなかった。
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