第一話 女神のカメオ⑩


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 車の振動が豪快な貧乏ゆすりに感じられる。

「情報を集めて頂いて、鑑定のノウハウを御教授頂いて、果ては証拠品の選別と来た。雨宮陽人におんぶに抱っこだなあ、おい」

 黒川が全身でいらちを発して、黒いアタッシェケースを人差し指でたたいている。

 匡士はバックミラーを見ないていで鈍感に徹した。

「餅は餅屋です。自転車泥棒と一緒って訳にはいかんでしょう」

「贈収賄の捜査より神経がすり減る……スリップダメージがすごい」

 黒川の苛立ちはアタッシェケースの中身に対する緊張でもあるらしい。誤って紛失でもすれば謝罪では済まされない代物が入っているのだ。一刻も早く署に持ち帰りたいのが本音だろう。

「店の前に停めます。先に降りて下さい」

「いや、駐車場には私が持って行く。お前が兄弟に話を付けておけ」

 黒川は反論を聞かない高圧的な口調で指示すると、運転席から匡士を引きり出して、アタッシェケースを押し付けた。

「くれぐれも失くすなよ。宇宙が吹き飛んでも守り切れ」

 宇宙が吹き飛んだら訴える人も匡士も消滅しているが。理不尽な命令を残し、黒川が車を出す。匡士は営業中の札をひっくり返してから店の扉を開けた。

 幸い、店内には陽人しかいなかった。

「本木先輩。いらっしゃい」

「昨日は助かった。お陰で犯行グループを押さえられたよ」

「よかったね」

 陽人の長閑のどかな笑顔が匡士を躊躇ためらわせる。しかし、仕事は仕事だ。匡士はコレクターケースの上にアタッシェケースを載せ、厳重なかぎを外した。

「済まないが、もうひとつ頼まれてくれないか?」

「何?」

「署から謝礼は出る」

 匡士はアタッシェケースを開けて、陽人の方へ向けた。

「おや」

 陽人は感嘆の声までおっとりしている。逆の立場だったら、匡士は目を剝いて言葉を失っていたに違いない。

 かばんの中にはスポンジとサテン布が敷かれて、カメオが無数に詰め込まれている。隣り合ったフレーム同士がギリギリ接しない間隔で六十個。スポンジの土台を持ち上げると更に下から同じ数のカメオが現れる。これが重なって六段あった。

 コレクターケースの上をあっという間に占領した三百六十個のカメオを改めて目の当たりにして、匡士は弁解せずにはいられなかった。

「これでも素人目でも分かる不良品を除外したんだ。割れてたり、内側のガラスがのぞいてたり……だが、限界だ。頼む。この中から真作を見付け出してくれ」

「謝礼が時間給だったら先輩の月給を超えそう」

 陽人の冗談が冗談に聞こえない。

 白い手袋をめて端のひとつをつまみ、裏面からペンライトの光を当てる。カメオを水平に持ち、ルーペでサイドの造りを確認する。

「完成度が上がっているね」

 つまり、見分けるのに時間と労力を要するという事だ。

「どのくらい掛かる?」

「普通なら十日は欲しいけど、捜査に支障が出る?」

「う……」

「だよね」

 匡士と陽人のどちらからともなく発したうなり声が頭からしまいまで一致する。

 信頼出来るといえども物証を十日間も預けられないから、陽人に藤見署へ通ってもらうしかない。その間、店を閉めては商売に影響が出るだろう。

「運良く初めの方で当たりを引けるかもしれないけど」

「鑑識と、他にも何人か鑑定士に協力を依頼して、倉庫の方もそうざらいしないと」

 きゆう猫をむのことわざが匡士の脳裏をよぎる。嚙まれたあとが炎症を起こして大惨事だ。

 店内の物言わぬこつとう品まで悲嘆に暮れたかのように静まり返る中、本棚の隠し扉が開き、白いシアーシャツのすそが覗いた。

「よう、海星。起きてたのか」

 匡士はあいさつをして、柱時計に目をった。海星の立ち居振る舞いは夜の静寂しじままとうようで、太陽も高い昼日中である事を忘れそうになる。

「今日は道すがら弁当屋に寄れなくてな。元々出直して差し入れに来るつもりだったから、リクエストがあれば聞くぞ」

「兄さん」

 否、海星はいつも以上に意識を狭く閉じているように見えた。匡士に憎まれ口を利く事もなく、余分を映さないひとみは闇より深い漆黒で、初めて感じる不思議な雰囲気が海星を包んでいる。

「どうしたの? 海星」

「困ってる?」

「少しね」

「分かった」

 不思議というより一種、異様な──匡士はそこまで考えて、自身の思考を強引に断ち切った。友人の弟に使っていい表現ではないと律する気持ちが働いた為だ。

 だが、匡士が仮令たとえ何を言おうと、海星は意に介さなかっただろう。

 彼は一面に並ぶカメオの前まで直進して、三百六十個の中からたったひとつを両手ですくい上げた。

「はい」

「ありがとう」

 カメオを受け取って、陽人が優しく微笑む。

 匡士は兄弟二人が話す他愛ない光景に、何故かまれてしまって棒立ちになった。

 海星が扉に引き返して思い出したように振り返る。

「もくもくさん。ミートソースパスタが食べたい」

「……ああ、任せとけ」

「おやすみ」

 海星の後ろ姿を隠して扉が本棚に戻った。

 気付くと、陽人が渡されたカメオを丹念に調べている。

 匡士は金縛りが解けたみたいに、急に動くようになった足でコレクターケースに近付いた。蹌踉よろけてそちらに傾いたと言う方が正確かもしれない。

『買いかぶるなあ』

 自分には何もないという顔をしながら、陽人のアンティークに関する膨大な知識と誠実に積み重ねた人脈は、三課の捜査網をもしのぐ。

『困ってる?』

 海星のそれは不可思議としか言い様がない。

 だが間違いなく、本事件を解決に導いたのは彼ら兄弟だ。

 三百五十九個のカメオが触れられもせず、元の位置に残されている。

 陽人が上体をかがめて抽斗ひきだしから布張りの箱を取り出す。たったひとつのカメオがそこに収められて、匡士の方に差し出された。

「アフロディーテのカメオ。雨宮骨董店の名にいて真作と鑑定致します」

 彫刻の高潔な横顔が美しく笑みをたたえた。

 匡士の頭はまだ鈍くしか動かない。

「これが真作? 十日は掛かるはずの鑑定をたった一目で」

 あり得ない。言葉にすると、改めて違和感が強くなる。

 陽人はゆったりした動作で偽造品をアタッシェケースに仕舞い、丁寧にふたを閉じた。

「海星はようせいに愛されているからね」

 聞き返す時間はなかった。

 ドンドンドン!

 表の扉がたたかれる。ガラス戸にしかめ面を寄せて、暗い店内に目を凝らしているのは黒川だ。防犯の為に施錠したのを忘れていた。

「キキ! 開けろ」

「騒がしくして済まん。後でまた礼に来る」

 匡士は小箱をスーツのポケットに押し込み、アタッシェケースを抱えて背を返した。

「お疲れ様」

 陽人が手を振る。

 情報収集につながる人脈と人徳、知識も鑑定の技術も陽人が歳月を掛けて身に付けたものだ。一方で、謎めいた事件の核をいちはやく見抜いたのは海星だった。

 上品な色合いのグスタヴィアン・チェアに座る磁器人形ビスクドールごうしや抽斗簞笥コモード、カブリオレ・レッグのハイ・チェスト。ドレープの滑らかな洋燈ランプが匡士を見送る。

 内鍵を起こして扉を開けると、黒川のげんがる視線と冷たい風にさらされた。

「もう終わったのか?」

「はい」

「流石はプロという訳か」

 閉まる扉の嵌め込みガラスに匡士の気の抜けた顔が映る。

 ガラスにのうを貼り付けて、価値をまやかす偽造品。

「厚化粧の……」

 裏返した営業中の札が少し揺れて、穏やかな午後の陽光が通りを明るく照らした。

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