第一話 女神のカメオ⑩
10
車の振動が豪快な貧乏ゆすりに感じられる。
「情報を集めて頂いて、鑑定のノウハウを御教授頂いて、果ては証拠品の選別と来た。雨宮陽人様におんぶに抱っこだなあ、おい」
黒川が全身で
匡士はバックミラーを見ない
「餅は餅屋です。自転車泥棒と一緒って訳にはいかんでしょう」
「贈収賄の捜査より神経がすり減る……スリップダメージがすごい」
黒川の苛立ちはアタッシェケースの中身に対する緊張でもあるらしい。誤って紛失でもすれば謝罪では済まされない代物が入っているのだ。一刻も早く署に持ち帰りたいのが本音だろう。
「店の前に停めます。先に降りて下さい」
「いや、駐車場には私が持って行く。お前が兄弟に話を付けておけ」
黒川は反論を聞かない高圧的な口調で指示すると、運転席から匡士を引き
「くれぐれも失くすなよ。宇宙が吹き飛んでも守り切れ」
宇宙が吹き飛んだら訴える人も匡士も消滅しているが。理不尽な命令を残し、黒川が車を出す。匡士は営業中の札をひっくり返してから店の扉を開けた。
幸い、店内には陽人しかいなかった。
「本木先輩。いらっしゃい」
「昨日は助かった。お陰で犯行グループを押さえられたよ」
「よかったね」
陽人の
「済まないが、もうひとつ頼まれてくれないか?」
「何?」
「署から謝礼は出る」
匡士はアタッシェケースを開けて、陽人の方へ向けた。
「おや」
陽人は感嘆の声までおっとりしている。逆の立場だったら、匡士は目を剝いて言葉を失っていたに違いない。
コレクターケースの上をあっという間に占領した三百六十個のカメオを改めて目の当たりにして、匡士は弁解せずにはいられなかった。
「これでも素人目でも分かる不良品を除外したんだ。割れてたり、内側のガラスが
「謝礼が時間給だったら先輩の月給を超えそう」
陽人の冗談が冗談に聞こえない。
白い手袋を
「完成度が上がっているね」
つまり、見分けるのに時間と労力を要するという事だ。
「どのくらい掛かる?」
「普通なら十日は欲しいけど、捜査に支障が出る?」
「う……」
「だよね」
匡士と陽人のどちらからともなく発した
信頼出来ると
「運良く初めの方で当たりを引けるかもしれないけど」
「鑑識と、他にも何人か鑑定士に協力を依頼して、倉庫の方も
店内の物言わぬ
「よう、海星。起きてたのか」
匡士は
「今日は道すがら弁当屋に寄れなくてな。元々出直して差し入れに来るつもりだったから、リクエストがあれば聞くぞ」
「兄さん」
否、海星はいつも以上に意識を狭く閉じているように見えた。匡士に憎まれ口を利く事もなく、余分を映さない
「どうしたの? 海星」
「困ってる?」
「少しね」
「分かった」
不思議というより一種、異様な──匡士はそこまで考えて、自身の思考を強引に断ち切った。友人の弟に使っていい表現ではないと律する気持ちが働いた為だ。
だが、匡士が
彼は一面に並ぶカメオの前まで直進して、三百六十個の中からたったひとつを両手で
「はい」
「ありがとう」
カメオを受け取って、陽人が優しく微笑む。
匡士は兄弟二人が話す他愛ない光景に、何故か
海星が扉に引き返して思い出したように振り返る。
「もくもくさん。ミートソースパスタが食べたい」
「……ああ、任せとけ」
「おやすみ」
海星の後ろ姿を隠して扉が本棚に戻った。
気付くと、陽人が渡されたカメオを丹念に調べている。
匡士は金縛りが解けたみたいに、急に動くようになった足でコレクターケースに近付いた。
『買い
自分には何もないという顔をしながら、陽人のアンティークに関する膨大な知識と誠実に積み重ねた人脈は、三課の捜査網をも
『困ってる?』
海星のそれは不可思議としか言い様がない。
だが間違いなく、本事件を解決に導いたのは彼ら兄弟だ。
三百五十九個のカメオが触れられもせず、元の位置に残されている。
陽人が上体を
「アフロディーテのカメオ。雨宮骨董店の名に
彫刻の高潔な横顔が美しく笑みを
匡士の頭はまだ鈍くしか動かない。
「これが真作? 十日は掛かるはずの鑑定をたった一目で」
あり得ない。言葉にすると、改めて違和感が強くなる。
陽人はゆったりした動作で偽造品をアタッシェケースに仕舞い、丁寧に
「海星は
聞き返す時間はなかった。
ドンドンドン!
表の扉が
「キキ! 開けろ」
「騒がしくして済まん。後でまた礼に来る」
匡士は小箱をスーツのポケットに押し込み、アタッシェケースを抱えて背を返した。
「お疲れ様」
陽人が手を振る。
情報収集に
上品な色合いのグスタヴィアン・チェアに座る
内鍵を起こして扉を開けると、黒川の
「もう終わったのか?」
「はい」
「流石はプロという訳か」
閉まる扉の嵌め込みガラスに匡士の気の抜けた顔が映る。
ガラスに
「厚化粧の……」
裏返した営業中の札が少し揺れて、穏やかな午後の陽光が通りを明るく照らした。
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