第一話 女神のカメオ⑤



 ガラスの壁で仕切られたミーティングルームは、ほとんど常にスクリーンが下りている。

 刑事課の会議室をオープンスペースにする訳にはいかないのだから、初めから壁で良かったようにも思えるが、取調室の透明性が上がった事は一定の評価を得た。

 会議は既に終わったようで、写真が貼られたホワイトボードと置き忘れたペットボトルが放置されている。

 黒川は機密情報の詰まったホワイトボードを回転させて、目の前の椅子に陣取った。

「どうぞ座って」

「どうも、座ります」

 陽人が相変わらずひようひようと答えて向かいの席に腰を下ろす。

「これは任意の事情聴取です。キキ、記録を」

「了解」

 匡士はデスクで専用のノートパソコンを借り受け、ミーティングルームに入った。

「手短に聞きます。店に持ち込まれたカメオとは?」

「お客様に鑑定を依頼されました」

「私にはどれが何の神様か見当も付かないけど」

 黒川の疑念は理解出来なくもない。匡士にも首から上のギリシャ彫刻はどれも同じに見える。当て推量で適当な神様の名前を出して、話を合わせているだけではないかと疑われているのだろう。

 陽人は急いで弁明するでもなく、口元に笑みをたたえてゆったりと答えた。

「『ヴィーナスの誕生』は御存じでしょう」

「貝殻の上にミロのヴィーナスが立っているアレ?」

 ミロはヴィーナス像が発見された島の名だが、陽人が訂正しないので匡士も口を挟まないでおく。黒川と共通の認識が得られた事が陽人にとっては重要らしい。

「アフロディーテ、英名ではヴィーナスと呼ばれます」

「同じ神様だったの?」

「はい」

 黒川は眼鏡の縁から目がはみ出すほどまぶたを開いて、取り繕うようにせきばらいした。

「本件との関係を示して下さい」

「カメオで描かれるモチーフは有名な絵画を参考にした物も多く、元があれば見分けるのも容易になります」

 陽人が右手と左手を順に広げてみせる。

「持ち込まれたカメオは、十九世紀にギュスターヴ・モローが描いた『アフロディーテ』に強く影響を受けている事が見て取れました」

「ギュスターヴ・モロー」

 黒川が復唱して椅子を引く。彼女はホワイトボードの陰でタブレットを操作していたかと思うと、顔を上げてまゆひそめる。それから、ホワイトボードに貼られた数枚の紙から一枚を外して、タブレットと共にテーブルに並べた。

 画面に映し出されている画像は青い海と空を背景にたたずむ女神の絵画だ。一方、A4の紙にはカメオの写真が印刷されている。

 黒川が人差し指と中指で画像の顔部分を拡大すると、女神の横顔はカメオの彫刻とうりふたつだと分かった。

ふくりん留めのフレームもよく似ていますね。裏返して見られないのが残念です」

「客の名前は!」

 黒川がテーブルの天板を手の平でたたく。匡士はどうかつ、威圧に該当しやしないかとキーボードを打つ手を止めたが、詰め寄られた陽人は縁側で飛行機雲でも眺めているかのような居住まいだ。

「お聞きしていません。身分証の提示は買い取り時にお願いしています」

「美術館に展示してもそんしよくない逸品を買い取らなかった? こつとうのどから手が出るほど欲しいでしょうに。いえ、盗品だと分かっていたなら無理もないか」

 いぶかる黒川に、陽人は両手をひざに置いて微笑んだ。

「僕にもひとつ教えて下さい」

「捜査情報を口外するのは規則違反です」

 厳しい口調でいつしゆうして、黒川が匡士を睨む。面倒から逃げて目をらした匡士とは対極に、陽人は黒川から視線を外す事なく問いかけた。

「盗難届を出したカメオの持ち主は御存命ですか?」

「……殺人事件は一課の担当です」

 黒川は隠すまでもないと踏んだらしい。事実、死傷者が出ていないから捜査三課が動いているのだ。

「鑑定を依頼したお客様は、カメオを亡くなったお祖母ばあ様より譲り受けたと言いました。お客様が正統な相続者だった場合、盗難届を出した方に所有権はありません」

「警察に虚偽の通報をしたと言いたいの?」

「滅相もない。偽物だったのは持ち込まれたカメオです」

 陽人が朗らかに微笑んで言う。黒川の切迫した表情が、一秒の間に感情を三種類ほど経由してぜんに行き着いた。

「別物? それを早く言いなさい」

「すみません」

 押されると押された分だけ引くのが陽人だ。匡士は証言をつまんで入力してから、彼の代わりに口を出した。

「けど、美術館クラスというのも被害者の自己申告ですよね」

「鑑定書も一緒に盗まれたので、買ったディーラーに確認するところだが……」

 黒川がタブレットを取り、折りたたみケースを閉じる。画面とケースの間に中指が挟まって、彼女の手元がまごついた。

「どうしました?」

 言いあぐねる理由があるのだ。匡士が半ば確信的に尋ねると、黒川は少し陽人の方を気にしてわざと椅子を引く音を立てた。

「祖父母から相続した物で直接の面識がない為、連絡先を探さなくてはならない上に、存命かどうかも怪しいらしい。元々普段は金庫のうち抽斗ひきだしに仕舞ってあって、鑑定書が一緒に入れてあったかどうか家族の誰も覚えがないとか何とか」

 早口と大きな音ではぐらかしてもせる内容ではなかった。

「そりゃまた厄介な」

「大変ですね」

他人ひとごとみたいな反応をするな。特にキキ!」

 黒川が二人をひとまとめに𠮟り付ける。

「すみません」

「頑張って、本木先輩」

「雨宮君、あなたも」

 陽人は外野からのんに声援を送っていたが、黒川に名を呼ばれてきょとんとする。黒川はカメオが印刷された紙を彼の前に差し出して、蛇の如きまなしを光らせた。

「お店に売りに来た客は何らかの事情を知っている可能性があります。善意の情報提供者として捜し出すまでの協力を要請します」

「モンタージュとか作ります?」

「キキ。雨宮骨董店の客はあなたの担当とします」

「へーい」

 匡士も制服くらいは覚えているが、陽人の協力があった方がスムーズに進みそうなので、自分が目撃した事はとりあえず黙っておく。

「そういう事で、よろしく」

 黒川は扉を必要以上に広く開き、カモシカの様な健脚であっという間に捜査に飛び出して行った。

「礼くらい言って行けよ」

 匡士が毒突いて事情聴取ファイルを新規保存すると、保存完了のメッセージボックスが開くと同時に陽人が立ち上がる。

「早速行こうか」

「何処に?」

 モンタージュならここでも作れるが。

「張り込み、でしょ」

 陽人が掛けてもいないサングラスをクィと上げる真似をした。

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