第一話 女神のカメオ④



 十余年前、耐震工事が入った時に重大な欠陥が見付かり、九割改装という名の建て替えが行われたふじ警察署は、数本の柱を残し、近隣の各署より群を抜いて洒落しやれた建物に生まれ変わった。

 匡士が刑事を志すより前の話だ。

 配属時から変わりなく、毎日通っていればヴェネツィアのカレッツォーニコも日常の背景にむ。

 突然、イタリアの美術館を引き合いに出したのは匡士の趣味ではない。改装を請け負った建築士が欧州旅行中に感銘を受けてオマージュしたのだそうだ。無論、納税者の心証が考慮され、彫刻等のデザインは簡略化されている。

 等間隔に直立する通し柱と半円アーチの開口部を潜り、二階へ上る階段のすりは透かし細工を施した黒塗りの金属製。歯飾りのモールディングに支えられたバルコニーはただの装飾だが、ピアノノービレの大きな窓は廊下に明るい陽光を招き入れた。

 刑事課と交通課の間に開かれた待合スペースもまた午後の日差しに包まれて、木製のベンチと自動販売機が匡士の休みたい欲を後押しする。

 眠気覚ましのコーヒー一本くらい許されても良いのではないだろうか。

 匡士はスーツの後ろポケットからスマートフォンを引っ張り出そうとした。

「キキ! 遅刻して来てコーヒータイムとはいい度胸だ」

 張りのある声で怒鳴られて、匡士は振り向く前からうなれた。

 その人は運動靴で廊下を踏み締め、腕組みをして仁王立ちしていた。

 黒いパンツスーツのボタンを残らず閉めて、伸びた背中にポニーテールの黒髪を下ろす。怒りでじ曲げられた唇の上で鼻先を反らし、チタンフレームの眼鏡が目付きを鋭くした。

「俺、退勤後なんですが……」

「来ると言ったからには出勤前だろう」

 なんと強引な理屈だ。

 黒川は憤然と腕をほどいて、腰に手を当てた。

「大体、誰だこの部外者は」

「あー」

 彼については言い訳のしようもない。

「黒川刑事、初めまして」

 匡士の後ろから陽人がわるれずに顔を出した。黒川が表情を定めかねている。

「お噂はかねがね、散々聞いていたので初対面という気がしませんね」

「私は見るのも聞くのも初めてなのだが」

こつとう店でディーラーをしております、雨宮陽人と申します」

 骨董という単語を耳にした途端、黒川がはんにやにもまさる形相になって匡士の胸倉にこぶしを押し付けた。

「貴様、機密情報を漏らしたのか」

「連絡を受けた時にたまたま一緒にいたので……会話の断片が聞かれてしまった事は否定出来ません」

「情報ろうえいに関しては報告書を上げてもらう。雨宮君にはお引き取り願います」

 黒川がぜんと言い放つ。陽人はそれでもしゆくする事なく、むしろ良いのかとうかがうように匡士を見上げた。

 陽人が居合わせた偶然は、幸運の部類に入る可能性がある。

 匡士は短髪の後頭部を指先で散らして、汗ばんだ地肌に風を通した。

「骨董品なんですよね?」

「専門家は他にもいる」

 黒川が勘良く先回りして拒絶する。

 盗まれたカメオと、雨宮骨董店に持ち込まれたカメオ。現段階で関連性を示す手がかりは皆無に等しいが、切り捨てるには惜しくもある。

 匡士があいまいな直感を言語化出来ないでいると、陽人が小声でぽそりと言った。

「アフロディーテ?」

 謎のじゆもんを聞いた途端、黒川のひとみが鈍く光った。

「何処で聞いた」

「聞いたと言う程では」

 陽人がのらりくらりと言葉を濁す。匡士は右肩を下げてささやく声で尋ねた。

「何の話だ?」

 黒川がこちらをにらんでいる。

 陽人は頭を匡士の方に傾けて、その視線はしっかりと黒川をとらえた。

「店に持ち込まれたカメオに彫られていた女神の名前です」

「!」

 黒川が二歩で距離を詰める。彼女は陽人につかみかかろうとした手を宙で握り締めて、周囲を見回した。廊下には他課の警察官や民間人が行き来している。

「中に入りなさい。洗いざらい話してもらいます」

 背を向けた黒川の髪がしなってむちの様だ。匡士は上体を反らして毛先をけ、陽人を連れて刑事課に入った。

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