第一話 女神のカメオ③
3
扉に平和な札を掛けて、施錠だけは頑丈に。
『休憩中。インターホンでお呼び下さい』
本棚の隠し扉を開けるとすぐ右側に階段が現れる。数段で踊り場に着いて折り返す階段は、そこにベビーゲートが立てられて先に進む事は出来ない。
階段の下に扉が一枚、犬が蓄音機に耳を傾ける絵のプレートが貼り付けてある。音入れの同音と掛けた手洗い所だ。
反対側にもう一枚。折り紙ほどの小さなステンドグラスを
白い窓枠の上げ下げ窓が扉の対面に三枚、いずれも鉄格子で覆われている。店の性質上、地上階の防犯は厳重にせざるを得ないだろう。
天井から
その真下に三脚台の丸テーブルが鎮座して、二つの椅子が向かい合う。
匡士はテーブルに紙袋を置き、サイドボードの
「お待たせ」
陽人が水を
「刑事になれたと聞いた時は、顔も見られないくらい忙しくなるのかと思った」
「今のところ、
「夜勤明けって顔。お疲れ様」
「お前の方が」
匡士は
のんびりとした笑顔はいつも通りだが、目の下に
「寝てないだろう。海星が熱を出したのか?」
「少しね。でも、寝ていないのは秋季のオークションカタログが届いたから読み
「は?」
「すごいんだよ、今回はタラ・ブローチが出品されるみたい。
「そうだな。食って寝ろ」
匡士は
来て良かった。弟には過保護なほど
「ランチョンマット使う?」
「是非使う」
「変な所で
陽人は愉快げに笑ったが、商談にも使われる部屋のテーブルが安物のはずがない。食事を
「はい、どうぞ」
自分の方が子供みたいに能天気な顔をして、陽人が園児を扱う保育士みたいに匡士の席にランチョンマットを敷いた。
湯沸かしポットのスイッチが切れる。匡士は急須に熱湯を注ぎ、二人分の緑茶を入れてから腰を下ろした。
「バケツ形のボックス弁当にも幕の内があるんだね。あ、中が段になってる」
「食えない物があったらこっちに投げていいぞ」
「うん。折角だから頑張る。……
匡士の好物では勿論ないが、誰しも頑張っても飲み込めない物はある。匡士は
「保護者が怒鳴り込んで来たらどうするんだ」
「うん?」
「さっきの客」
商売に面倒事は御法度だろう。ところが、陽人はもう忘れた様子で、時間を掛けて思い出した顔をする。
「どの道、未成年からは親の同意がないと買い取れないよ」
「そういう話じゃない。店を出た途端、SNSで悪評を拡散されるとか考えろ」
今時、気に食わない事があれば三秒でインターネットに放流され、好奇心の網に捕らえられれば一時間で炎上する。誰でも正義の従者と真偽を問わない
「ディーラーにとっては、世間の評判より
「客商売やってる奴の
「先輩こそ、保護者が署に怒鳴り込んで来たらどうするの?」
「俺は何もしてない」
「うちの古物商許可証の申請者は父さん。僕は両親の留守を預かるお兄ちゃんです」
「よく言う」
匡士は頰張った唐揚げに歯を立てた。
陽人の信用を担保する為に許可証を引き合いに出すのは、虚偽を含むと言わざるを得ない。雨宮
「噓は
「名乗る分には資格は要らないからねえ」
「そういう意味じゃない」
「買い
陽人が焼き鮭を半分に割って箸で器用に骨を取り除く。更に半分に割って一口サイズにすると、安価な弁当のおかずが高級旅館の凝りに凝った朝食の様だ。陽人はそれを小さく開いた口に運び、幸せそうな顔で丁寧に
彼が鮭を
「海星の具合はよさそうだな」
「お陰様で」
「しかし、少しは注意してもいいんじゃないか?」
「何を?」
陽人が大豆の煮付けを一粒だけ
匡士は磯辺揚げを二口で食べて緑茶を飲み、空になった湯吞みを置いて席を立った。
「あの態度だ」
急須の
「今は自宅課題で融通を利かせてもらってるが、いずれは必要に迫られて他人と関わる事になる。自分は君達とは住む次元が違いますって態度で
匡士は急須に蓋をしてテーブルに戻り、二つの湯吞みに茶を足した。
陽人が薄色の
「…………」
「…………」
「本木先輩は」
急須をサイドボードに置いて椅子に座った匡士に、陽人がいつもの穏やかな表情で尋ねた。
「先輩と海星が
考えるまでもない。
「兄馬鹿」
匡士の
「まあ、どうにもならん問題が起きたらいつでも話してくれ」
「国家権力の濫用は良くないよ」
「解決するとは言ってない。聞くだけだ」
匡士が邪険に手を振って払った時、初期設定の呼び出し音が鳴り響いた。余りのけたたましさに二階まで届いているのではないかと思わず天井を見上げてしまう。
匡士はスマートフォンを両手で挟んで、椅子から腰を浮かせた。
「済まん。職場からだ」
「上司さんも君に聞いて欲しい事があるみたいだね」
陽人が手の平を上向けて通話を許容する。
画面に表示された文字は彼の言う通り『発信者:
匡士は申し訳程度に距離を取り、部屋の隅で応答ボタンを押した。
「お疲れ様です。本木です」
「キキ。こんな時に何処で油を売っている」
スピーカー越しの不機嫌な声が匡士の鼓膜を直撃する。この上司はいつも当たりが強いからほぼ通常運転だ。
「夜勤明けで自宅に帰る途中です」
「すぐに引き返して署に戻りなさい。管轄内で一級の盗難事件が発生した」
「また勝手な等級を付けて……課長に𠮟られますよ」
「五月蠅い。美術館で展示されるレベルの宝飾品が盗まれたんだ。サンダルを
そんな事もあったなあと思う頭の反対側で、黒川の緊迫した声にただならぬ事態を察知する。匡士は食べかけのランチボックスに蓋をして、割り箸ごと紙袋に入れながら、陽人に目配せをして扉に向かった。
「五分で行きます。当たるのは美術館ですか、宝石店ですか」
「両方だ。持ち主が言うには二百年前にフランスの貴族が作らせたブローチで、女神の横顔を彫った
「カメオ?」
聞き返して反射的に振り返ると、陽人が切れ長の目で
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