第一話 女神のカメオ③



 扉に平和な札を掛けて、施錠だけは頑丈に。

『休憩中。インターホンでお呼び下さい』

 本棚の隠し扉を開けるとすぐ右側に階段が現れる。数段で踊り場に着いて折り返す階段は、そこにベビーゲートが立てられて先に進む事は出来ない。

 階段の下に扉が一枚、犬が蓄音機に耳を傾ける絵のプレートが貼り付けてある。音入れの同音と掛けた手洗い所だ。

 反対側にもう一枚。折り紙ほどの小さなステンドグラスをめ込んだ扉を開けると、四畳半の小部屋があった。

 白い窓枠の上げ下げ窓が扉の対面に三枚、いずれも鉄格子で覆われている。店の性質上、地上階の防犯は厳重にせざるを得ないだろう。

 天井からるされたペンダント照明は、金属の骨組みに色ガラスを流し固めた水色と白の傘で、造りは古いが光量は充分に得られる。

 その真下に三脚台の丸テーブルが鎮座して、二つの椅子が向かい合う。

 匡士はテーブルに紙袋を置き、サイドボードの抽斗ひきだしからみときゆうを取り出した。茶葉は右の戸の中にある。

「お待たせ」

 陽人が水をたたえた湯沸かしポットを持って来て、電源台に載せる。匡士が念の為に後ろからのぞくと、案の定、電源コードが床に垂れていたので、しゃがんでプラグを挿しておいた。

「刑事になれたと聞いた時は、顔も見られないくらい忙しくなるのかと思った」

「今のところ、交通課まえと変わらないな。上司が五月蠅うるさいくらいだ」

「夜勤明けって顔。お疲れ様」

「お前の方が」

 匡士はひざたたいて立ち上がり、陽人をこちらに向かせた。

 のんびりとした笑顔はいつも通りだが、目の下にうつすらとくまが出来ている。

「寝てないだろう。海星が熱を出したのか?」

「少しね。でも、寝ていないのは秋季のオークションカタログが届いたから読みふけってしまって」

「は?」

「すごいんだよ、今回はタラ・ブローチが出品されるみたい。もちろん、七〇〇年代のオリジナルではないけど、レプリカでも十八世紀に作られていれば現代から見ればアンティークだ。古代ギリシャ・ローマ様式が流行した時代にケルト様式が復元された事実は学術的にも素晴らしいと思わない?」

「そうだな。食って寝ろ」

 匡士はさんに相槌を打って、弁当の袋を押し付けた。

 来て良かった。弟には過保護なほどしいくせに、自分の事になるととんちやくなのだから、はたから見てもどかしくなる時がある。

「ランチョンマット使う?」

「是非使う」

「変な所でちようめんだよね、本木先輩って」

 陽人は愉快げに笑ったが、商談にも使われる部屋のテーブルが安物のはずがない。食事を美味おいしくる為にも予防策は万全に張らせてもらう。

「はい、どうぞ」

 自分の方が子供みたいに能天気な顔をして、陽人が園児を扱う保育士みたいに匡士の席にランチョンマットを敷いた。

 湯沸かしポットのスイッチが切れる。匡士は急須に熱湯を注ぎ、二人分の緑茶を入れてから腰を下ろした。

「バケツ形のボックス弁当にも幕の内があるんだね。あ、中が段になってる」

「食えない物があったらこっちに投げていいぞ」

「うん。折角だから頑張る。……しばけと里芋はあげる」

 匡士の好物では勿論ないが、誰しも頑張っても飲み込めない物はある。匡士ははしで唐揚げごと白米をすくって口に運んだ。

「保護者が怒鳴り込んで来たらどうするんだ」

「うん?」

「さっきの客」

 商売に面倒事は御法度だろう。ところが、陽人はもう忘れた様子で、時間を掛けて思い出した顔をする。

「どの道、未成年からは親の同意がないと買い取れないよ」

「そういう話じゃない。店を出た途端、SNSで悪評を拡散されるとか考えろ」

 今時、気に食わない事があれば三秒でインターネットに放流され、好奇心の網に捕らえられれば一時間で炎上する。誰でも正義の従者と真偽を問わないき火好きを心に飼っているのだ。理性のおりは熱に弱い。

「ディーラーにとっては、世間の評判より業界こちら側の信用が大事だから大丈夫」

「客商売やってる奴の台詞せりふじゃないぞ」

「先輩こそ、保護者が署に怒鳴り込んで来たらどうするの?」

「俺は何もしてない」

「うちの古物商許可証の申請者は父さん。僕は両親の留守を預かるお兄ちゃんです」

「よく言う」

 匡士は頰張った唐揚げに歯を立てた。

 陽人の信用を担保する為に許可証を引き合いに出すのは、虚偽を含むと言わざるを得ない。雨宮こつとう店は彼の両親が開いた店で、両親が世界中を飛び回って買い付けをしているのは事実だ。が、決してそれだけではない。

「噓はだまされる相手に吐くもんだ」

「名乗る分には資格は要らないからねえ」

「そういう意味じゃない」

「買いかぶるなあ」

 陽人が焼き鮭を半分に割って箸で器用に骨を取り除く。更に半分に割って一口サイズにすると、安価な弁当のおかずが高級旅館の凝りに凝った朝食の様だ。陽人はそれを小さく開いた口に運び、幸せそうな顔で丁寧にしやくした。

 彼が鮭をひと欠片かけら食べる間に、匡士の弁当は底が見え始めている。陽人が悠長に茶をすするのを見て、匡士は箸を磯辺揚げに突き刺した。

「海星の具合はよさそうだな」

「お陰様で」

「しかし、少しは注意してもいいんじゃないか?」

「何を?」

 陽人が大豆の煮付けを一粒だけつまむ。

 匡士は磯辺揚げを二口で食べて緑茶を飲み、空になった湯吞みを置いて席を立った。

「あの態度だ」

 急須のふたを外して湯沸かしポットから熱湯を注ぐ。既に開いた茶葉が水流に舞い上がって散りぢりに渦を巻いた。

「今は自宅課題で融通を利かせてもらってるが、いずれは必要に迫られて他人と関わる事になる。自分は君達とは住む次元が違いますって態度でしんらつな嫌味ばかり吐いてたら、いくら正しい事を言っていたとしても敵しか作れない」

 匡士は急須に蓋をしてテーブルに戻り、二つの湯吞みに茶を足した。

 陽人が薄色の水面みなもを見ている。

「…………」

「…………」

「本木先輩は」

 急須をサイドボードに置いて椅子に座った匡士に、陽人がいつもの穏やかな表情で尋ねた。

「先輩と海星がけんをしたら、僕はどっちの味方をすると思う?」

 考えるまでもない。

「兄馬鹿」

 匡士のためいきが緑茶の水面を揺らすと、陽人が笑って卵焼きに箸を移した。

「まあ、どうにもならん問題が起きたらいつでも話してくれ」

「国家権力の濫用は良くないよ」

「解決するとは言ってない。聞くだけだ」

 匡士が邪険に手を振って払った時、初期設定の呼び出し音が鳴り響いた。余りのけたたましさに二階まで届いているのではないかと思わず天井を見上げてしまう。

 匡士はスマートフォンを両手で挟んで、椅子から腰を浮かせた。

「済まん。職場からだ」

「上司さんも君に聞いて欲しい事があるみたいだね」

 陽人が手の平を上向けて通話を許容する。

 画面に表示された文字は彼の言う通り『発信者:くろかわなぎ』。

 匡士は申し訳程度に距離を取り、部屋の隅で応答ボタンを押した。

「お疲れ様です。本木です」

「キキ。こんな時に何処で油を売っている」

 スピーカー越しの不機嫌な声が匡士の鼓膜を直撃する。この上司はいつも当たりが強いからほぼ通常運転だ。

「夜勤明けで自宅に帰る途中です」

「すぐに引き返して署に戻りなさい。管轄内で一級の盗難事件が発生した」

「また勝手な等級を付けて……課長に𠮟られますよ」

「五月蠅い。美術館で展示されるレベルの宝飾品が盗まれたんだ。サンダルをくわえて持ち去った飼い犬と同列に並べられるか」

 そんな事もあったなあと思う頭の反対側で、黒川の緊迫した声にただならぬ事態を察知する。匡士は食べかけのランチボックスに蓋をして、割り箸ごと紙袋に入れながら、陽人に目配せをして扉に向かった。

「五分で行きます。当たるのは美術館ですか、宝石店ですか」

「両方だ。持ち主が言うには二百年前にフランスの貴族が作らせたブローチで、女神の横顔を彫ったのうの──」

「カメオ?」

 聞き返して反射的に振り返ると、陽人が切れ長の目でまばたきをした。

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