第17話 これからも
「遅いね。クリスさん」
「そうですね。夜には帰ってくると言ってましたけど……」
夜の営業も終わり、客の姿がなくなった食堂のテーブルでリルカと私はクリスの帰りを待っていた。
――ドンドン
と、戸を叩くような音。裏口の方だ。
「きゃっ」というライラの悲鳴が聞こえてきて、私とリルカは顔を見合わせて裏口へ急いだ。
現場に到着すると、そこにはライラと、泥んこに汚れたクリスの姿があった。
「あっ、クリスさん。おかえりなさい。でも、どうして裏口に?」
「ふふっ、それはね……これを持ってきたからよ!」
クリスが自慢げに指差した戸口の外を見てみると、そこには大きな体をした動物が転がっていた。
ぱっと見たところでは牛に見えた。しかしその背中には、背骨にそって半円形の大きな板が生えていた。まるでヨットの帆のようだ。
私につづいてリルカが裏口からひょっこりと顔を出す。
「あーっ、これホタテウシじゃない!? えっ、クリスさんがとってきたの? クリスさんすごーい!!」
「まあね! わたしにかかればこのくらい楽勝よ!」
クリスが照れ隠しに頬をこすると、そこに一筋の泥がついた。
「まあ、その……お昼のことは、わたしもちょっとやりすぎたところもあったと思うし……。だから、お詫びってわけじゃないけど、これはライラにあげるわ」
「クリスちゃん……。私のほうこそ言いすぎちゃったと思ってたの、ごめんなさい。でも、ホタテウシってすごい高級食材なのよ? ただでもらうなんて、そんなことできないわ」
「あー、もう面倒くさいわね。こんなの三ツ星冒険者にとっては大した稼ぎじゃないんだから。つべこべ言わずに受け取ればいいのよ」
会計時の譲り合いバトルみたいな押し問答の末、結局はライラが受け取ることになった。
リルカが呆れたように言った。
「もー。どうせもらうんだから、おかーさんも早くもらっておけばいいのに」
「大人になると、ときには素直に受け取らないほうがうまくいくこともあるんですよ」
「おとなってめんどくさいんだねー」
「ですね」
私はクリスのそばに寄って、頬についた汚れをハンカチでぬぐった。
クリスがくすぐったそうに片目をつぶる。
「おつかれさまです。クリスさん」
「ん……」
ぽっ、と頬に朱がさした。きっと一日中歩いていたのだろう。クリスからはほんのりと汗の香りがした。
「お昼のときはすみません。もっと私がクリスさんを見てあげればよかったのに」
「な、なんのこと?」
私はクリスが店を飛び出したときのことを思い出していた。
あんなことになる前に、接客業に不慣れなクリスを私がフォローするべきだったのだ。
「一緒に働くスタッフ同士、支え合うべきだったのに、クリスさんを見捨てたみたいになってしまって」
「あ、ああ、そういうことね。それはもういいのよ。ああいう仕事はわたしには向いてないって最初からわかってたし」
「じゃあどうしてやろうと思ったんですか?」
「そ、それは……シホ一人じゃあんまり頼りなさそうに見えたからよ」
「心配してくれたんですか? ありがとうございます。クリスさん」
「べ、べつに……」
しゅうしゅうとクリスの頭の上に湯気が立った。
ライラとリルカは突然舞い込んできた大物について話し合っている。
「ホタテウシは鮮度が大事だから、はやく解体しなくちゃ」
「でも、もう夜だよ。おかーさん」
「じゃあ久しぶりだけど……二人でやっちゃおうか」
「やったあ! リルカ、あれもってくるね!」
そう言ってリルカが走り去る。
あれってなんだろう。
しばらくしてリルカが持ってきたのは、自分の背丈よりも大きな刃物だった。
「な、なんですか、あれ」
「あれは
「ライラさんが冒険者? そうだったんですか」
色々と聞いてみたい話ではあったけど、いまはそれよりも、その竜刀をどう使うのかが気になってしまう。
リルカはライラに竜刀を手渡すと、自分は小さなナイフを持って皮に手早く切り込みを入れていった。ライラも大きな竜刀を上手く使ってリルカの作った切り込みから皮を剥がしていく。
あっという間に皮を剥がされたホタテウシは、薄ピンク色の脂肪に覆われていた。
ライラが背中の帆を竜刀で切り落とし、リルカがそれをキッチンの冷蔵室へ持っていく。
その間、ライラは腹を引き裂き、竜刀をクリスに持たせて内臓を手で引きずり出した。
ライラがふたたび竜刀を手にすると、ホタテウシの巨体はまるで柔らかいバターのように切られていった。
最初は首、そして胴体を背骨に沿って真っ二つにすると、さらにいくつかのパーツに切り分けてリルカが冷蔵室へと運び、解体作業はあっという間に終わった。
「すごかったですね……」
「わたしも久しぶりに見たけど、ライラの竜刀さばきには圧倒されるわね」
解体は見ているだけしかできなかったので、その後の後片付けを少し手伝わせてもらった。
「明日のメインはホタテウシのレアステーキで決まりね。美味しい部位を早く食べてもらわなくちゃ。二人にもご馳走しちゃうから沢山食べてね」
「どんな味がするんでしょうか。とっても楽しみです!」
「……沢山とは言ったけど、シホちゃんはちょっと手加減してくれると嬉しいかな~」
片付けが終わると、やっと解散となった。
長い一日だった。
私とクリスは慣れ親しんだ部屋へと戻り、よく絞った温かいタオルで体の汚れを拭っていた。
ここ数日、生活を共にするうちに、着替えの間はお互いに背中を向けるというちょっとした決まりのようなものができていた。
ときどきタイミングがあって目が合ってしまうと、かえって気恥ずかしい気持ちになるのだけど。
寝間着に着替えながら、背中越しにクリスに話しかける。
「クリスさん。私、正式にここで雇ってもらえることになったんですよ」
「そうなの? やったじゃない」
顔は見えないけど、クリスも喜んでくれているみたいだ。
「ええ。だからクリスさんから借りたお金も少しずつ返済していけると思います」
「ふーん……」
「それでですね、もう一つお話があって……」
クリスに言わなければいけないことがある。
もともと、この部屋はクリスが一人で使っていたのであって、私が一文無しだからという理由で仕方なく置いてもらっていたのだ。
だから収入を得ることができたいまとなっては、私がここに居続ける理由がなくなる。
着替えを終えて、行き場のなくなった指先は少し冷たくなっていた。
ライラから従業員用の部屋に移ることを提案されたとき、私は戸惑ってしまった。
損得で考えれば、新しい部屋に移らない理由はない。
つまりこれは、私の感情の問題なのだった。
私は、クリスとともに寝起きするこの生活が好きになっていた。
だけど、クリスはどう思っているんだろう。
クリスには、私をここに置いておく理由なんてなにもないのだ。
だめだと言われたら……そう思うと体の中を流れる血がひやりと冷たくなる。
鼓動で声が震えそうな気がして、ひとつ呼吸をはさんで私は口を開いた。
「私、これからもこの部屋にいていいでしょうか」
「なによいまさら。あたりまえじゃない」
一瞬も間をあけずにクリスがいつもの調子で答えた。
ふっと力が抜ける。
私が悩んだ時間とさっきまでの緊張感はなんだったんだろう……。だけど、これからもクリスのそばに居られる。そう思うと、頬がゆるむ。
いま見られたら変に思われるかもしれない。でも背中を向けているから、どんな顔をしていても平気だった。
「クリスさん」
「なに?」
「これからも、よろしくおねがいします」
「ん、うん。こちらこそ……? なによ改まって。変なの」
部屋の灯りを消してベッドに入る。
初めての夜はベッドの端っこと端っこで寝ていたけど、いまは二人とも少し真ん中に近づいている。
「クリスさん」
「なに?」
「そっちに行ってもいいですか?」
薄暗い月明かりの中、クリスが私に顔を向ける。ぱちりと目が合うと、すぐ天井に向き直って目を閉じた。
「……すきにすれば?」
「はい」
最初はすっごく拒絶されたけど、いまはなんだか受け入れてくれている。それが嬉しくて、肩が触れるまで近づいた。
クリスの体はお日様みたいにぽかぽかと暖かくて、冷えた指先までとけていくようだった。
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