第14話 お風呂 後編

 浴室に入ると、もわっとした温かい湯気が全身を包んだ。

 こっちは脱衣所よりも明るくなっている。高い天井の近くにある窓から外の光が差し込んでいるのだった。

 床下に掘り込まれた大きな湯船には先客が一人。手前の洗い場ではリルカが小さな椅子に腰掛けて念入りに頭を洗っている。ほかに客の姿はなかった。

 私もリルカを見習って体を洗い始める。

 

 脱衣所の戸が開いて、クリスの姿が湯気越しに見えた。背が低くて起伏も少ないので、遠目だとリルカとあんまり変わらない子供のようにも見える。

 私と目が合って、クリスがぎこちなくこちらに歩き始めた。私のそばを素通りして湯船のほうへ向かおうとするクリスを、リルカが止めた。

 

「あ、クリスさん、だめだよ。ちゃんと体洗わなきゃ」

「……あ、うん」


 呼び止められたクリスは、大人しくリルカを挟んだ向こう側に座った。

 リルカはお湯をかぶって体の泡を洗い流し、いち早く湯船に向かっていく。

 ふわふわだった尻尾は、すっかり水に濡れて細長い指のような形になっていた。

 リルカから目を離すと、クリスと目が合った。

 

「な、なによ?」

 

 クリスはそそくさと視線をそらして体にお湯をかけ始めた。


「いえ、べつに……」

 

 近くで見るとクリスの肌はとても綺麗で、つるつるで、やっぱり子供みたいに見えた。

 私はお湯で体の泡を洗い流して洗髪に取り掛かった。

 しばらく洗えなかった髪は、不思議と汚れていなかった。洗髪料少しでもきちんと泡が立って、これなら軽く洗い流すだけでもよさそうだ。

 思っていたより早くすませることができた。……と言っても、長い髪を洗うのは私にとっては一苦労なのだけど。

 ふう、と一息ついて洗った髪をまとめる。湯船に入ろうかと思ったところで、クリスがさっきからあまり動いていないことに気がついた。

 

「あれ? クリスさん、まだお風呂に入ってなかったんですか」

「……え? あ、入るわよ?」


 なんだか心ここにあらずといった感じで、私の言葉も右から左に抜けているようだ。

 ん……? あれ?

 

「まだ髪洗ってないんじゃないですか?」


 クリスの髪の毛は濡れていなかった。

 

「……あ、洗ってないけど」

「………………」

 

 私が髪を洗っている間、クリスは何をしていたんだろうか。

 だけど、それならむしろ私ののぞむところというものだ。クリスの髪がきれいになるまできちんと洗ってしまおう。

 

「しょうがないですね。私が洗ってあげます」

「……うん……え? ちょっと、シホ!? ひゃん!」


 ざばーっとお湯をかけつつ、両手で髪に触れる。ほこりっぽくて指の通りが悪い。かなり汚れが溜まっているようだ。

 

「じ、自分でできるからっ」


 クリスが背中をまるめてちぢこまった。

 

「まあまあ、ここは私に任せてください。あ、ちょっと目を閉じててくださいね」


 お湯で軽く表面の汚れを洗い流してから、今度は手で泡立てた洗髪料で洗っていく。……洗っていくのだけど……泡がたたない。

 洗髪料をいったん流してみると、黒っぽく汚れたお湯が流れていった。

 これは、思ったよりひどいかもしれない……。

 洗髪料とお湯で髪と頭皮についた汚れを落としていく。それを何度か繰り返すことで、ようやくべたつきが取れて泡が立つようになった。

 もこもこの泡で髪をやさしく洗い、頭皮をくにくにとマッサージする。

 クリスが気持ちよさそうに声を漏らした。

 

「どうです? 気持ちいいですか?」

「……ん……くすぐったくて……」

「ちょっと我慢してくださいねー」


 最後にお湯をかけて泡を洗い流すと、輝くような金髪が現れた。

 

「ふう、きれいになりましたよ、クリスさん」

「………………あ、ありがと……」


 クリスは呆けたような顔をしている。


「シホさんすごーい! ねえねえ、リルカにもさっきのモコモコやって~!」

「いいですよ。任せてください」


 湯船にいた客もいつの間にかいなくなっていた。

 リルカは自分できちんと髪をきれいにしていたので、最初から泡立ちがいい。

 調子に乗ってリルカの全身を泡泡にして遊んでいたら、新しく入ってきた客に驚かれてしまった。

 遊びすぎてしまったと反省。

 

 

「あ~、やっぱりお風呂は気持ちいいですね~」

 

 クリスの隣に浸かって腕を上にぐいーっと伸ばす。腕がすっかりぱんぱんだ。髪の毛を洗っただけで、もう今日の余力をすべて使い切ってしまったみたいだった。

 明るいうちのお風呂もいいものだなあと思ってゆったり温まっていると、しばらくしてリルカが先に湯船を上がった。

 

「私たちもそろそろ出ましょうか。リルカさんを待たせてしまいますし」

「…………」


 返事がない。

 

「クリスさん?」

「……ひお……?」


 クリスは、ぼーっとした顔で私のことを見つめている。

 顔が赤い。

 そういえば、いつから湯船に浸かっているんだろう。リルカの髪を洗う前だとすると、かなりの長時間になっている気がする。

 

「え、ちょっと、のぼせてるんじゃないですか?」

「……ふへ……」


 肩に手を置いて体を少し揺らしてみる。目の焦点が定まっていない。まずいんじゃない……?

 

「はやくお湯から出ないと。た、立てますか?」

「……んー……」


 だめだ。動こうとしない。

 

「ええと、どうすれば……。とにかくお湯から出さなくちゃ」


 私はクリスの正面にまわってクリスの体を抱き上げた。

 

「……ふもっ!?」


 お湯から引き上げた瞬間、クリスの手足がぴんと伸びて、そのあとすぐに、くたっと力を失ってしまった。

 持ち上げた体がすごく重たい。というか、湯船の中から抱き上げてもどうやって外に運べば……。

 

「こ、これじゃだめですね、外から引っ張らないと……って、鼻血!?」


 胸の間が赤く汚れている。クリスの鼻から血が流れていた。

 私は浴室にいた客に助けを求めた。

 

「わっ、あの、すみません! 手伝ってもらえませんか!? この子のぼせちゃったみたいで!」


 それからはちょっとした騒ぎだった。

 その場にいたお客さんやリルカに手伝ってもらって、のびてしまったクリスを脱衣所まで運び込んだりうちわで扇いだり。

 風呂屋の店員さんや新しく来たお客さんまで加わって車座になってクリスを介抱していると、自然と話が盛り上がってみんなすっかり仲良しになってしまった。

 

「へえー、それじゃあカジキさんは漁師町の生まれなんですか」

「あそこは海の魚が新鮮で美味しいんだぁ。いつかシホちゃんも行ってみるといいよ」

「あの、私は別に食べ物のことしか考えてないわけじゃないんですよ?」

「えー? でもシホさんいつもすっごい食べるんだよ! うちのお客さんの中でも一番なの!」

「あはは、そうかいそうかい。いや若いうちはたんと食べていいんだよ。あたしくらいの歳になると栄養が全部お腹にいっちゃってもう大変なんだから!」


 カジキさんがぽんとお腹を叩くといい音が鳴ってリルカが嬉しそうに笑った。

 その声で目が覚めたのか、横になっていたクリスが眩しそうに目を開いた。


「う……ん…………え、何……?」

「あっ、目が覚めましたか。クリスさん、お風呂でのぼせちゃって大変だったんですよ」

「そ、それはなんとなく覚えてるけど……。なに……これ。なんなの……?」


 私とリルカ以外は全くはじめましての人だ。目が覚めたら見ず知らずの人に囲まれているのだから、クリスが困惑するのも無理はない。

 簡単に状況を説明して、クリスが納得したところでこの集まりは解散となった。

 外へ出ると、通りは少しにぎやかになっていた。

 

「食べ物の話をしていたら、お腹が空いちゃいましたねー」

「わ、早く帰らないとお昼になっちゃう! おかーさんに叱られちゃうよ」

「まだ少し頭がくらくらするわね……」

「大丈夫ですか? おんぶは無理でも肩を貸すくらいなら」

「へ、平気だから……」


 私が近づくと、クリスは顔を赤くしてのけぞった。

 のぼせた熱がまだ抜けていないのかもしれない。

 少し先を歩くクリスの髪が、風に揺れてきらきらと光っていた。

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