ロケット打ち上げへの誤った理解

六野みさお

誤った理解

 3月も中盤にさしかかっており、受験界隈は前期試験合格発表のお祭り騒ぎが続いている。受かった人もいれば落ちた人もいる。この時期誰もが経験があることといえば、落ちた人をどうやって慰めるか悩んだ経験だ。友達と一緒に受験した学校に自分だけ落ちてしまったときの絶望感は想像を絶するものがあるだろう。


 このように受験に落ちた人に厳しい言葉をかけるというのは、どう考えてもありえないことだ。「お前落ちたよな? そうだよな? おい、認めろよ!」とその人が落ちた事実を何度も繰り返すことなどもってのほかである。ところが、受験の絶対やってはいけないタブーを普通にやってしまっているやばい界隈がある。それがロケット界隈だ。


 よくニュースで「ロケットの打ち上げが成功した!」だの「失敗した!」というのが流れてくる。昨日もあるロケットが打ち上げ数秒で爆発したのを「失敗した!」といつものように報道していた。しかし、ロケットの打ち上げというのは、成功か失敗かの単純な分け方で解決できるものなのだろうか?


 とはいえ、そもそもロケットがなぜ打ち上がっているかというと、人工衛星とか偵察衛星とか、少なくとも何かの分野で日常生活に役立つことを宇宙で行うためである。決して人類の趣味で打ち上がっているわけではない。少なくとも「宇宙に行ったらなんとなくかっこいいから」ではない。とにかく、このような場合においては、目的を遂行できなかった(人工衛星がロケットと一緒に爆発してしまったなど)ときに、これを『失敗』と定義することは完全な間違いとはいえない。


しかし、たとえ定義上失敗といえるのだとしても、あたかもそれがロケット打ち上げのすべてであるかのように報道するのは印象操作であろう。言葉の使い方は、無意識に人が受ける印象にも影響を与える。「ロケット打ち上げというのはすぐに失敗するものなのか!」と人々が思ってしまうのは、ロケット界隈、さらには宇宙界隈への悪印象につながる。


 特に、関係者へのインタビューは散々である。この場面でメディアが好む質問がある。それは「果たして今回の打ち上げは成功だったのか、それとも失敗だったのか?」である。メディアにとっては、この手のシンプルな単語はニュースのヘッドラインを飾らせるにふさわしいものだろう。


 だが、メディアは重要なことを見落としている。それは実際の場で何が起こっていたのかである。つまり、何が原因で打ち上げがうまくいかなかったのかである。これは次回の『失敗』を防ぐために必須のことであるにもかかわらず、このような情報は二の次となり、一般人の頭には『失敗』の二文字だけが残ってしまう。


 最近では、関係者の側もメディアのプロパガンダを理解し、安易な『失敗』から距離を取り始めている。昨日の打ち上げ会社の人は『我々は失敗という言葉は使わない』と話した。重要なのは結果ではなく原因であるということだ。たとえその回の結果が良いものではなかったとしても、それによってわかったことがあるはずで、何が良くなかったのかがわかったことは前進なのである。100パーセント意味のない試行というのは、なかなか存在しないのだ。


 受験に落ちた人は、自分が苦手な教科について反省し、再び合格を目指して努力するからこそ、多くの浪人生が難関大学に合格するわけである。冒頭でも触れたが、受験に落ちた人に「お前は落ちたよな! 認めろよ! やーい、残念残念!」と言っても、百害あって一利なしである。落ちた人はさらに落ち込んでしまうし、周りで聞いている人も落ちた人へのイメージを下げてしまうだろう。もちろん受験界隈でこのようなことは起こらないが、ロケット界隈では起こっているのだ。


 それでも、ロケットの打ち上げが失敗したことでそれに積まれていた衛星が一緒に爆発してしまっていることは事実であるし、見方によっては多額の金が無駄になったという批判をすることもできるのだろう。これをもって宇宙開発に資源を投入するのは無駄であると主張する勢力もある。


 しかし、これは宇宙開発の重要性を理解していない発言である。繰り返すが、宇宙開発は趣味や人類の夢のために行われているわけではない。カーナビも衛星放送も、宇宙開発がなければ得られていない便利なサービスである。あまりにも意味がなさそうに思えてしまう、例の小惑星から石を持って帰るプロジェクトも、生物学的には大きな貢献をしていたのだ。もちろん「今までできなかったことができるようになる」という面では人類の夢なのだが、それは実際の生活に役立つからこその夢であって、科学者の個人的な夢ではないのである。


 また、宇宙開発にはリスクが伴うものである。ロケットの打ち上げの成功率というのは、特に新しいロケットを開発するときにはあまり高くなく、3回に2回は『失敗』するともいわれている。もう遠い昔のことになったが、過去には実際に生身の宇宙飛行士が生命の危機にさらされたり、実際に命を落としてしまうようなことがあった。当時は遠隔操作の技術はまだ十分でなく、人が宇宙船に乗って危険な仕事をしていた。だが、現在は少なくとも人的危険は減少したわけである。


 このように、宇宙開発はもともとリスクが高いのだが、それを承知で宇宙開発を進めることが人類の生活の発展のための正解であるということは、すでに識者が共有していることである。ところが、宇宙産業関係者への人々のイメージはあまりよくない。どこか危ないことをしている集団と思われていることもある。しかし実際は、人々の生活を支えているのである。


 私たちは宇宙産業へのプロトタイプなイメージから脱却し、なぜそのロケットが打ち上げられようとしているのかに注意を払わなければならない。そうすれば、ロケット打ち上げの『失敗』を単純に批判できなくなるはずだ。ロケットの打ち上げは、野球選手がバットを振るのに似ている。大谷翔平であっても毎回ホームランを打つわけではない。だが、彼は空振りをするごとに自分の打ち方を反省し、次回のスイングにつなげているはずである。さらには、ロケット打ち上げの成功率は大谷のホームラン率より高く、大谷がホームランを打っても何も起こらないが、ロケットが打ち上がると役に立つのである。ならば、我々はロケット打ち上げをもっと温かい目で見守るべきではないだろうか。

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