「喧嘩のほうが痛い、先生あいつに殴られるのはたいした痛みはない」

 陽太くんは、私の考えを読んだかのように言った。

「今まで図書館だったけど、これからは先輩の家で勉強教えてください。そのほうが先輩は楽だと思う……どうですか? いやなら今まで通りで」


 あの人は来なくなってるし、夕方以降、うちには誰もいない。お母さんは早朝まで帰らない。お母さんの彼氏は、お母さんがいないときはうちに来ない。


「私はそれでいいよ。帰っても一人だったから。夜ご飯、うちで食べる? 簡単なものしか作れないけど。ときどき、お母さんがおかずだけ作ってくれてる」

「先輩のお母さんって、夜の仕事?」

「小料理屋? よくわからないけど、ホステスとは違うらしいよ」

「あのさ……家に二人きりってことになるんだけど、それって大丈夫だと思ってる?」

「二人きり? えっ、あ……」


 私は何も考えてなかった。

 

「手を出そうとか、まだ、それは先のことだと思ってるから。だからそんなふうに固まらないでください」


 顔が熱くなっていた。そんなふうに意識したことがなかったから、心臓がびっくりしてる。体全体でどきどきしていた。

 

「そこまで緊張しなくても……。今日は図書館で」

「うち、行こ。陽太くん、今、勉強道具持ってないでしょ?」

「あ、バレてた」

「陽太くんの家に教科書取りに寄ってからね」

「うわ、親父に鉢合わせたくねーな……」

「お父さんに挨拶したいかも」


 陽太くんは私の自転車の前に乗り、私は後ろで陽太くんにしがみつく。ゆっくりと漕ぎはじめてから、だんだんスピードに乗っていく。


「陽太くんのお父さんは、どんな人?」

「頑固な仕事人間。家の隣に工場あってさ。何かの機械の部品を作ってる。母親は俺が小さい頃に出ていった」


 私が聞く前にお母さんの話をしたのは、詮索されたくないからだとわかった。陽太くんが自分で話そうとしないなら、聞かないでいよう。触れられたくないことは、誰にでもある。


「今は一緒に住んでないし、籍もいれてないらしいけど、親父の恋人が、ときどきうちに来てる。三歳の妹、連れてくる」

「妹さん、三歳なんだ。かわいいんだろうなあ」

「あー、うん。歩く歌って書いて、あゆかっていうんだ。よーたん、にーたんって呼び方がいろいろあってさ……」


 陽太くんは、あゆかちゃんのことを話し始めると楽しそうな声色に変わっていた。

 かわいい妹なんだ。親に対するわだかまりはあっても、妹は純粋にかわいく感じてる。

 そんな陽太くんが、ますます好きになった。


 陽太くんがあゆかちゃんの話をしていると、陽太くんの家に着いたようだった。

 私は玄関で待つことになり、そわそわしながら玄関を観察する。


 整理整頓された玄関。

 靴箱の上には、上品な花が花瓶にいけられてある。


「陽太、帰ってるのか」


 突然、玄関のドアが開いた。

 振り返ると、背の高いがっちりした男性――陽太くんのお父さんだろう――が私の背後にいた。


「あっ、はじめまして。白水東高校一年の早瀬優実です。陽太くんとは中学で知りあって、ときどき勉強を教えています」

 

 


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