爐花

伊島糸雨

爐花


 崩璧ほうへきうず孛海ぼっかいの下、尖塔群に紛れた紺瓏院こんろういんの祈祷室で夜燭の炎が静かに揺れる。万壽黎まんじゅれいの黒々とした祭具に調度、告解に敷く閨紗けさの魔術は、入り込む星の光気を纏いながら深とその身を凍てつかせ、密やかな声は香気を伴い閨紗けさの内に漂っている。紺瓏の司祭は静かに告げる。「裏切りの対価は」「この灯火を」「月夜の蜜は泉の雫たり得ましょうか」「星々は凋落の運命さだめにあります故」「ならば貴女は何を語ると?」烟る黄金こがねが房と零れ、黒の喪衣もぎぬを細く濡らした。「他愛のない……取るに足らない、譫言にございます」

 魔術の付された契りの針にふた筋の血が絡み合い、次第に滲んで消えてゆく。司祭はその様を見届けると、誓約の言を閉じて言う。「孛海ぼっかいの代理として、万事胸に抱えましょう」

 やがて、灯火の女王は語り出す。自らと、遺灰のきみ──遺人眠る熾墓しぼ殯衾ひんきんについて。

「耳聡い貴女のこと、近頃の噂は知っているはず。遺灰の后が、かの秘宝に選ばれた、という。一体誰が言い出したのか……彼女が璃宮りきゅうに現れるようになって、余計に真実味が増したようです」卓上に置かれた金骨の角灯に、若き女王はどこまでも凪いだ視線を向ける。風の便りには、と司祭が言うと「きっと、風はすべてを教えてくれるのでしょうね」遠くを眺めるように声が返った。

「秘宝──古き縑王けんおう翹肋衣ぎょうろくえは、本来私が担うもの。あれの呪いは祝福と同じ。遺灰の后に、渡すわけにはいかないのです」

 すべての亡骸の上に在り、過ぎゆく一切を悼む大地にあって、殯衾ひんきんとは安寧の象徴であった。遺灰の后はその筆頭、熾墓しぼにて遺人の声を聞き、啓示と鎮魂を曳く国の要であり、女王ともまた役を異にする双翼の一とされた。

 夜霧と尖塔に沈む王都で爐花ろかの円紋を分け合う、灯火と遺灰。それらは古き約定の遺産であり、幾年いくとせも受け継がれてきた形式である。大地が累々と降り積む死によって成り、人を生かすあらゆる神秘がその転換によって成されるのなら、墓標に掲げる僅かなひかりは死者へ捧げる敬体に他ならない。

「貴女は、どう考えますか」

 問いかける声は霞のようで、捉え難く真意を散逸させた。灯火の魔術は昏きに宿り、翳に滲んで隘路を導く先触れの火。しかし、いかに強大な魔術師であれ、血潮の住処は柔く脆く、霧に隠れては声を潜めた。

 問われた司祭は頭を覆う紗織さおり掩飾あんしょくの合間に目を伏せて「紺瓏は空の器なれば、孛海ぼっかいの如くただ在るのみにございます」女王は言葉を予見していたように緩く首を振ると、吐息と微笑を零して瞳に燃える色を細めた。

「天に淆昏こうこん、地には濁潮じょくちょう──魔術も祈りも、災禍を思えば風雨に倒れる病葉と変わりない。だから、彼女はきっと相応しいのでしょうね」

 そう言って、女王は束の間、遺灰のきみに思いを馳せた。縑王けんおうの裔に産まれる双子は運命の子。いつしか名を失い、灯火と遺灰に成り果てる。そのような筋書きの元、臆病な妹は女王に、寡黙な姉は殯衾ひんきんとなり──今はこうして、支配を定める秘宝に迷っている。

 縑王けんおう翹肋衣ぎょうろくえは、運命を定める王権の証。貴石の埋まる骨を継ぎ、宝飾と化した異形の衣は、選定された者がひとたび着用すれば、皮膚を穿ち胸骨に肋と同化して、王が大地を照らす間のあらゆる死を遠ざけながら、暗愚となった暁には心臓を砕いて命を奪う。故に、姉が、遺灰のきみが、どうして今になって秘宝を求め始めたのか、女王にはわからなかった。

 玉座と連なる燭彗塔しょけいとうに力を注ぎ、魔術によって都市まちと国を照らす傍ら、胸中を過ぎるのは姉の顔と白銀の髪の光跡ばかり。昼間でなく夜の璃宮りきゅうに現れるのも、燭台の奥から覗く灰の瞳も、秘した怯えを見透かすようだった。

 それでも──。女王は呟き、華奢な手指を握り締めた。「翹肋衣ぎょうろくえは、私が継ぐ……。遺灰のきみが夜闇の神秘と静寂そのものでも──私たちが姉妹でなくなった日から、それは紛れもなく私の……私だけの運命でした」女王は角灯の戸を開けると幼い火を指先に取り、司祭の前に掲げて言葉を繋ぐ。「だからきっと、どのような結末に至ろうとも、貴女は口を閉ざすのでしょうね」

 司祭は答えなかった。紺瓏に灯火は眩く……しかし女王には、それだけで十分だった。

 灯火の継承以降、女王は折に触れて暗がりの紺瓏院こんろういんを訪れていた。そこには長きに渡って国に仕えるひとりの司祭が静謐と共に在り、孤独な者の告解を聞くと噂された。璃宮りきゅうの侍女や官吏は、御伽話に過ぎないと話を思い出しては語り合ったが、唯一女王だけは、それが秘された真実であると理解していた。

「私は巡礼者に過ぎません。いずれは、ここも去るつもりです」拒絶でなく弁明でなく、戯れにも似た声音が落ちる。相合を崩し、刹那の交わりを想うように、女王は呟く。

「そう言って、すべてを見届けてきたのでしょう。絁姫しき様──」

 掩飾あんしょくの奥に浮かぶ微笑は、夜の雲間の崩璧ほうへきのよう。司祭は言った。「それこそが、私と姉上の誓った、爐花ろかの愚かな運命でした」

 揺らめく炎が瞬き消える。閨紗けさの魔術は気配すらなく、微かな香気の残滓だけが闇の内に漂っている。女王はしばしその場に佇むと、手の内に灯火を生み、金骨の角灯に宿して紺瓏院こんろういんを後にする。

秘宝のろいなど、私が継げば良いと思っていた」

 だが、気が変わった、と翹肋衣ぎょうろくえを携えた遺灰が言う。継承の日、灰は柔らかに灯火の光を包んでいる。「余燼は、私に預けるがいい」

「姉上」静謐の玉座で女王は囁く。翼を広げた骨の衣が蠢き、胸の内奥へと潜っていく。

爐花ろかとは相生そうじょう──どうか、最後まで……」

 燃え尽きるその時まで、どうか、共に。

 祝福と呪縛は溶融し、運命は混色の空を照らして霧の塔へと散っていく。燭彗塔しょけいとうの輝きを得て、都市まちはひとつの灯火となる。紺瓏院こんろういんの露台で熾火の蕾が花開き、灼けた花弁を包む手の主人は、今も遠い終幕を見つめていた。

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爐花 伊島糸雨 @shiu_itoh

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