約束

和扇

第1話

 あの日、私は約束を失った。


 たった一つ、ささやかな約束だった。それすら、私は守れなかった。


 後悔が心を蝕み、三十年経った今でもなお私をさいなむ。苛立ちを覚え、机の上に置かれた分厚い本の山を腕で払ってなぎ倒す。バサバサと音を立てて床に落ちたそれらは頁が千切れ、表紙に傷が付いた。


 本は高価な物、物によっては金貨が飛んでいくような価格だ。しかし、そんな事はどうでもいい。もう気にする必要などないのだから。


 蝋燭の灯りだけが頼りの部屋、ここは我が屋敷の地下室である。


 もう使用人もおらず、それ故に室内はゴミだらけ。この部屋だけではない、屋敷中が同じ有様である。調度品には埃が被り、シャンデリアには蜘蛛が巣を張っている。窓に至ってはガラスが割れて、風が好き勝手に屋敷の中を駆け巡っている。


 町の者からは丘の上の幽霊屋敷だの、亡霊貴族の住処だのと呼ばれているらしい。


 貴族ならば義務を果たせ。そう国王より命じられたが、知った事ではない。命に背く態度を反逆の意志ありと見られたならば、私を捕縛ないしは処断する為に既に兵を派遣しているやもしれぬ。


 だがしかし、私はもう止まる気はないのだ。なによりも、あの王に仕えるのは限界である。私から約束を奪った張本人なのだから。


 どやどやと上階で声と足音、そして武具が擦れる音も聞こえる。


 我が屋敷には、既に兵などいない。彼らは何者なのか、それは明白だ。


 ガチャガチャと鍵が掛かった扉のノブを弄る音がする。どうやら、私が地下室に居る事に気付いたようだ。


 さて、そろそろ行くとしよう。彼ら如きに邪魔をされてはかなわない。


 床に書かれたそれに魔力を注ぐ。蝋燭の灯りではない、薄紫の光が生じた。


 兵士たちが背後の扉を蹴破ろうと、蹴り殴りしている。どうやら間に合いそうだ。


 魔法陣は更に強く輝く。私はその中心に立ち、詠唱を続ける。


 バァンと扉が打ち破られ、数名の兵士が地下室に雪崩れ込んできた。


 だが、もう遅い。我が魔法は完成したのだ。


 一層強くなる光。それに怯む事無く、一人の兵士が剣を振り上げて私を斬る。しかし、それは空を斬った。私の姿は、既にそこには無い。


 私が見ているのは、あの日の光景。見ているだけではない、確実にこの場にのだ。三十年、研究を続けてきた魔法は成功した。


 私が抱きしめるのは一度失った、永久の愛を誓った存在だ。


 抱きしめる腕に力が入る。今度は選択を間違ったりなどしない、あの愚かな統治者に彼女を渡す事など有り得ない。愚者には愚者の末路を、好色かつ残忍な愚王には相応しき裁きを。


 私の心には決意が宿っている。いかなる犠牲を払おうとも戦い抜くという覚悟が。


 そんな私の中身など知らず、彼女はあの日と同じようにただ一言を私に渡す。


 それは彼女にとっては一度目の、私にとっては二度目の約束となったのだった。

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約束 和扇 @wasen

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