離さないで
来冬 邦子
離さないで
待ち合わせをした駅前のカフェは閉店御礼の張り紙がしてあった。どこか別の店に入ろうにも、この辺りは飲み屋しか無い。仕方なくパチンコ屋に入ったが、半時間も経たないうちに財布の半分を飲み込まれて席を蹴った。
何時になったら来るんだ。こんなに人を待たせやがって。行き場が無くて駅の降り口まで戻ると、柱の陰に、
「やっと、来てくれたのね」
長い髪が風に乱されて、顔が見えない。
「莫迦を言うな。俺は一時間も前から待ってたんだぞ!」
「カフェで待っててと言ったじゃない」
「カフェなら潰れてたよ!」
「それなら連絡をくれればいいのに」
「そっちが連絡しろよ! 今まで何してたんだよ!」
「大きな声を出さないで」
実香は先に立って歩き出した。俺も仕方なく後を追う。
「待てよ。どこに行くんだよ」
「忘れたの? 今日は
俺は背筋を物の怪に舐められたような気がした。
「川に行くんじゃないだろうな」
万由子は以前、俺の恋人だった。一年前の今日、川に落ちて死んだんだ。
自殺だった。別れ話をした翌日だったから。
「俺は行かないよ」
実香は背中を見せたまま、立ち止まった。
「なぜ?」
「うるさいな。忘れたいんだよ」
実香は万由子の友だちだと言って、俺に近づいて来た。はじめから薄気味悪い女だっと思ったが、街ゆく男を振り向かせるような綺麗な女だった。
「そうやって逃げてばかりいるから、いつまでも忘れられないのよ」
「なんだと! おまえは、おまえは何様だよ!」
「わたしは万由子よ」
街灯の下で、髪をかき上げた、その顔は……。
「わあああああ」
俺は走り出した。万由子だ。万由子が復讐に来たんだ。
迷路のような路地を迷いながら駆け抜けた。俺の後からはコツコツというヒールの音がついてくる。
「助けてくれ。助けてくれ」
俺は走りながら呪文のように繰り返した。
「あのとき、わたしもそう言ったわよね。助けてって」
「覚えてない。覚えてないんだ」
「わたしからお金を借りたのよね」
「知らない。金なんて知らない」
「忘れてしまったなら、もう一度、あの夜に戻りましょうか」
凩が視界を奪った。
俺は金を借りてから女房気取りになった万由子が鬱陶しくて、あの日、川岸から突き飛ばしたんだ。死ぬなんて思わなかった。こんな街中のちっぽけな川だ。大人が溺れるなんて……。
「助けて!」
川の護岸を滑り落ちながら万由子が泣き叫んだ。
俺のズボンの裾にしがみついてやがる。
「はなせよ」
「いやよ。助けて!」
「それなら、こっちにつかまれよ」
俺は上着を脱いで、万由子の目の前に垂らした。
万由子は俺の上着に手を伸ばした。その隙に俺は足を引っ込め、上着は遠くへ投げた。
「ひどい!」
万由子の顔が醜く歪む。すると。
俺は川に浸かっていた。背が立たない。
懸命に顔を水面に出そうとするが、背後から重い何かが抱きついてくる。
「はなせ!」
顔が沈む。深い深い水に引き込まれてゆく。
水中で女の顔が笑う。その顔が目の前にある。
女の腕と髪が俺に絡みつく。
離さないで。
わたしを一生、離さないで。
了
離さないで 来冬 邦子 @pippiteepa
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