離さないで

来冬 邦子

離さないで

 こがらしの寒い夜だった。捨てられたようないびつな三日月が西の空に引っかかっていた。あの女は何を好き好んで、こんな夜に逢いたいというのだろう。俺はコートの襟を立てて身震いした。


 待ち合わせをした駅前のカフェは閉店御礼の張り紙がしてあった。どこか別の店に入ろうにも、この辺りは飲み屋しか無い。仕方なくパチンコ屋に入ったが、半時間も経たないうちに財布の半分を飲み込まれて席を蹴った。

 何時になったら来るんだ。こんなに人を待たせやがって。行き場が無くて駅の降り口まで戻ると、柱の陰に、実香みかが顔を伏せて立っていた。胸には花束を抱えている。


「やっと、来てくれたのね」


 長い髪が風に乱されて、顔が見えない。


「莫迦を言うな。俺は一時間も前から待ってたんだぞ!」


「カフェで待っててと言ったじゃない」


「カフェなら潰れてたよ!」


「それなら連絡をくれればいいのに」


「そっちが連絡しろよ! 今まで何してたんだよ!」


「大きな声を出さないで」


 実香は先に立って歩き出した。俺も仕方なく後を追う。


「待てよ。どこに行くんだよ」


「忘れたの? 今日は万由子まゆこの命日じゃないの」


 俺は背筋を物の怪に舐められたような気がした。


「川に行くんじゃないだろうな」


 万由子は以前、俺の恋人だった。一年前の今日、川に落ちて死んだんだ。

 自殺だった。別れ話をした翌日だったから。


「俺は行かないよ」


 実香は背中を見せたまま、立ち止まった。


「なぜ?」


「うるさいな。忘れたいんだよ」


 実香は万由子の友だちだと言って、俺に近づいて来た。はじめから薄気味悪い女だっと思ったが、街ゆく男を振り向かせるような綺麗な女だった。


「そうやって逃げてばかりいるから、いつまでも忘れられないのよ」


「なんだと! おまえは、おまえは何様だよ!」


「わたしは万由子よ」


 街灯の下で、髪をかき上げた、その顔は……。


「わあああああ」


 俺は走り出した。万由子だ。万由子が復讐に来たんだ。

 迷路のような路地を迷いながら駆け抜けた。俺の後からはコツコツというヒールの音がついてくる。


「助けてくれ。助けてくれ」


 俺は走りながら呪文のように繰り返した。


「あのとき、わたしもそう言ったわよね。助けてって」


「覚えてない。覚えてないんだ」


「わたしからお金を借りたのよね」


「知らない。金なんて知らない」


「忘れてしまったなら、もう一度、あの夜に戻りましょうか」


 凩が視界を奪った。





 俺は金を借りてから女房気取りになった万由子が鬱陶しくて、あの日、川岸から突き飛ばしたんだ。死ぬなんて思わなかった。こんな街中のちっぽけな川だ。大人が溺れるなんて……。


「助けて!」


 川の護岸を滑り落ちながら万由子が泣き叫んだ。

 俺のズボンの裾にしがみついてやがる。


「はなせよ」


「いやよ。助けて!」


「それなら、こっちにつかまれよ」


 俺は上着を脱いで、万由子の目の前に垂らした。

 万由子は俺の上着に手を伸ばした。その隙に俺は足を引っ込め、上着は遠くへ投げた。


「ひどい!」


万由子の顔が醜く歪む。すると。


俺は川に浸かっていた。背が立たない。

懸命に顔を水面に出そうとするが、背後から重い何かが抱きついてくる。


「はなせ!」


 顔が沈む。深い深い水に引き込まれてゆく。

 水中で女の顔が笑う。その顔が目の前にある。

 女の腕と髪が俺に絡みつく。


 離さないで。

 わたしを一生、離さないで。


           了

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