第7話 【閑話】鼬瓏《ユーロン》の特訓


 鼬瓏を、別の人物として後宮へ潜入させることが決まった。

 自らが教育を行うと名乗りを上げた仔空だったが、それは彼の予想を遥かに超える困難な道のりだった。



 ◇



⦅おまえは、どうしてすぐに『僕』と言うんだ? 何度も言うが、別人に成りきるのだから『俺』か『私』と言い換えるべきだろう?⦆


 特訓を開始してから、今日で三日目。

 いまだ、成果は出ていなかった。


「そうなんですけど、つい口が『僕』と言ってしまうんですよね……」


 鼬瓏に悪びれる様子はない。何事に対しても、常にあっけらかんとしている。

 いつでも、どんなときでも、自由気ままに我が道を突き進む。

 他人の介入も影響も受けない。

 それが、鼬瓏という男だった。


 特訓をしている場所は、彼の寝所。

 潜入までの準備期間がほとんどないため、寝る間を惜しんでの詰め込み教育となっていた。

 もともと夜型の鼬瓏にとって、この時間に起きていることは苦ではない。

 どちらかといえば、十五年間言い慣れた『僕』を他に言い換えるほうが大変だった。


⦅ハア……その口調も、一向に変わらないな⦆


 頭を抱える仔空を、鼬瓏は黙って見ていた……まるで他人事のように。


⦅やはり、最初にどういう人物に成りきるのか、決めておくべきだな。その辺りが曖昧だから、おまえも理解しにくいのだ⦆


「なるほど!」


 いやいや、おまえはわかっているようで、全然わかっていないだろう!と思わず突っ込みを入れたくなるが、仔空は我慢した。


⦅『私』なら、言葉遣いも上品で丁寧な人物に。『俺』なら、野性味溢れる豪快な人物像というのが妥当なところか……⦆

 

「野性味溢れる、豪快な人物?」


 何気ない仔空のつぶやきに、鼬瓏がピクッと反応する。

 濃い灰色の瞳が、キラキラと輝いていた


「それって、まるで『凄腕間者スパイヤン』じゃないですか!」


⦅凄腕間者の洋って、誰だ?⦆


 鼻息まで荒い鼬瓏に首をかしげる仔空の前に、あるものが素早く差し出される。それは、卓子テーブルの上に置いてあった書物。

 鼬瓏の数少ない私物である。


⦅これは……『間者物語』?⦆


「洋は、この物語に登場する主人公の役名です。主人公は戸部所属の高位官吏ですが、地方で不正が行われているという情報を調査するために、間者として敵の本拠地に潜入するんです!」


 主人公が演じている間者が、まさに野性味溢れる豪快な人物とのこと。


⦅だったら、おまえはその人物の口調を真似すればいいのではないか? お手本がいたほうが、やりやすいだろう?


「た、たしかに!」


⦅おまえにも役名を付けるとするなら、そうだな……『凄腕宦官の洋瓏ヤンロン』というのはどうだ?⦆


「『凄腕宦官の洋瓏』……いかにも、仕事ができそうですね! 潜入するときの名は、それにします!!」


 仔空は、なんとなくその場の思い付きで口にしてみた。

 多少でも鼬瓏のやる気を引き出せれば……そんな単純な考えだった。

 ただ簡単に文字を置き換え、『凄腕間者』を『凄腕宦官』へ。役名も、洋の後ろに鼬瓏から一文字取って『洋瓏』としただけだ。

 それでも、鼬瓏は大興奮。効果はてきめんだった。


ヤンと同じにするなら、口調はやっぱり『俺』ですね。あっ、豪快な人物だから、もっと背を高くして体を大きく見せたほうが……」


⦅ふむ。背丈を変えるのは、有効な手段だな。履けば背が高くなるようなくつがないか、明日さっそく浩宇ハオユーに探させよう⦆


「ありがとうございます! 貫禄を出すために、お腹に手拭いを何枚か巻いてもいいかも……」


 巻いておけば、万が一お腹を刺されたときにも安心ですね!と、にこやかな笑顔で物騒な話をする従者を、主はただ黙って見つめる。


 鼬瓏の妄想はどんどん膨らむ。

 次から次へとひらめきが出る度に、反対に、仔空の不安は広がっていく。

 この年下従者を一人で後宮へ潜入させて、本当に大丈夫だろうか。


 主の心配は尽きない。

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