第8話 髪を触られるのが好き
健全な日常生活を送る。
他人から心配されないよう、柔らかい表情、佇まいで日々を過ごす。
それらを心が渇いた状態で行うのは、かなり難しい。
難しいのだが、この五年間、俺はそれをやり通してきた。
母さんに心配されないようにし、友人たちにも暗い表情をあまり見せず、幼馴染の親族にも明るく接してきたわけだ。
でも、その状態から、また心が潤えばどうなる?
亡くなった幼馴染であり、恋人である奈桐が、俺の元に姿を現し、戻って来てくれたなら、いったい日々はどのように変わっていくだろう。
頻度としては、あまり多くなかったけれど、たまにそんな妄想をしていた。
泣く?
笑う?
それとも、パニックになる?
想像としてできるのは、いつもこうした曖昧なものばかり。
どこに行きたいとか、なんて声を掛けたいとか、どこに行きたいだとか、具体的なことを考え始めれば、すぐに目元がキュッとし、涙が出てくる。
だから、あまり深くは考えないようにしていた。
考えないようにしてたんだけれど。
「もうちょっとジッとしててな、凪。今、上手に髪結べてるところだから」
「それさっきからずっと言ってるよぉ……」
今ならハッキリと言える。
俺は、また奈桐と一緒にいられるなら、彼女の髪の毛を毎朝結んであげてるだろう。
現に今、奈桐……いや、凪の髪の毛を、お得意だった懐かしのツインテールにしてあげてるところだ。
少々不慣れで、時間はかかってるんだけど……。
「凪ちゃん、成? 水族館、そろそろ行くよ? まだ準備時間かかりそう?」
ソファに座り、凪の髪の毛を後ろから結んであげてると、おめかし済みの母さんがリビングに入って来ながら言ってくる。
その後ろから、芳樹さんもやって来た。いつも通りの爽やかで優し気な表情。服装もいい感じだ。さっぱりとしたカッターシャツに身を包み、チノパンと腕時計。髪の毛も歳相応に整えられている。ザ・大人の男という雰囲気。
「もうちょっと待って。あと少しで凪の髪の毛結び終えるから。これ終わったら行ける」
「そうは言ったって、母さんの目に狂いが無ければ、さっきからずっとアンタそこで凪ちゃんの髪の毛結んであげてない? いったいどれだけ時間かけてるの?」
「時間がかかるのは当然だっての。元の素材がいい凪だけど、こうして時間をかけて可愛い髪型にしてあげれば、もっとキューティクルになるんだから」
「はははっ! よかったなぁ、凪。お兄ちゃんに可愛くしてもらえて」
笑いながら言う芳樹さんと、呆れてため息をつく母さん。
凪は俺に後ろから抱かれるような形で、リボン付きの白ハイソックスに包まれてる脚を暇そうにぶらぶらさせてた。「まだかなぁ?」と呟いてる。もうちょっと待っててくれ。
「あ、でもアレだな。あんまり凪のこと可愛くさせ過ぎたら、変な男が凪を誘拐しようとするかもしれない。それはそれでマズかったりする……!?」
「くだらない妄想働かせてないで、早く凪ちゃんの髪の毛やってあげなさいよ。さっきからずっと暇そうじゃない。ねぇ、凪ちゃん? お兄ちゃん、髪結ぶの遅過ぎよねぇ?」
母さんに言われて、うんうん頷く凪。
頭を揺らされると髪の毛が上手く結べない……。
「でも凪、お兄ちゃんに髪の毛触られるの嫌じゃないよ?」
「え? そうなの?」
「うんっ。昔から、優しくて、丁寧で、好き。撫でられると眠たくなっちゃうんだぁ」
「昔から……?」「……?」
凪の言葉に、母さんと芳樹さんは小首を傾げる。
凪は一瞬で冷や汗を浮かべ、俺は動かしていた手を硬直させてしまった。
今のは明らかに失言だ。
「む、昔からっていうの、よ、要するに芳樹さんの撫で方と俺の撫で方が少し似てるって意味だと思うよ!? ほ、ほら、凪はまだ四歳だし、昔って言ったって、語れる過去も芳樹さんとの思い出しかないわけだし!」
「ほう。成君と俺の撫で方が似てる。なるほど。せめて勝っていたかったんだけどな、父親として」
そ、そこで張り合ってこないでくださいよ、芳樹さん!
「な、凪もそういう意味で言ったんだよね!? な、何なら撫で方はパパの方が上手だけど、少し似てるから~、みたいな!」
「う、うんっ! そ、そうっ! お兄ちゃんの撫で方、お父さんと似てるから好きっ!」
「だ、だよねぇ~!? うんうんっ! あ、あはっ、あははははははっ!」
ぎこちなく、いや、ぎこちなくはないはずだが、俺はその場で高笑いし、どうにかこうにか場を誤魔化した。
けれど、母さんは未だに俺を疑うかのように腕組みし、ジーッとこちらを見つめてくる。
芳樹さんの方は……なんだか今の俺の言い方で機嫌を良くしてくれたみたいで、「なんだ、そういうことだったのか」とニコニコしてた。この人はこの人で単純だ。見た目にもよらず、もしかしたら少し天然さんなのかもしれない。とにかくよかった。
「……まあ、何でもいいけど。とにかく成? あんた、あんまり遅いと母さんが凪ちゃんの髪の毛結んじゃうからね?」
「は、はぁ。了解です」
「凪ちゃん? こう見えてね、お母さん案外髪結んであげるの上手なのよ~? 今度はお母さんがやってあげるね」
「う、うんっ!」
凪は頷き、母さんや芳樹さんに悟られない程度に安堵の息を吐いていた。
俺も同じだった。
安堵し、息を吐く。
それから、結んでいた髪の毛も完成し、俺たちは四人で車に乗り込むのだった。
行き先は街の水族館。
今日のお出かけ先はそこだ。
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