彼女が「はなさないで」と言ったから

五色ひわ

お題は『はなさないで』

「絶対にはなさないで!」


 僕の右手の先で、彼女が叫ぶ。崖の上で足を滑らせた彼女の手を咄嗟に取ったところまでは良かった。だが、僕には引き上げて助ける力は残っていない。それどころか、このまま手をはなさなせれば、僕も一緒に崖の下まで落ちてしまうだろう。


 彼女が僕の右手のひどい怪我を見て、表情を歪める。


「はなさないから安心して」


 僕は何とか笑顔を作って彼女を励ました。


 これは気休めなんかじゃない。彼女が『はなさないで』と言うのなら、僕は絶対に手をはなさない。だって、僕は……


「クッ……」


 遮るもののない崖に突風が吹き荒れる。バランスを崩して、身体がズルリと崖の方に滑った。何とか踏みとどまったが、どのくらい持つかわからない。


「お願い、はなさないで」


 彼女が悲痛な声で呟くように言う。叫ぶ気力は残っていないらしい。それなのに僕はその声を先程より冷静に聞いていた。


 ここで僕が手をはなさなければ、二人とも崖の下に落ちてしまうだろう。どんなに運が良くても助かりそうにない。そんな中で『はなさないで』と訴える彼女は僕のことを少しでも考えてくれているのだろうか?


 彼女が僕の警告を無視して崖近くの薬草に手を出さなければ、こんなことにはなっていない。彼女は僕を巻き込んだことに対してどう思っているのだろう?


「うわぁ!」


 先程より強い突風が吹き荒れて、僕の身体が浮き上がる。気がつくと、僕は崖から離れた草の上に座り込んでいた。僕の右手の先に彼女はいない。


「助けてくれるって信じてた!」


 元気な彼女の声が聞こえて振り向くと、黒いローブを着た男に抱きつくところだった。僕らの幼馴染の魔導師だ。僕は彼らと三人でパーティを組んで冒険者をしている。今日の薬草採取は、故郷を旅立つ準備のはずだった。


「二人とも無事で良かったよ」


 彼は離れた場所で別の薬草を採取していたはずだ。僕らの異変に気づいて駆けつけてくれたのだろう。先程の風は彼の魔法だ。


 彼と目が合うと、勝ち誇ったような笑顔を向けられた。彼女は気づいていないが、僕と彼は彼女を巡って何年もライバル関係だった。これは勝利宣言なのだろう。


 それなのに、僕の心は穏やかだ。


「彼が来るまではなさないでくれてありがとう」


「君が無事で良かったよ」




 街に戻り、僕は利き腕の怪我を理由に冒険者を引退した。彼が腕の傷をきれいに治してくれたことは彼女には内緒だ。


 そして、二人は故郷の街を旅立つ。


「君の放った風魔法のおかげで目が覚めたよ。感謝している」


 魔導師は僕の言葉に引き攣った笑みを浮かべていた。彼がこの街に戻って来ることは二度とないだろう。


 僕は寂しさを隠して、小さくなっていく二人の背中に手を振った。



 終


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女が「はなさないで」と言ったから 五色ひわ @goshikihiwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ