こちらへいらして

低田出なお

こちらへいらして

 左手が冷たい何かに掴まれた。

「っ!」

 反射的に振り解く。右手のバケツに残っていた水が、ちゃぷんと音を立てた。

 すぐに手のひらを見る。かじかんだ指先はどことなく白っぽい。視線を上げ、周囲を見渡しても、目に映るのは墓石ばかりで、俺の手を握ってくるような姿はどこにもなかった。

 グーパー、グーパー。まだ、冷たさが残っている気がする。

「なんだよ…」

 まだ明るいとはいえ、墓地にはやはり恐怖心がある。それが墓地という場所への印象から引っ張られたものなのか、実際に肌で感じた経験によるものなのか、俺には判断できない。ただ、少なくとも今感じているのは、間違いなく後者によるものだった。

 逃げる様に早歩きで進む。コの字型のコンクリートの通路とスニーカーが擦れる音が、寒空の下で響く。また手元のバケツの中から跳ねる音が聞こえた。

 墓地を出て、墓参りの貸し道具を返しに入り口側の小屋へ向かう。小屋にはシンクが取り付けられていて、その周りを取り囲む様にブラシやら柄杓、桶などが掛けられている。

 そこの歯抜けになっているスペースを埋める様に道具を掛け、余った水を捨ててシンクの下にバケツをしまった。

 シンクに置かれた食器用洗剤を手に出し、申し訳程度に泡立てて、そそくさと洗い流す。冷たさで手先の体温が一瞬で奪われ、目元に皺が寄った。

 手首を振って水気を払う。ハンカチは持っていない。いつもいつも、しまったと思うだけで、持ち歩く意思が無いのが自分でも分かっている。

 冷えた指先を庇う様に、ダウンのポケットに手を突っ込む。中に入っていた車のキーを弄びながら、駐車場へと足を向けた。

 はずだった。

『〜〜〜』

「うっ!?」

 耳元で聞こえる、何かの声。言葉とも取れないのに、なぜだか確かに声だと認識出来てしまう。

 振り払う様に頭を振る。呼応する様に、そばの柄杓が音を立てて落ちる。まだ、近くにいるらしい。

 気が付けば周囲が薄暗い。さっきまではまだ明るさの残っていた景色は、上から薄墨をかけたみたいに暗く澱んでいた。

『〜〜〜』

 耳元に冷え切った声は這い寄ってくる。背中が泡立つ様に汗をかき、自分の表面温度が著しく低くなるのを感じる。

 呼吸も浅い。吐いた息の量と吸った息の量が釣り合っていない。

『〜〜〜〜〜〜』

 訴えかける様に、繰り返し声が響く。いつの間にか両耳に聞こえてくるそれが頭の中に入ってくるたび、視界の落ち込みが酷くなるのが分かった。頭が重い。身体を万力で絞められるみたいに、血がうまく回っていない。

 連れて行こうとしているのだ。己の手から離れた俺を。もう一度、自分のものへと引き寄せるために。

 しかし、そうはいかない。そうはいかないのだ。

 冷え切った手を握り込み、唇に力を込める。そして、恐怖心と静けさを押しやるように叫んだ。

「いい加減にしてくれ!」

『……〜〜〜〜……』

「いなくなったは貴方が先でしょう」

 大声を出すと、声は小さくなった。あの時と一緒だった。

『~~~』

「身勝手な。墓参り来てるだけでも有難いと思って下さい」

『……〜〜』

 さらに語勢を強めると、聞こえる声はどんどん萎んでいく。そして次第に聞こえなくなり、最後に一度「〜〜」と短く言い残して消えていった。

「……はあ」

 ため息をつき、視線を上げる。先程までの薄暗さは綺麗に消え、息苦しさも無くなっていた。

 俺はもう一度ため息を吐く。そして、落ちた柄杓を掛けなおしてから、両肩をぐりぐり回して駐車場へと歩き出した。

 すでに俺の中には恐怖は無かった。代わりに、もやもやとした胸の苦しさがあった。

 さっきは強く言ったものの、俺自身に非がないとは言えない。既婚の相手に声を掛けたのは、他でもない俺である。

 とはいえ「旦那が死んでこっちに来たから」と言って、別れ話を切り出したのはあちらだ。それでこちらは納得したのに、後から「ヨリを戻そう」と言ってくるのだから、堪らなくなるのも仕方がない。

 こちらだって、向こうが言わなければ付き合い続けていたのだ。我儘な自覚はある。でも、横暴な態度を取るのも、少しくらい許してほしかった。

「こんな気持ちになるんなら、口説くんじゃなかったな」

 まだ顔が見えたころの、薄く透けた彼女の顔を思い浮かべる。短く終わった日々を想起しながら、鍵を開けて車に乗り込んだ。

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