今日と明日、これからの未来③

「美咲ちゃん、久しぶりー! この間は来てくれてありがとうー!」


 最初にそう話しかけたのは、ミサキの方だった。美咲は肩肘を張ったまま、びくりと体を震わせる。


「あ。あ、どうも」


 美咲は病室の入り口から俺達のいるところまで足早に歩いて来て、ミサキと泉さんにそれぞれお辞儀をした。


「美咲です」


 いつも外行きの時に見るような少々ビクビクと怯えた様子の美咲だった。


「うん、知ってるー。元気してた?」

「はい」


 ミサキはニコニコと笑顔を崩さない。喋り方が完全に桔梗エリカとしてのモードに移行していた。泉さんの方は、そわそわと落ち着かない様子だ。それは美咲も似たようなものだった。俺の両親に丁寧に挨拶した時の落ち着きはどこに行ったのか、美咲はベッドで横になっている俺とそれ以外の二人を交互に見比べる。それから無意識的にか、ゆっくりと俺のベッドの真横まで近付いて来ようとしたのを、ミサキが立ち塞がる形で防いだ。


「ユウくんがお世話になってるみたいで」

「あ、はい。お陰様で?」


 ──何だろう。見ていてすごく胃が痛くなって来た。今のこの病室に流れる空気、怪我人には刺激が強い。ミサキは俺に背中を向けていて、その表情は俺からは窺い知れない。美咲とミサキが、しばらく無言のまま相対する。ミサキが小さく鼻から息を吐く音だけが、俺の耳に届いた。


「じゃ、あたしらは今度こそホントにお別れだから」


 ミサキは俺に背を向けたままそう言う。美咲には来るな、と言っていたのに、いつから俺達のことを見ていたのだろう。


「美咲ちゃんもまたライブ来てね! 待ってる」


 それからミサキはくるりと俺の方を振り向く。


「ユウくんも。あたしでもすずちゃんでもかえでちゃんでも、いつでも応援しに来て、大丈夫だからね?」


 それは暗に、ミサキはもう自分は俺のことを忘れると言っているのだろう。今こうして直接話しても、もう恋人としての距離感ではない。それを示した以上、俺達の関係は完全にリセットされたのだ、と。


「すずちゃん、行こ?」

「う、うん。そうだね、エリ……ちゃん」


 ミサキは改めて、ずっと静かにしていた泉さんの手を引いて、美咲にも手を振る。


「あの」


 けれど、美咲はそんなことはお構いないとでも言うように、ミサキに話しかけた。


「エリカさんはもう、先輩とよりを戻す気は、ないのでしょうか?」


 ミサキの顔に張り付いた笑顔が、ピクリと引き攣った。俺は自分の腹の辺りに手を当てる。茉綾さんとのことで懲りたと思っていたが、そういうわけでもないらしい。

 ──いや。美咲は美咲で、考えた上での質問なのか。美咲は俺とミサキの間のことを、あまりよくは知らない。茉莉綾さんとのことは納得したのだとしても、美咲の中にある「先輩は他の誰かと幸せになった方が良い」という気持ちが完全に払拭されたわけではないのだろう。

 美咲の言葉を聞いて、ミサキの眉と眉の間に一瞬だけ皺が寄った。ミサキは「ふう」と息を吐いて肩を落とすと、またさっきと同じ笑顔になる。それから、考え込むように目を閉じて、今度はその笑顔を解いた。


「どうして?」


 ミサキはその場でじっと美咲の顔を見る。美咲の方も、その眼差しを見つめ返す。


「先輩は、まだエリカさんのことも好きだと思う、ので」

「美咲、それはさ」

「先輩は、今は静かにしてください」


 おい、何言ってんだよ。俺の問題なんだけど。


「先輩が何て言うかは、よく分かってますから」

「ユウくんのこと、自分の方がよく分かってる?」


 俺と美咲の会話に挟むように、ミサキがそんなことを尋ねる。美咲は勢いよく首を横に振った。


「そういうわけではなく。ただ、先輩は私のこと……」

「そうだよ。分かってるじゃん」


 ミサキは大きく溜息をついた。その顔には、もう張りぼての笑顔を浮かべる気はなくなったらしい。今は呆れた様子で美咲のことを見て、それから困ったように自分の首筋を掻いた。


「ユウくんは、あなたのことも好きなの」

「……はい」

「あたしとどっちが……とか、そんなのは関係ない」

「おい、エリ……」

「ユウくんは黙って」


 また言葉を止められた。何でだよ。呆けた様子の俺の隣に、泉さんがしゃがみ込んだ。


「ダメですよこれは……。結城さんの言い分は後で」


 ──納得が行かない。俺はまた口を開こうとしたが、泉さんが自分の唇に人差し指を押し当てて「静かに」のポーズを取ったのを見て、俺は自分の頭をわしゃわしゃと掻く。わかった。しばらく言う通りにする。

 ミサキは今度は俺の方を見る。当事者である筈なのに二人に口を挟むのを禁じられたばかりの俺に、ミサキはベーッと舌を出した。


「そうだね。あたし、まだユウくんのこと忘れられない。だから、ユウくんと別れた後、こなくそ! って感じで忘れようとした。おかげですごく頑張れた。それには、感謝してる。あたしを好きで居てくれる、ファンの皆の気持ちってこんななのかな、ってのも肌で感じられた。それも、多分あたしにとってプラス」


 ミサキは冷静に見えるが、手を後ろ手にしてグーパーと動かし続けていた。多分、あれでもかなり気持ちを抑えている。


「でも、ユウくんには言ったよね? あたしは、あたしの好きなユウくんが他の子にも気持ちを割くなんて、そんなの許せない」


 ミサキはまた視線を美咲に戻す。


「美咲ちゃんが、あたしのことをファンとしても応援してくれてるのは知ってる。それは本当にありがとね?」

「はい、いつも配信観てます」

「あ、うん」


 自分の言葉にそんな風に返す美咲に、ミサキも少し調子を狂わされている様子だったが、小さく深呼吸をして息を整え直した。


「美咲ちゃんがユウくんのことをどう思ってるのか、すずちゃんから何となく聞いたよ」


 俺もまさか、こんなことになるとは思っていなかったから、美咲と顔を合わせることはないだろうと思っていた泉さんには美咲のことを話した。美咲にも、俺が泉さんにそのことを話したと言うのは、俺も何となく伝えている。


「その上で言うけどさ? もしあたしがホントにまたユウくんと恋人になったら、あたしはユウくんのこと、美咲ちゃんにもう返さないよ」


 また勝手なことを言う。いや、これは単純にミサキの気持ちの問題か。そうなった時、俺が実際にどうするかは、ミサキは今問題にしてない。


「ユウくんを美咲ちゃんには会わせない。絶対に。こういうの、全然許せるって人は良いんだろうね。だから、あたしの気持ちなんて分からなくて良いんだけど」

「確かに私には分かりませんけど、それでも理解はできます」


 美咲は臆さずに、ミサキの言葉に返す。少しずつ、この場に慣れてきたらしい。


「エリカさん、同担拒否ですもんね」

「ん? ……うん、そう」


 ミサキは一瞬、戸惑いながらも首肯した。桔梗エリカが自分の配信でそう言っていたと教えてくれたのも美咲だったな。


「配信で言ってたのを見ました」

「そ、そっか。ホントにファンなんだね。ありがと」


 ミサキは自分の気持ちを整えるかのように、小さく咳払いをした。


「美咲ちゃんはそうじゃない?」


 ミサキが問い掛ける。俺とミサキが付き合っている頃、美咲は俺と会えなかったことを寂しかったと言っていた。美咲はその問いに、すぐには答えず、俺の方を見つめた。それから自分の手を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私は、先輩がいなくても多分あまり気にはしないと思うんです」


 あまり良い印象を与える言葉ではないと思うので俺はハラハラしてしまうが、美咲が言っているそれは本当にただ言う通りの意味で、他意がないことを俺は分かっている。ただ、これをミサキはどう思うか……。

 美咲は一瞬だけ目を瞑った。ぎゅっと目を瞑ったその顔に皺が寄って、すぐにパッと目を開く。


「でも、ふとした時に先輩に話したいことがあるのに、先輩と話せないのは、やっぱり寂しいと思います」

「……そ」


 今度はミサキの方が目を瞑り、「ふっ」と笑みを溢した。


「あたしは別に、それで充分。ね、ユウくん?」


 ミサキが改めて俺の方を見る。


「何?」

「ユウくんは、あたしが美咲ちゃんと会うの禁止したらどう思う?」

「嫌だよ」


 そんなの、嫌に決まってる。ミサキと別れた時にも、似たような話をした。だからこの問答は、それを今確かめ直しているだけだ。だからミサキは俺の答えに、満足げに笑う。


「だよねー。知ってる。ユウくんがそう答えるのは最初から分かってたから。ね、美咲ちゃん」


 急に話を振られたにも関わらず、美咲は当然とでも言いたげに、大きく首を縦に振った。


「ですね。だから先輩は黙ってて良かったんです」


 何なの。じゃあ今のやり取りなんだったんだよ、と喉元まで出かかったが、言うのはやめた。俺とミサキが別れた時のこと、そして改めて今顔を合わせたこと、それと一緒か。美咲とミサキの間にもあった、小さなシコリを確認する為のやり取り。人と人との間にあるそれは、少し話し合ったからと言って、すぐに取れるようなものではないけれど、こうして顔を合わせることで少しでも、どこかへ流れていく部分も、確かにある。


「ま、良かったよ。美咲ちゃんがやっぱり良い子で」


 ミサキはツカツカと俺のベッドに近付く。そして、その横でしゃがみ込んでいる泉さんの腕を掴んで立ち上がらせ、そのまま腕を抱きかかえた。


「あたしにはアスカがいるし」

「エリ……!」


 軽い口調のミサキに対して、泉さんの方は泣きそうな顔になって、ミサキを抱き返した。


「あ、ちょっと!?」

「エリ、そんな風に言ってくれて、私は嬉しいです。ホテル、行きますか?」

「!? いや、そこまでは!?」


 ──何やってんだよ、あんたら。泉さんも、俺の横で喋るのをずっと我慢していたし、何か内に溜め込んでいたものもあったのだろう。だとしても解放し過ぎだが──俺は泉さんが以前、電話でミサキのことを愚痴っていたのを思い出して、苦笑した。ここの二人のシコリも、これから時間をかけて解していくものだろう。

 ミサキと泉さんは手を繋いで──というか泉さんがミサキの手を握ったのをミサキが仕方なく握り返して――二人一緒に俺と美咲を見た。ミサキは呆れ顔で俺と美咲の顔を見比べて、溜息をつく。


「それに、美咲ちゃんがあたしとユウくんによりを戻さないのか聞いたのもあれでしょ? その方がユウくんは幸せだとでも思ったんでしょ」

「えっと、その」


 美咲は、今度はミサキの言葉にすぐには答えられなかったが、ミサキは答えを待たずに言葉を続けた。


「あのね、ユウくんのことをよく知ってるあたしが断言する。少なくとも今、ユウくんは美咲ちゃんの側にいて幸せだよ」


 こいつはまた勝手に……。けれど、それは俺からもずっと美咲に言って来たことだった。ミサキは泉さんの手を握るのとは反対側の方の手で、美咲を指差した。


「だから、美咲ちゃん。改めてユウくんを──あなたの先輩をよろしくね?」


 泉さんも、おずおずと俺と美咲にそれぞれ頭を下げた。


「結城さん、美咲さん。その、すみませんでした。かえって色々ご迷惑をかけてしまい……」

「良いよ。いや、ちょっとどころか、だいぶ疲れたけど……」

「あ、一応言っておくけど、ユウくんとアスカは別に今まで通り仲良くしてて良いからね? ユウくんがアスカに手を出そうものなら、あたしはユウくんのこと許さないけど」


 ミサキの言葉に、俺はまた頭を掻いた。


「それはもうどういうことだよ」

「アスカがユウくんに手を出すことはないから、自動的にユウくんが悪いでしょ。そうなったらあたしは全力でアスカを守る」


 好意の矢印がぐちゃぐちゃだろ、それは。ただまあ、人を好きであるというのはそんなものか。理屈で全て言い表わせるようなものでもない。泉さんからミサキへの気持ちも、ミサキから俺への気持ちも、俺から美咲への気持ちも、そして美咲から俺への気持ちも──。

 そしてミサキと泉さんの二人は今度こそ、俺と美咲に挨拶をして、病室を出て行った。二人を見送った後、俺はゆっくりと息を吐いた。緊張の糸が切れたのを感じる。何でこんなことになったんだっけ? 泉さんが、一度は俺もとミサキは顔を合わせてすっきりしておくべきって言って、それは別に良くて──。


「――なあ、美咲」

「何ですか、先輩」

「何でお前、病室来ちゃったの?」


 俺がそうたずねると、美咲は俺から目を逸らした。


「桔梗エリカと烏京すずめのオフを、私も一目見るチャンスだと思い……」


 お前さあ……。まあ、良いか。結果的に、皆で悪くはないやり取りができた、気がする。何も進展しない、ただ現状を確認し合うだけの目も当てられないやり取り。けれど、そういうのも今の俺には必要なものだったように思う。

 退院までの間、他には野々村夫妻と宇内が文芸サークルの代表として顔を出してくれた。塾の同僚や、ゼミの仲間もお見舞いに来てくれて、俺は改めて皆にそれぞれ感謝した。退院したら、休んでしまった分もしっかりと皆と付き合って行こう。

 医者の言う通り、俺は一週間で退院した。退院してからも十日間は腕のギプスと松葉杖が外れなかったので、クリスマスの予定には結局間に合わず、予約していたフレンチには俺ではなく、茉莉綾さんが代わりに行くことになった。美咲と茉莉綾さん、二人とも帰って来るなり、今まで食べたことのないような美味しい料理だったとレストランのことを絶賛するので、俺は改めて自分がヘマをして怪我をしてしまったことを後悔した。


「来年こそは俺も行くからな」


 俺がそう言うと、美咲は「はい! 楽しみです!」と、満面の笑みで答えた。その後、年末前の最後の営業日に歯科医院に行き、最後の歯の治療をした。泉さんとここで会うのも最後かと思ったが、年明けにもまた収録でミサキともども顔を合わせるのだ。


「じゃあ、また年明けよろしくお願いします」

「はい。結城さんも、良いお年を」


 病院であんなやり取りをしといても、なんだかんだ言って二人とも縁は切れなさそうであり、俺は安堵と心配交じりで泉さんに改めてお礼を言って歯科医院を後にした。年末は俺も美咲もそれぞれの実家に帰った。俺の方は、帰ってから母親に、病院に見舞いに来ていた美咲は一体どういう子なのか、しつこく聞かれた。俺は言える範囲でこの一年あったことを母親に話しながら、これまでのことを思い出していた。これまで色々とあったけれど、俺は就活もまだあるし、怪我が治ればまたしばらくは片桐さんのバイトを続ける許可も貰った。大学生としては、寧ろこれからが忙しい時期だ。

 大晦日には美咲から、実家で食べているという年越し蕎麦の写真が送られて来た。俺も同じように実家で母親と一緒に作ったおせちやお雑煮の写真を送り返した。年明けの瞬間にはお互いに「明けましておめでとうございます」の連絡を送り合った。俺は眠ってしまったけれど、美咲は家族で初日の出を見に行ったらしく、その時に撮ったという動画も送られて来た。そんな風にして、年末年始は離れていても割とこまめにお互いの様子を伝え合って、気付けば正月も終わって、大学も再開した。


「先輩、あけましておめでとうございます」

「ああ、おめでとう。今年もよろしく」

「はい、よろしくお願いします」


 俺と美咲は、新年初日の大学の部室で顔を合わせて、新年の挨拶をした。

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