近所にて、あの日の巡り合い⑤
結局、歯医者での通院は親不知の治療を含めて通院の回数が増えた。泉さんには「思いの外、長く顔を見ることになりましたね」と笑われた。俺だって好きでこんな長く通院しているわけではない……。今後は口内に違和感を覚えたらさっさと歯医者に行くことを泉さんに伝えると、是非そうしてくださいとスッパリ言われた。
「そういや通話のこと、エリには言ったんですか?」
「言いましたよ」
「……何て言ってたかは俺、聞かない方が良いですかね」
「とても複雑な表情をしていましたが、結城さんのカノジョさんの話をしたら、少し納得した様子でした」
泉さんは、俺が思っていたのとは違い、あっさりとミサキの様子を教えてくれた。納得?
「ユウくんにはそれくらいの苦しみはあって良い、だそうです」
「なるほど……」
「それは私にも刺さるから次言ったら怒ると言うと狼狽えていましたが」
「前から思ってましたけど、泉さん中々に容赦ないですよね」
泉さんは烏京すずめとしては、サバサバしたギャルキャラとして売り出しており、最初はそこに実際の泉さんとのギャップを感じたものだったが、案外と根っこのところはそう変わらないから、無理なく烏京すずめを演じられているのかもしれない、とすら思う。
「ところで、結城さん何か忘れていることはありませんか」
次の通院の予約も取り、医院を後にしようという帰りの間際、俺は泉さんにそんなことを聞かれた。
「何か忘れていること、ですか」
何か歯に挟まったような言い方だった。俺は問いの意図がわからず、首を傾げる。
「多分、大丈夫です」
泉さんは、少し考え込むようにする。
「そうですね。そうです。私の勘違いでした」
「……? そうですか」
その日はそれ以上、泉さんと会話することなく帰宅した。彼女が何か話したくて話せないでいたことの正体が分かったのは、リフレ送迎の待機時間に書き上げた脚本をみわさんに納品し、次の仕事についての話がしたいと言うみわさんといつものようにビデオ通話で打ち合わせをした時だった。
『今回も良い仕事でした。ありがとうございます』
「こちらこそいつも丁寧にありがとう」
『売り上げもそれなりに好調。作品の販売数も増えたし、毎回レビューしてくれるような固定のファンもついた』
「みわさんの頑張りの成果だね」
『いつも仕事の早い結城さんのおかげでもある。その証拠に、ふふ』
みわさんは普段はあまり見せない破顔した笑みをこぼす。ニマニマと、嬉しさを我慢仕切れない、といった風に見える。
「みわさん? どうかしたの?」
『ふふ。この間ぼくが言ってたこと覚えてる? 大きな案件があるって』
「覚えてるよ」
『あの仕事、正式に決まりました!』
みわさんが画面の向こうで拍手した。みわさんが仕事のことになるとテンションが上がり始めるのはいつものことだが、いつも以上にテンションが高い。
「おお、あれか。俺にも収録を一緒に行って欲しいって言ってた」
『そうそう! いやー、最初来た時はぼくもまさかと思ったよ』
「どんな仕事なの?」
『ふっふっふ、よくぞ聞いてくれました』
みわさんはこれ以上にないと言っていいくらい、得意げな顔をした。
『ウチの作品の声優を、桔梗エリカがやってくれることが決まりました!』
みわさんはまた自前の拍手をする。
「……え」
対する俺は、画面の前でみわさんを見ながら固まってしまった。みわさんの言葉はしっかり耳に届いているのだが、あまりに急に知らされたニュースに脳の処理が追いつかない。いつもいつも俺はそうだ。そろそろ、どんなことがあっても驚かないでいられる屈強な精神を持ちたいものなんだけど。
「え、マジ?」
『マジ』
みわさんは自慢げな顔のまま、俺に親指を立てる。
『正確には桔梗エリカの所属しているグループ、アットシグマとのコラボ。ぼくが桔梗エリカをリスペクトしてることはSNSとかでも周知だったのを、アットシグマのマネージャーさんが見つけてくれたらしい』
「お、おお。マジか」
俺の頭はまだ話についていけていない。
『結城さんも桔梗エリカとアットシグマのファンでしたよね!?』
「……うん。えっと、アットシグマとのコラボで? 収録に一緒に行くってことは?」
『結城さんが書いた脚本で、レコーディングスタジオでの収録になる。いつもは個人で録音している声優さんに声を発注して、それを作品に載せるのがぼくの仕事なんだけど、こういう、人がたくさん関わる企画だとそうすることも少なくない』
「なるほど、それは分かる。今、分かった」
アットシグマとの──、桔梗エリカとの──、ミサキとの仕事、か。
正直そんなことがあるとは、一度だって考えたことはなかった。
『ウチの作品のファンには、ぼくと同じで、桔梗エリカにやってほしいシチュエーションだけど、本家はやらない、みたいなのを求めている人が少なくなったから。仕事をぼくが受けることは、双方のメリットになる』
その辺の理屈も分かる。アットシグマのプラデューサーとやらも、個人事業のみわさんによく目をつけたものだ、と俺も思う。
『結城さんは生桔梗エリカ、見たことあるんでしたね?』
「ああ、うん」
見たことあると言うか……。みわさんに本当のことを言うのは流石によした方が良いか。言うにしても、少なくとも今じゃない。別に仕事に支障はきたさない、筈だ。俺もミサキも大人だ。泉さん──烏京さんとひょんなところで再会した時のことを思い出せ。こういう巡り合わせも、ある時はある。
『ぼく、ライブとか一度も行ったことないから、見たことないんだよね』
「この間、誘ったじゃん」
『仕事ならまだしもプライベートで人の多いところに行くのは嫌……。それにその時も結城さんには言ったけど、ぼくは配信者の桔梗エリカのファンだから』
「気持ちはわからないでもない」
『先輩さんから見て、生のアットシグマの皆はどうです?』
自分は配信者の桔梗エリカのファンなんて言いながら、そんなことを聞くみわさん。アットシグマはどうか、か。ミサキとの付き合いも短くはなかった。まさかのところで泉さんと会ったり、と彼女らのオフの姿も俺は知ってしまっているが、それでも彼女達に対する感想は変わらないと思う。
「皆、すごく輝いてる。可愛くて、一生懸命で、応援したくなる」
ミサキがこれからもその輝きを、少しでも多くの人に届けようとして、その手伝いができると言うならば。その耀きがもしも小さいものでも、俺は彼女を好きでいた一人の人間として、彼女を応援するファンの一人として、彼女を押し上げる仕事相手として、どんな形であっても力を貸したいと思う。その気持ちは、揺るぎない。
『数々の女の子のえっちな姿を見ている結城さんにそこまで言わせるとは……』
「言い方な?」
みわさんは溜息をつく俺を見て、楽しげにケタケタと笑った。
『えっちな女の子と言えば、美咲ちゃんとは最近どうです?』
「その思い出し方で合ってる?」
みわさんも今や見学店の主力メンバーの一人なんだから、他人のことをどうこう言う側ではない。
『ぼくもたまに美咲ちゃんと話しますけど、あんまり結城さんの話を聞くことはないんで』
「あいつは普段からわざわざ俺の話をするような奴じゃないから」
何かあった時はすぐに色々な人に相談するクセにな。そういうのも、流石に段々分かって来たよ。
『ぼくも恋人のこととか、他人にあまり話す方ではないので、だからどうと言うことはないけど』
「そうか。俺はどこに行っても美咲とのことを話しているような気がするよ」
今もそうだし、文芸サークルでもそうだし、泉さんとの通話も。泉さん以外については共通の知り合いだから、と言うのもあるけれど。それでもやはり、俺の気持ちを彼女に曲がりなりにも受け入れてもらってからは、美咲の話を他の人ともすることがより増えたような気がする。
「楽しくやってる」
泉さんにも言った通りだ。正直な話、俺と美咲との関係は、今でも俺は一言では言い表せない。事実上は付き合ってるだとか、美咲は恋愛感情がなくて俺を好きじゃないだとか、恋人だとか、Aセクシャルだとか、パートナーだとか。何かの枠に押し当てることもできるし、他人に説明する時はその枠が便利なこともあるけれど、それはあくまで他人に対してのモノだ。きっと俺は美咲と向き合う以上、関係性を模索していく他ないのだろう。けれど、それは美咲に対してだけではない。茉莉綾さんともそうだし、ミサキともそうだし、今こうして話しているみわさんとだって、人との関係を一言で説明するのは簡単ではあっても、その説明で漏らしてしまうことはいくらでもある。
『それを結城さんからも聞けて良かったです』
みわさんは画面向こうで、腕を組みながら頷いた。
『それじゃあ、アットシグマとの仕事の件、また詳しいことが分かれば追って連絡します』
「わかった」
みわさんから、俺は改めてその話を受けることを了承した。それから俺が考えたのは当然、歯科医院で別れ際、何かを言いにくそうにしていた泉さんのことだった。あの時にもう泉さんはみわさんと仕事をすることは知っていて、しかもその脚本に俺が起用される可能性を知っていたということだろうか。みわさんとの仕事に関して、俺は小説を投稿するのと名前を分けていない。ミサキは俺がそうして使っている名前も当然知っているので、気付くことは容易い。ただ、本当に俺なのかの判断はつきかねた、といったところか。
俺は悩んだ挙句、このまま黙っているのも良くないと思い、泉さんにメッセージを送った。
『この間言っていたことですが、もしかして音声作品に関する話だったりするでしょうか』
そのメッセージについては、二十分程してから返事が来た。
『それです。やはりそうでしたか』
泉さんが返すメッセージはシンプルなものだったが、文字を打ちながら溜息をつく泉さんの姿がありありと想像できた。
「結城さんとの通話について私が話した時に、どうももじもじと何か隠すような仕草をしていたもので、エリを問い詰めたんですよ私」
次の歯科医院への来院時、俺は改めて泉さんから例の件についての話を聞いた。
「もう隠していることはないか、と」
「そしたら仕事相手に俺が関係しているかもしれないことがわかった、と」
ミサキは俺のことを、嘘がつけないとよく言ったものだが、そんなミサキの方は泉さんの前では嘘をつけないらしい。
「コラボ相手を探して来たのはマネージャーの優子ちゃんなので、結城さんが関係していたのは本当にたまたまなのですが」
「まあ、みわさんの作品、俺だけが脚本書いてるわけじゃないし」
ミサキが引越しの居住先を決めた時と一緒か。もしかしたら、を考えていたら、実際に俺と泉さんとには接点が出来たし、みわさんと縁で俺と仕事をすることになった。高校卒業の頃は、ミサキとは二度と会えないと思っていたけれど、こう巡り合わせが重なると案外、世間ってものは狭いもんだな、という気がしてくる。
「立会人の泉さんとしてはアウトですか? そうなら、俺はこの仕事、今からでも降りること考えてますけど」
「あなたのそういうところ、エリとの別れ話が拗れそうな時に改めたのだとばかり私は思っていたのですが?」
「えっと、その、すみません?」
泉さんは呆れたように鼻からふんと息を吐き、俺を見た。
「構わないですよ。仕事ですから。当然、この期に及んでエリに手を出そうと言うなら、私は容赦しません」
「ですよね」
「たとえエリの方から接触しようとしても、です。エリも流石に弁えてるとは言ってくれましたが、エリが好きにするなら私も好きにする、というだけの話ですから」
それはとても力強い宣言だった。
「とは言え、お仕事で顔を合わせるのはまだ先ですしね。年内中には結城さんも歯の治療、終わるところですし」
「もう十二月ですからねえ」
俺はふと、医院の壁に貼ってあるカレンダーを見る。クリスマス前には大学も休みになる。
「結城さんは、年末年始はカノジョとお二人で?」
「いや、クリスマスっぽいことはなんかやりたいと思ってるけど、俺も美咲も実家には帰るから」
美咲とも何か時間を取れないか二人で話したが、美咲は冬休みが始まると同時に帰省して正月もこちらには来ない予定らしく、俺も例年通り塾のバイトを入れるつもりでいるので、クリスマス当日に何か二人ですることも出来なそうではあった。ただ、大学の講義が終わるイブの日には、どこかに出掛ける予定でいる。大晦日と正月には俺も両親に顔を見せるつもりだから、初詣なんかも一緒には行けなそうだ。完全に自由となり、気持ちも解放される夏休みと違い、大学生も意外と年末年始は多忙だ。そんな多忙な時だからこそ、一緒にいることが愛の証だと考える人もいるのだろうけれど、俺と美咲はそういう仲じゃない。そう、これは悪い意味ではなく──。
「寂しくはないんですか?」
「せっかくだから何か、って気持ちはまあありますけど、美咲も興味なければ無理に俺を誘わないですし、なら俺も無理は言わないって感じですかね」
「とは言え、思い出作り自体は、しっかりした方が良いですよ」
「そうですね」
「相手と時間を作ろうという気持ちは大事です。これは友達でも恋人でも家族でも、何も変わりません」
俺は泉さんの言葉に深く頷いた。それは夏のプールでも、秋の温泉旅行でも思ったことだ。思い出の形はいくらあっても困ることはない。そこから何か、大きく培うものもある。
「ええ。無理はしないってだけで、蔑ろにする気はないですよ。俺も美咲も」
「なら、構いません」
俺も泉さんも慣れた調子で話を切り上げる。確かに泉さんの言う通り、忙しさや相手の迷惑を理由に、二人での行動を制限するもんじゃない。俺は早速、美咲に電話をして冬の予定を話し合うことにした。
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