近所にて、あの日の巡り合い④
こうして一週間のうち半分は夜中バイトに勤しみ、午前中は眠りにつく生活が続いた。待機時間中に書いた脚本も何本か仕上げてみわさんに送り、満足の声をいただいた。みわさんも俺がリフレ送迎の仕事をしていることは片桐さん伝いに知っていたので「無理は禁物。倒れたら元も子もなし」と忠告の言葉ももらった。
『ぼくは仕事はできる限りのんびりやるタイプだけど、結城さんはやると決めたらズンズン行くから心配』
「それはあるかも。心配ありがとう」
『そんな心配してるとこにあれなんだけど』
もはや恒例となったビデオ通話での脚本チェックと進捗確認の際、みわさんはいつもと違う、少しだけウキウキした口調だった。元々がローテンションなので分かりづらいが、仕事に打ち込んでいたり気持ちが盛り上がる時は体をゆさゆさと揺らすのは見学店の待機室にいる時も同じで、ビデオ通話でもそれがよく分かる。
「何?」
『まだ詳しくは言えないんだけど、ちょっと大きめの案件をもらって』
「すごいじゃん」
『もしかしたら結城さんにも打ち合わせとか収録とか、同席してもらえたら嬉しいな、と思ってる』
「そうなんだ?」
実際に収録に同席してほしいというのは、初めてのお願いだ。
「こういうのは珍しい?」
『ぼくも長くやってるから、ちょいちょいはあるかなあ、くらい。以前は脚本仲間もいたから一緒に行ってたんだけど、今はもう一人だし。だとすると怖いし』
「それが本音っぽいね」
みわさんは他の人に誘われたならまだしも、基本的にはあまり外に出るタイプではない。それは夏休みの時、プールでの時の様子を見ても、よく分かった。
『ただ、ぼくにとっても嬉しい案件でさ。受けないって選択肢はなかったから』
「話聞いてからじゃないと完全に決定ってわけにもいかないけど、そういうことなら良いよ」
俺はみわさんにそう伝えた。みわさんは嬉しそうに頷く。俺はとりあえず、みわさんの言う年明け頃の時期のスケジュールを空けておくことにした。
因みに歯医者の方だが、奥歯の方で神経まで虫歯が達しており「次はもっと早く来てください」と叱られた後、「親不知にも転移が見られるので、せっかくだから抜いちゃいましょう」と歯科医から提案を受けたので、迷いつつ首肯した。バイトも増やしたし、どうせいつか治療するなら今のうちとことんまでやってもらおう。
「結城さん、最近の調子はどうなんですか?」
受付で支払いの対応をしている時に、俺は烏京さんからそんな風に聞かれた。
「どうとは……」
漠然とした質問だ。そもそも歯科勤務としてなのか、烏京さん個人としての質問なのか判別しかねる。
「エリが気になっていましたので」
「ああ」
烏京さんも、ミサキにはちゃんと俺のことを伝えられたのか。俺の方も、二人の近況は気になるところだけれど、そこは聞き返すのをぐっと我慢した。
「最近か。ここの治療費もあるし、バイト増やしたんですよね」
「そうだったんですか。精力的ですね」
「烏京さんって僕のこと、エリからどれくらい聞いてます?」
「……えっちなお店のスタッフとして働いておられるとか」
「伝え方に若干の悪意を感じる……」
何も間違ってないんだけど。ミサキとしては、俺とミサキで付き合っている頃、俺が片桐さんの店で働いていることに対して不愉快に思うところは、ずっと大きな不満点ではあっただろうから。
「まあ、そうです。そこで深夜の送迎スタッフの仕事も始めたんですよね」
「大変ですね」
烏京さんは、俺が思ったよりも普通に心配そうな声音で応えてくれた。
「好きでやっているので」
「そういうお店、お好きなんですか?」
──それはちょっと答えづら過ぎじゃない?
烏京さんもミサキからその辺りの俺に対する愚痴を聞かされたりしたのだろうか。俺はキョロキョロと待合室を見回す。他の患者は今は来ていない。
「いや、実は使ったことない」
厳密には見学店の客として通った経験が二回あるが、あれも仕事のうちみたいなもんだし……。烏京さんは意外そうに俺の目を見た。待って、意外そうにしないで……。
「それなのに?」
「色々あるんですが、今働いてるところのオーナーが知り合いのご親戚だったりの縁です」
片桐さんの店を知ったきっかけは古宮さんの紹介。その古宮さんの親戚が片桐さんで、それもあって茉莉綾さんのことを相談され、その店に美咲が勝手に入店し、その仕事の手伝いとして……と紆余曲折あっての今だが、一言で説明するとそうなる。
「なるほど。何というか、聞いてみると結城さんらしいですね」
「そうですか?」
「エリから聞いて知った気になっているだけですが、結城さん、頼まれたら断れないタイプの人間だと思ってましたし」
「……正直、否定はできないですね」
くっそ。ミサキが俺のことを烏京さんに何て言ってたのか、めちゃくちゃ気になるな。
「それ話してたのは、まだ俺がエリと、その」
「そうですね。エリが舞台裏でよく惚気ている姿を見て、微笑ましく思ったりムカついたりしたものです」
さっきから受け答えしづらいんだよな、この人の話。烏京さん目線で言えば、俺はミサキを捨てた男でもあるわけで、詰られるのを責めることもできないが。
「……今でもふとした時にあなたの話をしますよ。ユウくんがこれ好きだったなとか、昔のあなたを思い出すように」
「そう、ですか」
俺もミサキに未練が全くないと言う気はない。ただ、できれば俺のことは忘れてミサキはミサキのするべきことに打ち込んでほしいと俺は勝手にそんな我儘を想う。
「結城さんの心配するところではありません。以前にも増して、エリは仕事に打ち込むようになりましたから。アットシグマのファンもドンドン増えていて、私としても感謝の気持ちがあります」
俺の心を見透かしたようなことを言う烏京さんに、俺は苦笑した。
「ありますが、そうですね。私は慣れているので良いですが、エリが私とはっきり向き合ってくれないことを言うのは複雑な気持ちもありますね」
烏京さんも今のは喋り過ぎたと思ったのか、小さめに咳払いをして頭を下げた。
「すみません。少し言い過ぎました」
「いえ……何となくお気持ちわかります。俺も似たようなものなので」
いや、今のは俺も言い過ぎか。俺も美咲に対して抱く恋心と、美咲の俺に対する行為は交差しない。きっと、これからも交差することはなさそうだが、そうした中に全く寂しさがないと言い切る強さもない。
烏京さんは、俺の言葉に引っ掛かったようで、受付の向かいから少し身を乗り出した。
「と言うと?」
俺は少し考え込む。
「いや、俺の今のカノジョの話で」
「結城さんも同じと言うのはつまり──」
烏京さんが言葉を続けようとすると、医院の入り口の扉が開いて、次の患者が来た。烏京さんは体を引っ込めると、治療費の受け取り、診察券と保険証提示の確認を改めてして、次の患者を呼んだ。俺は少しその場で立ちすくしたが、これ以上仕事の邪魔をするのも良くないと思い、烏京さんに頭を下げて歯科医院を出た。歯医者が終わった後は特に予定もなかったが、俺は一直線に家に帰った。虫歯の原因も、ちょっとした不摂生が祟ったからだろうし、出費を抑える意味もあって、美咲との外食や飲酒は控えている。美咲も俺との用事がないならないで一人勝手にする性分なので、俺も気兼ねなく自分の用事に取り組んだり、普通に家でゴロゴロすることが最近は多い。俺もまた、自分だけの休息の時間も必要だということを、美咲との付き合いの仲で感じることは多かった。
その日の夕方頃、俺が家で夕飯の準備を終えた頃に烏京さんから連絡が来た。以前、連絡先は交換していたが、連絡が来たのは俺が家から送ったミサキの私物を受け取ったという報告を受けて以来だ。その為、一瞬何事かと驚いたけれど、メッセージの中身を見て納得した。
『突然の連絡失礼いたします。先ほどの件について、結城さんも私と同様であるとおっしゃっていたことが気になりました。もしよろしければ、詳しくお話を聞く時間をいただいてもよろしいでしょうか。ご迷惑でしたら、お手数ですが返信をいただかなくても結構です。以上、よろしくお願いいたします。』
相変わらず丁寧だな。俺は昼間の烏京さんのことを思い出す。引越し先を、俺が住んでいるところの近くにしたというミサキの話もそうだが、烏京さんがミサキとの生活に悩んでいる様子は何となく伺えた。烏京さんとしても、相談相手に困っている、といったところか。俺がミサキとの付き合いをしていた頃、別れた後、俺も相談相手には困った。けれど、結果として俺は色々な人に助けられたし、烏京さんにだって立会人を引き受けてもらったという借りがある。
『今、お時間大丈夫ですか?』
俺は烏京さんに電話を入れても良いか尋ねる旨のメッセージを入れて、烏京さんの返事を待った。もしかすると、烏京さんは今もミサキと一緒にいて、それだと電話は難しいかもしれない。そう思っていたが一時間後、烏京さんからはあっさり『大丈夫です』の連絡が来た。
「もしもし、烏京さん?」
『はい、結城さん。……変なメールをすみません』
電話の向こう口から、確かに烏京さんの声がした。
『本当にすみません、勢いで変なメッセージを送りました。後から消そうかとも思ったのですが』
「あー、こっちに送った履歴は残りますしね……。えっと、エリは?」
『今日は収録用のアパートで泊まりです。私も明日仕事な上、エリも今アットシグマの仕事についてマネージャーと協力して運営しているので、たまたまタイミングも良く……』
今なら俺と話す時間もあると考えて思わず、か。まあ、烏京さんが衝動的に行動するタイプなのも間違いないよな。そうじゃないと、恋人に一言文句を言う為にと、ミサキのアパートの前で待ち構えるようなことはしない。
「じゃあ、エリには言ってないんですね」
『あ、後で必要があれば言いますが、仕事でもなくプライベートで個人的に彼女のことをあなたに聞いたと言うのは流石に……』
──自分も同じ立場だったら、を想像した。うん、確かに言いにくい。言いにくいし、別に知り合いにパートナーのことで悩んでいることを相談するなんてことも、仕事先でその話をしたことも、本来は言う必要もない。ただ、俺がミサキの元カレで、以前俺と烏京さんで俺とミサキが別れる為の相談をしていたというのが尾を引いているだけであり……。後、烏京さんもアイドルだし。いや、だからこそ相談相手がいないのか……。
「いえ、お気持ち察します」
俺は色々を飲み込んで、それだけ烏京さんに伝えた。
「そう、ですね。俺の今の彼女の──美咲のこと、ですけど」
文芸サークルの皆に、美咲とのことを言う時は双方の知り合いでもある為に美咲の個人的なことを話すことは躊躇ったが、美咲と烏京さんの間には、美咲がアットシグマのファンであるという繋がり以外には、接点はない。であれば、あくまで俺の烏京さん──泉さんとの相談ごととして、彼女のことについて話すのはおかしなことでもない。
「えっと、呼び方泉さんで良いですか?」
『……結城さん、そういうところ気にしますよね』
「バレました?」
電話口の向こうから、溜息と失笑が聞こえた。
『いえ、構いません。私も今は泉
「了解しました。そうですね」
さて、どこから説明したものか悩む。
「泉さんってアセクシャルって分かりますか?」
俺は泉さんにそう尋ねた。
『他の人に性愛感情を抱かない性的指向、でしたね』
泉さんは俺の問いにすぐに答えた。
「そうです。流石ですね」
『……私も自分のことで人の目を気にして生きてきて長いので、言葉くらいは』
「ああ、なるほど」
美咲と付き合う中で、そのことについて考えることは少ない。美咲も改めて自分がそうであると自認するのを俺は聞いていない。ただ、他人に説明する切り口としてはこれが一番分かりやすいと思った。
「俺の今のカノジョも、俺に対して、俺だけじゃなく、他の人に対しても恋愛感情を抱かないそうなんですよね」
『……』
電話口で、泉さんが鼻息を鳴らす音が聞こえた。俺の言葉に対してどう返そうか悩んでいるように思える。俺も、はっきりと今の二人の状態を説明できるわけじゃない。けれど、こうして他人に言葉で話すのは、それを自分の中で曲がりなりにも整理する、いい機会だとも思った。
「泉さんも知っての通り、俺は彼女のことが好きで。だから、エリと別れた後に俺は彼女に告白しました。その時に、初めて知ったんです。彼女が、俺のことを好きじゃないってこと」
『……そんなことが』
「はい」
美咲に告白した時、それを断られたショックは今でも鮮明に思い出せる。自惚れと言われてしまえばそれまでだが、その時まで俺は、美咲が「先輩のことは好きじゃない」なんて理由で俺をフるなんてこと、考えちゃいなかった。
『それでも今は、お付き合いをされている?』
「お互いに妥協点を一応は見つけたってところ、でしょうか。それまで色々ありましたよ」
『なるほど……それは、分かります』
泉さんは、俺の言葉に対して強く応えた。
「最初のうち、美咲は──彼女は、俺に好意を返せないってことをすごい気にしてて。でも、そんなの俺にとってはどうでも良かったんですよ。俺は、別にあいつから何か返してもらいたくて好きになったんじゃないから」
『わかります!』
電話の向こうで、泉さんの声がより大きくなった。
「でも、とは言えですよ。泉さんの言ってたようなこともわかるな、と。別に好意を返して欲しいわけじゃないとしても、その寂しさ自体を否定するわけじゃないですから」
『なるほど……なるほど』
泉さんは、俺の話に何度も相槌を打って聞いていた。泉さんの求めることを言えたのかは定かではないが、俺もあまり他人に言うことはない自分の気持ちを少しでも言葉にできることは、気持ちが良かった。そして俺の言葉を聞いて、今度は烏京さんの方が話し始める。
『本当に、そうなんですよね。私はエリのこと大好きだし、エリも私のこと大好きな自信がありますが』
──ああ、うん。それもそれですごいな。
『でも、エリ自身はどこか、一歩引いた気持ちでいるみたいなんです。ずっと。……まだあなたのことを忘られない、というものありそうですが』
やめてくれとまでは言わないが、忘れた頃にそういう刺し方をしてくるのは心臓に悪い。
『ただ、そうですね。はい』
泉さんの口からはまた失笑が漏れていた。
『思っていた以上に、良い話を聞けました』
「なら、良かったです。俺も今の自分の気持ち、口にするのは悪い機会じゃなかったです」
『お互いに有意義な時間であった、ということですね』
泉さんはどこかホッとした口調でそう言った。
『このこと、エリに話しても?』
「あ、はい。構いません」
そのこと、ずっと引っ掛かってたんだろうな。ミサキがこの話を聞いてどんな反応をするのかがやはり気になってしまうが……。
『今日はありがとうございました、結城さん。それではまた医院で。バックれだけはなさらないように。そういう患者様、珍しくありませんからね』
「しませんて」
俺も泉さんの対応に苦笑して、その日の通話は終了となった。
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