近所にて、あの日の巡り合い①

 秋も終わりを迎える頃になり、文芸サークルは学園祭の準備に追われることとなった。正式に幹部も交代し、井上部長、鹿田副部長、長野副部長のもとの新体制。二年生に運営を頼み、俺や金元、宇内や新島などの三年生は大学生の本業としてゼミに、四年生は卒論に向けた動きをしながらの学祭準備となる。俺と美咲は相変わらず部室に通い詰めていたが、俺も講義やゼミの勉強で忙しかったり、学祭準備中は美咲の方が鹿田さんに呼ばれることなどもあり、二人一緒に部室にいることは格段に減った。その代わり、バイトの後や休日には気付けばどちらかが予定を立ててお互いの部屋で寝泊まりするような生活は続けていて、こう忙しくなる前に美咲とこういう関係を構築できたのは幸運だったと、改めて感じた。

 因みに部室での作業は自分の小説執筆の他、またみわさんから脚本の依頼を受けたのでその仕事をすることがメインだった。みわさんの音声作品の売れ行きは好調らしく、何本か並行しての作品を作る中で、俺もまた協力させてもらうことになったのだ。そんなある日、俺は急に歯の痛みに襲われた。歯磨きは毎日欠かさずにしていたつもりではあったのだが、虫歯になってしまったらしい。美咲と外で食事をしている時も頻繁にその痛みに苛まれて頬を摩る俺を見て「早く治してくださいよ」と美咲に呆れられた俺はその場で、家の近くの歯医者を探して予約して、すぐ治療に向かうことにした。

 予約した歯医者は自宅のアパート最寄りの駅から徒歩十五分程の距離にあった小さな医院で、歯医者に行くなど子供の時以来だと思いながら、中に入った。待っている人も二人くらいしかおらず、待合室に腰掛ける。


「次の方ー」


 座ってから五分とかからずにすぐに呼ばれたので受付に顔を出した俺は、一瞬そこで固まった。


「あ」

「あ」


 受付窓口の向こう側、医院の名前が印刷されたシャツを着て、青いマスクをつけている女性に俺は見覚えがあった。


「烏京さん?」

「……結城さん?」


 歯科医院の受付をしていたのは、アットシグマの烏京さんだった。烏京さんが昼職で何をしているのか、俺は知らなかったけれど歯医者で働いていたのか。それも俺の住んでいるアパートの近くで?


「どうして……いえ、当然歯の治療ですよね」


 ポカンと固まる俺の目の前で、烏京さんは淡々と受診の手続きを進める。


「初めて、ですよね」

「あ、はい。そうです」

「診察券を発行しますね。問診票を書いてお待ちください」

「えっと、わかりました」


 俺は烏京さんに促されるままに問診票を受け取ってその場で記入を始める。


「歯医者勤務だったんですね、烏京さん」


 問診票を書きながら、俺は恐る恐る烏京さんに話しかけた。


「はい。まさか職場に結城さんが来るとは思わず、驚きましたが」

「その割には平然としているような」

「仕事中ですから。逆の立場だったらもっと狼狽えていたかもしれません」


 あー、その感覚はすごいよくわかる。俺も仕事中はスイッチが入っている為、何かプライベートに関係するトラブルがあったとしてもその場では軽く流せるように脳みそが処理をする。


「それと烏京さんはやめてください」

「あ、そうですよね。気をつけます」


 俺はチラリと烏京さんの首から下げられている名札を見る。名札には「泉」と書かれていた。


「泉さん、で良いですか?」

「名前を呼ぶ必要もないと思いますが」


 それもそうか……。俺は烏京さん──泉さんに「すみません」と頭を下げた。


「結城さんは、このご近所にお住まいで?」

「はい。歩いて一時間かからないくらいのところですね。えっと、泉さんはいつからここで?」

「つい最近からです。今、私とエリで一緒に住んでいまして」

「あ、そうなんだ……」


 思わず敬語が外れてしまった。俺がこの人にミサキとの別れ話の立会人を頼んでから、あちらはあちらで色々とあったのだろう。


「あれからどのくらいでしたかね?」

「多分、俺が最後に会ってから四か月くらい」

「思ったよりも経ってないですね……私なんかはもっと長いことあったように感じていましたが」

「正直、それは俺もです」


 こちらもあれから本当に色々とあった。アットシグマの活動は、ネット上でも盛り上がるようになってきており、ネットでの顔出しはしない方針こそ変わらないものの、ミサキと烏京さんの都合が合うことも増えたからだろう。元々は個々での活動の多かったメンバー三人が、しっかりと連携をしてコラボ配信をしたり、ファンの要望に応えるような企画を組んだりと精力的に活動している。俺もその様子を一ファンとして手に汗を握りながら応援していた。


「聞きましたよ。先日、ライブお越しいただいていたんですね。ありがとうございます」

「え」


 ──何となくそうじゃないかとは思っていたけれど、やはり俺のことに気付いてたのか。


「私は気付かなかったのですが、エリが。新しいカノジョさんともご一緒だったようで」

「あー、はい」


 あの時はまだ便宜上ですらカノジョではなかったが、今のところは外向けにはカレシカノジョの関係として落ち着いているので否定するところでもない。というか、その言い方だと美咲のこともわかってたらしい。


「書けました」

「承ります」


 俺は問診票の記入を終えると、烏京さんに渡す。それから名前を呼ばれるまで待合室で時間を潰し、診察に向かった。

 やはり奥歯の方に虫歯ができていたらしい。治療の為に何度か来院することを求められたが、虫歯もそうだが出費が痛い……。親に泣きつくことも考えたが、免許取得の際の教習所への代金もだいぶ負担させてしまったし、少しバイトを増やすか、などと考えた上で次回の来院に同意した。


「では次の予約は来週で問題ありませんね?」

「はい、大丈夫です」


 診察を終え、帰りの受付で烏京さんに次回の来院予定を伝えた。烏京さんから新しく発行された診察券を受け取り、財布にしまう。


「今日のこと、エリにはどう言いましょうね」

「俺は一応、その、カノジョには伝えておこうとは思っていますが」

「私も伝えることは伝えます。……以前に結城さんとの密会を伝えなかった前科もありますからね」


 前科と言われると言葉としては強いが、まあそうだな……。


「エリはカノジョさんのこと、可愛らしいって言ってましたよ」

「そう、ですか」

「どうもファンとしてかなり興奮していた様子で、エリも戸惑ったそうですが」


 ……ああ。そう言われると、応援するアイドルを初めて目にする美咲とその対応にまごたごするミサキが並んでいる様子が目に浮かぶようだった。


「というか、結城さんはチェキにいらっしゃらなかったのですね」

「え、でもそれは」

「エリと顔を合わせることを避けたのでしょうが、でしたら私でもかえでちゃんでも良いですから来てください。ファンとして応援するというのであれば、お金は落としていただかないと」

「仰る通りです……。わかります。泉さんがそう言うのであれば」


 俺は診察料を烏京さんに渡した。三千円の出費。時間も同程度の料金と考えても、やはり厳しい。どこかで出費分の補填をしないとな、と俺は頭を悩ませた。


「しかし、私からもエリにはちゃんと話をする必要がありますね」


 俺から診察料を受け取った烏京さんはそんなことを口にした。


「何をです?」


 俺が尋ねると、烏京さんは大きく溜息をついた。


「先程、私とエリは一緒に住んでいると言いましたが、今の住まいを強く推したのはエリなので」


 ……ああ。何となく、理解した。


「確かに人に見られる危険性も少ないし、交通の便も悪くなかったので私もどうしてここにしたのか気になりはしたものの深く考えずに了承しましたからね」

「そうでしたか」

「いえ、こちらの話です。結城さんはお気になさらず。それではまた」

「はい、また」


 俺は財布を鞄にしまい、荷物をまとめて歯科医院を後にした。まさかこんなところで烏京さんの顔を見ることになるとは思わなかった。その驚きも収まってくると、俺は烏京さんが言っていたエリの言葉を頭の中で反芻していた。

 ──エリとしても、俺とまた会いたい未練なあるわけでもないのだろう。もしかしたら顔を合わせるかもしれない、そのくらいの距離感で生活をする、ささやかな我儘を烏京さんに口にしただけなのだと思う。俺もたまに外出中、ふと見かけた人がミサキの後ろ姿に似ていたりすると、ドキリとすることがある。そのくらいの気持ちは、お互いに持っていても誰も文句を言う筋合いはない筈だ。そう思いながら、俺は美咲に歯医者の初診が終わったことをメッセージで伝えた。美咲も今暇しているそうなので、俺は自分の足で美咲の家に向かうことにした。

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