二人の距離、これからの関係③

 用を足してトイレから出ると、美咲が床に寝転がっていた。普通に5分ちょっとくらいしかトイレにいなかった筈だが、その短い間にまた眠気が来てしまったのか。


「おい、美咲? 大丈夫か?」


 俺が呼びかけても小さく唸るばかりで返事がない。やはり少し飲み過ぎたんだろう。明日も休みだし、こいつさえ良ければ別にこのまま寝させても構わないのだが。俺は時計を見る。後30分もすれば最寄りの駅は終電の時間だ。


「美咲、起きれるか?」


 俺は美咲の肩を何度か叩いたが、起きる気配はない。肩を揺すったりもう少し強めに起こしてもいいのだが。まあ、もし電車が間に合わなくても、タクシーを呼べば良いか。

 俺は溜息をつき、枕だけ持ってきて美咲の頭を抱えて枕の上に乗せた。これでも起きないとは、かなりの爆睡だ。

 美咲がいつ起きても良いよう、俺は眠る美咲の側に座って、積んでいた小説を読んで過ごすことにした。


「あ、先輩」

「起きた?」


 本を一冊読み終わる頃に美咲が目を擦って起き上がった。


「すみません。寝ました」

「いいよ、どうする? タクシー呼ぶか」


 美咲が眠りについてから、三時間ほどが経過しており、当然もう電車はない。


「あの、もし良ければこのままここで寝ても?」


 俺がスマホで、呼べるタクシーを探そうとしていると、美咲がそう言った。


「良いよ。明日休みだし」

「いえ、明日朝は用事があるので、このまま寝て起きたら帰ろうかと」

「ああ、なるほど」


 今から帰ると睡眠時間を確保できないからってことか。


「わかった。毛布持ってくるから使って。敷布団は俺がいつも使ってるのしかないんだけど使う?」

「そしたら先輩が寝る場所がないのでは?」


 俺は美咲がお尻で踏んでいる座布団を指差した。


「座布団並べて代わりにしても良いし、床でそのまま寝ても良いし」

「そんな、悪いです」

「別にいいよ」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」


 美咲は眠そうな目をしばたたかせながら、立ち上がる。そこでまたふらついたので、肩を支えて敷布団まで誘導した。敷布団の上に倒れるように横になった美咲の上に毛布をかけ、さっきまで使わせていた枕も持ってきて、美咲に渡した。


「イカ臭くない」


 毛布をかけられ、布団に頭を乗せた美咲がそんなことを言う。布団に入って開口一番でそれはふざけんな。


「当たり前だろ」


 一応ちゃんと週に何回か洗濯して干してるんだわ。いや、そもそもイカ臭くはならねえよ。


「差し支えなければで良いのですが、お聞きしても?」

「何?」

「エリカさんとは、この布団で一緒に寝たりしたんですか?」


 また答えにくい質問をするなこいつは。


「した。そういうの、気になるか?」


 他の人が寝ていた布団は嫌とかそういうのがあるなら仕方ないのだが。


「特には。単純に興味で」

「だとするならもうちょっと俺に配慮しろよ。別れたてなんだからな、俺」


 皆のおかげで吹っ切れた気持ちにはなったし、美咲との関係を整理することに集中してはいるが、それでもミサキのことを思い出して、心に棘が刺さったような感覚がある。その度に、自分勝手だとは思いながらも、考えても仕方ないことだと言い聞かせるのだ。


「先輩」

「今度は何?」

「一緒に寝ます?」

「は?」


 美咲にそんなことを言われ、ドキリと心臓が跳ね上がる思いだった。誰かと一緒に布団に入ることなんて、ミサキとしょっちゅうして慣れたと思っていたけれど相手が違えばまたリセットされるか? 古宮さんが、未だに付き合いたてのドキドキはなくならないなどと言っていたことを思い出した。

 俺は美咲の顔を見る。美咲にはこうした鼓動の高鳴りは感じないのか。


「私だけ布団なの申し訳ないですし」

「だからそういうの良いって」

「嫌ですか?」

「俺は良くても美咲が嫌だろ」

「私が先輩と一緒に寝たいです」


 ズルい言い方を覚えたな、こいつ。そう言うならそうしてやるよ。

 俺は毛布を持ち上げて、美咲の隣に潜り込む。美咲は少しだけ布団の端に避けはしたが、俺の布団は二人寝るには充分な広さではない。ミサキはそれが良いのだと笑っていたのを思い出した。美咲は仰向けに寝て目を瞑っている。俺は美咲に背をそむける形で横になった。美咲は、何を考えているのか。


「先輩」

「何だよ」

「ドキドキします?」

「するに決まってんだろ」

「そうですか。私は、しません」


 やっぱり、それはそうなのか。


「そのドキドキって私だからですか?」

「どういうこと?」

「たとえば茉莉綾さんが相手だとならないんでしょうか。古宮さんとラブホに行った時はどうだったんでしょうか」


 俺は少し考える。いつだったか、茉莉綾さんに性的な魅力を感じてしまうなら、それはセックスとどう違うのか、というのを美咲に聞かれたことを思い出す。けれど、俺の中でそれは明確に恋とは違う。それを恋ということにしてしまえば、俺は見学店のキャストには全員恋をしていることになってしまう。古宮さんとラブホに行った時も、心臓の鼓動は高鳴ったし、当然のように古宮さんにも魅力を感じた。ただあの時は、どこからが性的な興奮でどこからが緊張で、どこからがその場ですることへの高揚感だったのか、俺もよくわからない。これは完全に区別をつけるのは、難しいことのように思う。


「ドキドキはする。した。でも、それは好きな相手に対するものとは違うと思う」

「なるほど」


 美咲に背を向けているから、今こいつがどんな表情でいるのか、俺には見えない。 


「でも私、先輩といると安心はします」

「それは美咲にとって、好きとは違う?」

「よくわかりません。先輩のことはよく知ってるというだけな気がします」

「そう思えるのは俺だけ?」


 美咲は「うーん」と口に出して少し考えていた。


「多分、違います。茉莉綾さんと仲良くなって、同じように安心しましたし、みわさんが私と似たような感覚を持っていると感じた時の安心とも、そう差はないと思います」

「他と区別をつけるような特別な感情じゃない?」

「はい」


 俺は美咲への気持ちに特別なものを感じている。他に似たようなものがあったとしても、それと恋の感覚は違うものだと。それは俺にしかわからないことだけれど、俺にとっては大切なものだ。対して美咲は、そうした違いにあまり意味を見出していない。


「先輩は私が他の人とセックスしたら嫌ですよね」

「嫌」


 そのことを考えると、頭の中が掻き乱されて、気持ちが悪くなるくらいには。


「私は先輩が他の人とセックスしようが、どうでも良いです。むしろ感想とか聞かせてほしいです」

「実際、聞こうとしてたしな……」


 俺が誰かとそういう関係になりそうなら、美咲は興味を持って尋ねたし、ミサキとの関係だって俺があまり口にしたくないから聞いてこないだけで本当はもっと突っ込んで聞きたいのだろう。


「私は別に誰かとセックスしたいとは思わないです」

「それはもう聞いた」

「でも、セックスに全く興味がないわけではないです。サウナに行ってみたいとか、好きな作家のサイン会に行きたいとか、ハプニングバーに行きたいとか、そういうのと同じくらいには興味があります」

「ハプニングバーはやめとけ」


 それ前も言ってたろ。どんだけ興味があるんだよ。美咲の場合、純然たる好奇心で性的興味ではないのだろうけれど。


「そういうの一人で行っても良いです。なんなら、一人の方が楽で良いです」

「あー、でもどうだろう。俺もよく休みの日に遠出はするけど、一人の方が気楽だと思うことはあるよ」

「そうなんですか? 確かに、私も先輩にあんまりお誘い受けたことないですしね」


 美咲はまた少し口をつぐんだ。俺もその間、自分の気持ちについて考えた。好きな人とは何でも一緒にやりたいという人もいる。好きな人とはできるだけ一緒にいたいと他の何よりも優先する人もいる。ミサキがそうだった。けれど、俺はそれよりも優先するものがあると思った。それは話に聞く、世の恋人が価値観の違いで別れる、という話とそう大差ないことのように思えた。


「私は、先輩と色々なことがしたいです」

「そう、なのか?」

「迷惑でしょうか?」


 俺は一息ついて、美咲の方に体を向ける。いつの間にか、美咲も仰向けではなく、こちら側を向いていた。美咲の体勢が変わったことに気付いていなかったのもあり、俺はどきりと更なる心臓の高鳴りを感じる。美咲は目を開けて、興味深そうに俺の瞳を見つめている。俺と美咲は、一つの毛布にくるまって触れ合わないくらいの距離でお互いを見つめ合っている。美咲の吐息が俺の顔にかかる。俺の荒くなった鼻息も美咲にかかっていると思うと、嫌じゃないだろうかと心配になった。


「迷惑じゃないよ。嬉しい」

「良かったです」


 美咲は俺の言葉に、ホッと一息ついた。そんな美咲の言動ひとつひとつにも、俺の気持ちは翻弄されてしまう。


「先輩さえ良ければ、私は先輩と色々なことがしたいです。あ、先輩が嫌なことは出来るだけやめておきます」

「出来るだけなのかよ」


 俺は思わず吹き出した。美咲もそんな俺を見て笑った。


「明日も早いんだろ?」

「はい。もう寝ないといけませんね。先輩と話してると楽しくて時間を忘れます」

「お前そういうの、あんまり言わない方が良いぞ」

「何でです?」

「気があるのかと、言われたら俺のことを好きなのかと勘違いする」


 美咲は口元を歪ませて、困ったような表情で頷いた。


「そっか。そうですね」

「いやまあ、俺は言ってほしいけど」


 美咲はめんどくさそうに溜息をついた。それから俺を睨みつけて呆れたように目を閉じる。


「何言ってるんですか。そんなんだからど……ヘンタイモンスターなんです」

「何がそんなんだからだ」


 後お前今、俺のことを童貞弄りできないと気付いて罵倒変えたろ。


「明日何の用事なの? バイト?」

「秘密です。と言いたいところですが、そうですね──」


 美咲は姿勢を直してまた仰向けになった。


「バイトで資金が溜まったので、今は教習所に通っています」

「教習所って、自動車?」


 美咲は天井を見つめたまま、楽しそうに頷いた。


「はい。もう実技練習まで来ました。やっぱり、遊ぶにも足はあった方が良いじゃないですか」

「マジか。先越された……」


 俺も早く免許取った方が良いとは思いながらも、ここまでダラダラと来てしまっている。俺の方こそ、就活が始まる前までにさっさと教習所に通った方が良いのに。

 美咲はニヤニヤと意地悪そうな横顔を見せる。


「私が運転できれば、先輩とももっと色々なとこ行けますね」


 だからそういうことあんまり言うな。嬉しいけど。


「そっか。じゃあ尚更ちゃんと寝ないとな」


 寝不足で運転に支障が出ても困る。


「そうですね。すっかり目が冴えてしまいましたが」

「寝ろ寝ろ。俺も寝るから」

「ありがとうございます。それでは先輩、おやすみなさい」


 美咲はそう言って、再び目を瞑る。


「ああ、おやすみ」


 俺は美咲にそう返して、また美咲に背を向ける形に姿勢を戻した。

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