アパート他家、あの日の訣別⑤

 俺は烏京さんの腕の中で笑うミサキを見て一息ついた後、リビングに向かった。


「ちょっと失礼します」


 部屋に入り、俺はさっきミサキがパソコンラックの上に置いたガーベラの花束の前に来る。

 花束を買う前に、赤いガーベラの花言葉を調べた。赤のガーベラの花言葉は「神秘の愛」、そしてその中に混ざったピンクのガーベラの花言葉は「前進」だそうだ。進んでいるかのようで、お互いに枷を嵌めあって、あの頃から一歩も前に進めなかったミサキへの餞にも相応しいと思って束ねてもらったその花束の中に忍ばせた手紙を、俺は抜き取る。

 俺は抜き取った手紙を破く。俺の最後の悪足掻きだったけれど、これはもう要らない。俺は破いた手紙をズボンのポケットの中に入れると、まだ玄関にいる二人の元に戻った。


「結城さん、大丈夫ですか?」


 何も説明せずにリビングに向かった俺に、烏京さんが心配そうに聞いた。


「大丈夫です。もう用事は済みました」

「そうですか。なら、良かったです」


 烏京さんは背後にいるミサキの手を握っていた。ミサキは俺に目線を合わせずに後ろを向いていたが、俺が二人に近づくとくるりとこちらを向く。涙が流れたばかりの目と頬はまだ赤く腫れている。俺はそんなミサキの頭に手を乗せようとして、今その役目は俺ではないと、手を下ろした。


「エリ、ごめん」

「謝らないで」


 先ほどまでの気持ちの昂りは落ち着いた様子で、それでも鼻を啜りながらミサキは俺を見る。


「たまにはライブ、来てよ、ユウくん」


 ミサキの言葉に、俺は頷いた。


「行くよ。言ったろ? あの時とは違う。何があっても、俺はエリを応援する。その場所が、これからはエリの隣じゃなくなるだけ」

「そうだよね。わかった」

「これからは、一ファンとして桔梗エリカを見てるから」


 ミサキは小さく頷く。これまでのようにハグできないのがもどかしい。


「烏京さん、ありがとうございます」


 俺は改めて烏京さんに頭を下げた。


「礼には及びません。立会人になってほしいという結城さんの申出を無視して、私は結城さんからエリちゃんを略奪した立場ですから」

「えっとね、すずちゃん? それはあたし、まだ了承してないんだ?」

「そうなの?」

「うぐ……」


 烏京さんに見つめられ、ミサキは黙りこくった。俺はそんな二人を見て思わず笑いを堪える。


「改めてエリをよろしくお願いします」

「もちろん、当然です」


 俺は玄関にある自分の靴を履き、荷物を手に取る。そういえばミサキの部屋には俺の私物がまだいくつかある。それは俺の部屋も同じで、ミサキの私物が残ったままだ。


「エリ」

「何?」

「部屋にある俺の私物、捨てちゃって構わないから」


 俺の言葉に、ミサキは少し考え込んだ後、烏京さんを一瞥してから頷いた。


「わかった。でも大事そうなのあったら郵送するから」

「うん。こっちも送るよ」


 そうだな。別れるからそこでキッパリ終わり、というのは本当に難しいのだと、こんなことでも改めて感じる。


 後はもう、部屋を出るだけ。


「……それと」

「クドいですよ」


 何も考えていないくせに何か喋ろうとする俺の言葉を烏京さんがスパッと止めた。


「そうですね」


 何してんだ俺は。かっこわる。別れ話を切り出したのはこっちで、その為に色々と本音をぶち撒けたはずなのに、いつまでもウジウジとみっともない。


「結城さん」


 口を噤んだ俺に、烏京さんが声をかけた。


「何かあれば、私に連絡をお願いします。好き勝手やらせてもらった身ではありますが、頼まれた手前、そのくらいの面倒は見ますので」

「ありがとうございます。でも多分、大丈夫です」


 俺はアパートの玄関の扉に手をかけて、ミサキと烏京さんの方を振り向く


「さよなら、エリ」

「じゃあね、ユウくん」


 行ってきますとおかえりの言葉ではない、別れの挨拶を告げて、俺はミサキの家を出る。

 パタンという小さな音と共に、扉が閉まる。

 あまりにも呆気ないな、と俺は自身の空虚な心を押さえ付けるかのように、自分の胸を掴む。


「はあ」


 俺は早足でアパートの階段を降り、そのまま駅まで向かった。途中、花屋で買った花を今日のうちに受け取った方が良いと気付き、もう一度花屋に寄ってバラの花束を受け取った。

 帰りの電車の中、本当にこの期に及んで、まだミサキのアパートに戻ろうとする気持ちが、自分の中にあることに気付いて嫌になった。友達として行くなら良いんじゃないかとか、郵送するっていったけどミサキの私物を返しにやっぱり直接行こうかとか、そんな小狡いことばかりを考えている。本当に、本当に俺は情け無い。


 その日、家に帰ってすぐ、俺は枕に顔を埋めながら泣いた。寂しさか悔しさか不甲斐なさか、自分でも何の涙かわからないくせして、涙が止まらなかった。こんなに泣いたのはいつぶりだろうと思うくらいに涙を流した後、俺は見学店の店長に電話をした。昨日言った通り、かなこさんへの餞別をしに行く旨を話して、また布団に横になる前に、部屋にあるミサキの私物を集めた。歯ブラシや化粧落としなんかは捨てて、置きっぱなしにしていた鞄やらゲーム機やらをダンボールに詰めていく。寝巻きの着替えや下着なども畳んで袋に入れて詰めた。そういや、この家で異性の下着を処理するのは三度目なんだな、ということに気付いて、何故だか笑いが込み上げて来た。なんでだよ。そんな経験、そう何度もしてたまるかよ。本当なのだから仕方がない。


 それでふと、茉莉綾さんや古宮さんにはミサキと別れたことをいつ伝えようかと思ったが、それもミサキとの仲が始まった時と一緒で、聞かれれば答えれば良いかと結論づける。少しだけ、今連絡して伝えることも考えたが、意味がわからないし、慰めてもらおうとしているみたいで気持ち悪い。みたいじゃない。そのものだ。

 美咲に対してもどうするかを悩んだ。ミサキと烏京さんの前で、俺は別れ話を切り出した理由は、ミサキのアイドル活動の邪魔をしたくないからだと最初は言っていた。しかし、烏京さんのおかげで、その化けの皮を剥がされ、俺は美咲のことがまだ好きなんだと言う話までした。

 美咲は以前、俺との仲を「両片思い」などと言っていたが、こうなればいい加減美咲に俺の口から、俺の言葉で自分の気持ちを言う頃合いだろう。

 ──なんか、恋人と別れたからキープしてた相手にすぐ行くみたいなムーヴでダサいな。

 いや、みたいとかじゃなくて、やっぱりそのものじゃねえか。ダメだ。そもそも、今の俺は何をしてもダサい。


「うーっわ。きっつ」


 古宮さんとか金元とか、ああいう人たちはこういう時どうしてんだ。今の彼らなら、たとえ恋人やらセフレやらとの仲が消えたとしても、ケロッとして次に行くんだろうが、彼らにもこうして自分の気持ち悪さ、ダサさに向き合った経験があるのだろうか。もしかしたら俺が今教えを乞うべきはあの人たちか? と考えてスマホで連絡先を開いた後、古宮さんとはどうせ塾で顔を合わせるんだし、このタイミングで金元に恋人と別れた話をするなんか真っ平ごめんだということに気づいて、俺はスマホを投げ捨てた。投げ捨てる必要なかったな。


 こんなはずじゃなかった。俺はミサキのアイドル活動を応援して、彼女のこれからを烏京さんに頼んで、綺麗な別れ方をしたかったんだ。それがどうだ、この滑稽さは。

 ミサキのことを応援するどころか、自分のことだけで頭がいっぱいだ。一応、桔梗エリカの今日の配信はどうなったのかと確認すると、休むことなく配信開始時間にはしっかりと配信を初めていたようだった。それも突発的に烏京すずめとのコラボということにしたらしく、アットシグマの二人の胆力に脱帽したりもした。

 涙を流し切ったら流し切ったで、俺は今の自分自身を包む、みっともないのオンパレードに、身を悶えさせた。


 そんな風に、ひとしきり自分のする選択肢を考えては却下して結局のところ俺がやるのは、小説を書くことだった。


 とにかく今頭の中にある言葉をキーボードに叩き打って、打って、打って、打ちまくった。

 恋人と別れた傷心の女性が、街でナンパされて普段ならついていかないのについていってしまい酷い目を見る話。好きな人に告白したけれどフラれてしまい、自殺をしようとしていた主人公の前に女の子が現れ、死ぬくらいなら自分の為に人生を寄越せと迫る話。バンドを解散して夢敗れたロックシンガーが、街角で歌っていたところで少女と出会い、交流を始める話。会社での失敗で全てを失い絶望して身を投げて、異世界に転生した主人公が、異世界で再スタートを切ろうと思ったけれど、結局は前の人生と同じ失敗をして処刑される話。

 思いつくものはプロットとして、実際に短編として、話にもならない適当な文字列として、色々な形ではあるけれど、書き綴った。

 そして気付けば午前四時を過ぎていた頃には何万字もタイピングしていたが、今読み返してみてもどれも読めたもんじゃなく、全部をゴミ箱に捨てた後に、布団の中に入った。大学の講義には間に合うようにアラームをかけて、無理矢理に布団を被り目を閉じる。

 すぐに眠ることはできなかったが、流石に疲れは溜まっていたようで、少しの間だけほとんど気絶みたいに意識を失って、アラームで目を覚ました。


 少しの間とは言え、眠った後の気持ちはほんとちょっとだけ清々しさを取り戻していた。

 帰ってきたらミサキの私物を郵送しようと、俺はネットで配送を頼む。それからバラの花束を紙袋に入れて、いつものように大学に向かう為の準備を整えて、俺は家を出た。


 その日の講義も終わり、俺はサークル棟に足を運んだ。

 部室にはその日、美咲はいなかった。

 俺は独り、久々に部室で小説の執筆とサークルの作業をしたが、その間も美咲は来なかった。今日たまたま来ていないのか、それともやはり美咲はもう部室通いは辞めたのかは定かではない。

 待っている間に、昨日見学店の店長に約束した時間が近づく。俺は少しだけ悩んだ後、美咲の連絡先を開く。


『明日、部室寄るけど美咲は?』


 続けて『話したい』とも打ったが、そちらは送信前に削除した。連絡そのものを先送りすることも考えたが、ただでさえ格好悪いのにまたヘタレているのも癪だった。

 美咲からの返事はすぐには来なかった。見学店に向かう途中、俺はモヤモヤと色々なことを考えた。一番最悪な妄想は、美咲がまた金元の家に行きセックスをしている姿だった。

 俺といることもなくなり、部室に行くこともなく自由になったミサキが金元と体を重ね合わせている姿。そんなこと、妄想する時点で最悪だが、そんな光景をふと頭に思い浮かべて吐き気を催した。あの日、部室で美咲が再生して一瞬だけ聞いたあいつの喘ぎ声が、何倍にもなって脳内に響く。

 そうだ。俺がミサキと付き合っている間に、金元とは限らずとも美咲の方も誰か相手を見つけてる可能性は全然ある。あいつのことだから、何をするか俺の予想を超えてきてもおかしくはない。今の今まで馬鹿なことに、そのことを全く考えていなかった。そうなった場合、俺はどれだけの阿呆なのか。そして俺はそれを責められない。付き合っていないから、とかじゃない。俺だってこの数ヶ月間、毎週のようにミサキと体を重ねていた。美咲の方も誰かと付き合っていたとして、それは全然、当たり前の流れだ。今の俺には、そんなことで絶望する権利もない。

 そんな妄想もして、自身の体から血の気がなくなっていくのを感じつつ、自分の愚かさを改めて身に感じて、俺は手で顔を覆いながら電車に揺られ続けた。

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