アパート他家、あの日の訣別④

「エリちゃん」

「すずちゃん」


 烏京さんはミサキの泣き顔を見ると、勢い良くミサキの顔を自身の胸に寄せた。ミサキはされるがまま、ただその場に突っ立っている、


「結城さんの言う通りなの」


 烏京さんは俺の方を見る。烏京さんが部屋に入って来るのは、俺が連絡してからと打ち合わせていたので、正直もうちょっと待ってほしかった。メールに気付かなかった俺が悪いと言われれば返す言葉もないが。


「彼にどうしても、って頼まれた。同じグループの私だったらきっと、エリちゃんを説得できるからって」

「……説得って何?」


 ミサキは烏京さんの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声を出す。それから両手で烏京さんを押し除けた。


「言ったよね? ユウくんは、あたしの運命の人だって」


 ミサキは改めて俺を見た。ミサキは俺に手を伸ばそうとして、考え直したのかすぐにその手を下ろす。


「あたしが辛い時にそばにいてくれた。あたしにはユウくんしかいなかった。もう会えないと思ってたのに、偶然にあたしのライブに来てくれた。こんなの、運命じゃなくて何?」


 俺も烏京さんも、そんなミサキを黙って見ていた。

 ミサキは俺と烏京さんを交互に睨みつけると「もう!」と声を張り上げる。


「結局すずちゃんはどうしてユウくんと連絡なんかしてるの?」

「私もエリちゃんと、まだアイドルやりたいから」


 烏京さんの答えに、ミサキは鼻で笑った。


「そっか! あー、そっか! なるほどね!? やっぱり、急にユウくんがアイドル続けてほしいなんて言うの、おかしいもんね!?」

「エリちゃん……」


 ミサキの眼から、また涙が溢れる。息も荒く、自分の気持ちを抑えきれないようだった。


「そっか。そんなにあたし、仕事続けなくちゃダメなんだ? あたしの気持ちはガン無視!? いいよ、もう。じゃああたしはもう今から、桔梗エリカをやめる」

「エリ!?」


 今度は俺がミサキに手を伸ばした。それじゃ意味がない。俺はミサキに、桔梗エリカもアットシグマも続けて欲しくて、身を引こうというのに。


「みんなに迷惑がかかるとか、知らない。あたしが自分の思う幸せに手を伸ばしちゃいけないって言うなら、そんなの、知ったことじゃない。桔梗エリカのアカウントも消すし、事務所にだって連絡する。あたしもう、アイドルなんか辞めますって!」


 ミサキはそう言って、スマホを取り出した。俺は慌てて美咲に近づく。


 ミサキは、烏京さんの背後から伸ばした俺の手を叩き落とした。こうなることだって考えても良かったのに、俺は何をバカなことをしたのかと今になって後悔する。俺がやろうとしてたことは、何もかも無意味になるのか。


「そう」


 烏京さんはミサキの言葉を聞いて寂しそうに顔を伏せた後、思い切り自分の両頬を叩いた。とても乾いた、澄んだ音だと感じる。朝に彼女に電話した時の音はこれだったのか、と俺は得心する。


「そうだね。エリちゃんが昔大変だったって話は、私もエリちゃんから聞いたことあったもんね」

「そうだよ!? あたし、すずちゃんのこと信じてたんだから」

「でも、ホントに?」

「え?」


 烏京さんはミサキにもう一歩、近付いた。


「ホントにエリちゃんの側には結城さんしかいなかった? ねえ、高校卒業前に結城さんと別れてからもずっとエリちゃんは独りだったの? エリちゃんが配信を始めてからのことは? アイドルを始めてからは? 私たちとグループを組んでからは?」


 烏京さんは一息でそこまで言った後、今度は俺の方を向く。


「君も。エリちゃんのこと、私たちのこと考えてくれたのは嬉しい。でも、それだけ?」

「えっ」


 烏京さんの責めるような口調に、俺は圧倒される。さっきまでミサキに向けていた、熱く込み上がるような気持ちが、少し鎮火するのを感じた。


「それならそれでいいの。でも、君から連絡もらった後、私も考えた。君が言ってたことは、結局自分をよく見せたいだけなんじゃない?」

「そんなこと──」


 いや、ここに来るまでにもずっと思ってた。俺はこの期に及んで格好つけようとしていたのは確かだ。


「まあ、私も他人のこと言えた義理じゃないけど」


 烏京さんは、静かに溜息をつく。


「結城さん? 私、言ったよね。私も腹、括ったの。それに、この中だと私が一番年長だし? 私まで君らに合わせてウジウジしてもしょうがないから」

「……すずちゃん?」


 息を荒げていたミサキの呼吸が少しだけ静かに整えられる。ミサキは烏京さんを顔を見つめる。烏京さんも、そんなミサキから目を逸らさずに真っ直ぐに見据えていた。


「エリちゃんを困らせるとか、そういうことずっと考えてた。けど、今の君らを見て思った。多分、私もそれじゃいけないんだ」

「すずちゃん、何言ってるの?」


 烏京さんは改めてミサキの方を向き直る。そしてミサキの両肩に手を置いた。

 ミサキはビクッと体を跳ねさせたが、間近で正面から自分を見つめる烏京さんを、困惑の感情が混じったままの顔で見つめ返している。


「エリちゃん? 私ね、エリちゃんのことが好き」

「……へ?」


 ミサキはポカンとした顔で、口を半開きにしながら烏京さんの目を見た。それから、思わずしてしまった自分の動作に気づいてか、さっとその目を逸らす。


「それは、あたしも、すずちゃんのことは好き、だけど」

「違う」


 烏京さんは、大きく首を横に振る。


「そのままの意味。私、エリちゃんが好き」


 烏京さんの告白に、俺も頭の中が真っ白になった。さっきまで考えていた、自分の気持ちをしっかり伝えるにはどうするかとか、気持ちの昂っているミサキの気持ちも当然だとか、自分のやってることは結局虚栄心からなのかとかそういう思考が、全て流れる。


「結城さんにも言いましたよね? 私は誰よりもエリちゃんが幸せになってほしい。そう願っているって」

「……はい」


 今朝、俺からも確認した。そんな風に言ってくれる人が、ミサキの近くにいてくれるなら心強い、と。


「私、男たちに良いようにされるエリちゃんを見て、ずっと思ってた。私じゃダメなのかって」


 烏京さんは、尚もミサキからは目を離さない。


「そんなエリちゃんが、心から信頼できるパートナーを見つけたって聞いた時は、もう私は一生身を引くべきなのかと勝手に思った」


 少しだけ烏京さんの声が震えているのがわかる。力強く言葉を口にしているわけじゃなく、彼女は口にする言葉を紡ぐ、その為の力を奮い立たせている。


「私なら、支えられる。エリちゃんのこと。三﨑瑛梨のことも、桔梗エリカのことも。……結城さんとは違って」

「……」


 烏京さんの最後の言葉は、流石に心にグサリと来た。


「もう一度言う。私、エリちゃんが好き」


 烏京さんの声ははっきりとしている。


「エリちゃんが私を支えてくれてたんだから、それなら今度は私の番だよ」

「えっと、すずちゃん」

「エリちゃんはどう思う?」

「待って待って待って。ちょ、待って!?」


 ミサキはその場に座り込み、腰を床に下ろした。ミサキの肩に体重を乗せていた烏京さんが、少しだけよろける。けれど、烏京さんは体勢を立て直した後、ミサキと目線を合わすようにしゃがみ込んだ。


「待って! あたし今! 頭の中すっごい、ぐっちゃぐちゃ、だから」

「そうだね、結城さんの別れ話につけ込んでるのは卑怯だと思ってる」

「違う。いや、違わないけど! そうかもしれないけど!? そういうことじゃなくてね!?」


 ミサキは声を張り上げるが、さっきように荒げるような声ではなく、困惑の色が大きい。

 俺も呆気に取られて二人のことをただ見ているだけの木偶になる。

 ──確かに、ミサキはどちらかというと自分がリードされたいタイプだ。そんなミサキだから、ジリジリ詰め寄る烏京さんにたじたじになるのも当然と言えば当然と言えるかもしれない。


「あ、あたしを手放したくなくて適当言ってるんじゃないよね?」

「だったらそれで何か問題が? それだけ私がエリちゃんとやっていきたいってことなんだけど」

「──え、ええ?」


 ミサキは誰かに助けを求めるような眼差しで、俺を見た。


「ゆ、ユウくんはそれでいいの?」

「結城さんは、エリちゃんを捨てるって言ってるんだよ?」

「あの、烏京さん? いや、あの──?」


 その言い草は流石に人聞きが悪いと言うか……。


「違いますか?」

「烏京さん」

「確かに君は優しいんだと思う。けど、君のそれは逃げと一緒だよね?」


 ぐうの音も出ない。何度も自分の中で反芻したように、俺にミサキとお互いを支え合う度量があれば、こんな風にはなっていない。

 そして烏京さんは、やはりミサキから目を離さなかった。


「ねえ、エリちゃん。エリちゃんは私のこと嫌い?」

「……嫌い、じゃない」

「アイドルの仕事なんてもう、やりたくない?」


 ミサキは首を横に振る。


「そんなことない。あたし、アットシグマの三人でライブに立つの、楽しい。辛いこともあるけど、ファンのみんなが喜んでくれるのだって、嬉しい」

「良かった」


 烏京さんはホッと一息ついた後、またミサキの両肩に手を置いた。


「だったら私、頑張るから。アットシグマのこともそうだし、エリちゃんとのことも。結城さんの代わりなんて言わない。大好きなエリちゃんの一番になるから」


 最初は震えの混じっていた烏京さんの声は、段々と力強くなっていた。


「結城さんもそれで良い?」


 烏京さんは俺に尋ねる。確かに俺は、烏京さんにミサキを任せると言った。けれど、こうなることまでは想定してない。心のどこかで、ここで別れても俺はまだミサキと繋がっていたいというズルい欲があったからだ。


「私はこれで全部、言った」


 烏京さんは「はあ」と大きく息を吐き、今度こそ俺の方を振り向いて言う。


「君は? 抱えている気持ち、ないの?」

「俺の……」

「結城さんは本当に、エリちゃんにアイドルを続けてほしい、たったそれだけで私に立会人なんか頼んだの?」


 俺が烏京さんに言った気持ちは本当だ。俺は、三﨑瑛梨という人間には、前に進んで欲しい。


「エリちゃんは? エリちゃんは結城さんに何か、言いたいことはないの?」

「あたしは、そんなのない……。あたしはユウくんが好きで、ユウくんも」

「本当に?」


 ミサキの目がぐるぐると部屋中を見回す。俺もまた、ミサキを、烏京さんを、自分の体を見る。けれど、この部屋のどこにも答えは落ちていない。


 俺がミサキにアイドルを続けて欲しい気持ち自体は嘘じゃない。

 けれど、どうだろう。たとえ、高校卒業からミサキと離れずに彼女と付き合って、それで同じように彼女がアイドルになり、それで彼女がアイドルを辞めたいと言った時、俺は同じようにしただろうか?

 その場合、俺は今みたいにここまでは、彼女から手を離そうと、思わなかったんじゃないだろうか。

 だって、それは──。


「あのね、ユウくん」


 ウジウジと黙りこくる俺の代わりに、ミサキが先に口を開いた。

 ミサキの目は、俺を向いていない。ミサキはただじっと、前を見ていた。


「ユウくんは、本当に隠し事が下手」

「何──?」

「今も未だ、あの後輩ちゃんのことが好き?」


 ミサキにそのことを聞かれるのは、いつぶりだったか。俺からミサキにその話をしたことは、一度だってない。けれど、ミサキが自分を名前で呼んでほしいと言ったあの時だって、彼女はそのことを気にしていた様子だった。


「俺は──」


 ──そう、本当に簡単な話だ。

 俺は結局、自分がミサキと離れたくて、それでミサキと離れる口実ができたから、それに手を掴んだだけの、下衆な男だという話。

 それを自分で認めたくないから、俺は色々な感情と理屈で自分を飾り立てていた。


「あいつのこと未だ好き、だよ」


 今日、ミサキに別れ話を切り出す前、ふとあいつのいるかもしれないサークル棟を俺は見た。ミサキのことは好きだ。一方で、馬鹿馬鹿しさを感じながらも、俺は未だに美咲にも未練を持って、捨て切れていない。


「そっか。あの子、そんなに良い子なの?」

「いや、やることなすこと、めちゃくちゃな奴だよ」


 少なくとも、ミサキの方が余程人間ができている。あいつのやったことの意味を俺が理解できたことなんてほとんどない。

 それでもずっと、俺の心の中にあいつはいる。


「あたしね、わかってた。だってユウくん、あたしが最初にユウくんを好きだって言った時、すぐには好きって言ってくれなかった」

「……そうだっけ」


 何がそうだっけ、だ。俺はまだ、自分をクソほど薄い殻で守ろうとしている。


「あたしね? あの時本当に……ほんっとーに! ムカついた。だからあたしはね、すぐにユウくんを誘ったの。ユウくんならきっと、そうすれば逃げられないと思って」


 ミサキは俺を嘲るような調子で、鼻で笑う。


「事実、そうなった。ああ、これでユウくんはもうあたしのモノだーって、あの時だって声を出して笑った」


 最初のセックスの時の、俺の頭の中にもこびり付いている、ミサキの笑い声。だって、あんな風にミサキが笑ったのは、後にも先にもあの時だけだったから。


「あの頃から、あたしにも色々あった。ユウくんにも色々あったのはわかった。その差はすぐに埋められない」


 烏京さんの本音を受けて、恋人生活の裏で溜め込んでいたのであろう気持ちをミサキは吐き出す。


「だから、あたしはユウくんとセックスした。それが結局一番、人と人とが離れられなくなる手段、だから」

「そう、なんだ」


 俺も自分の心に問い掛ける。ミサキに対して、好きの気持ちの裏にあったモノ、それを取り繕わずに言葉にするとどうなるか。


「俺、小説書くのもそうだけど、今のバイトも結構気に入ってるんだ」


 塾のバイトも見学店のバイトも。ミサキは何度かそれを辞めさせたがっていたけど、ミサキにアイドルを辞めてほしくないのと同じで、俺も今すぐに自分のやりたいことを辞めたくなんかない。

 ミサキが俺と離れてから烏京さんたちに出会ったように、俺だって色々な人と繋がった。大学に入り、文芸サークルに参加し、美咲と出会い、ふざけたNTR報告をされ、古宮さんや茉莉綾さんと知り合い、片桐さんや店のみんなに認められた。俺はそれを、ミサキの為に全て捨てようとまで思わない。


「それで友達になった人も尊敬できるようになった人だっている。ミサキはそれも嫌?」

「嫌」


 ミサキは即答した。


「あたしの好きなユウくんが、他の女にデレデレするのなんて、想像するだけで、嫌。隣にいるだけで吐き気がする。そういうとこ嫌い」

「エリだって、ファンに対して色々するだろ」

「そうやって利口ぶって、全然嫉妬してくれないのも嫌」

「そっか。俺も、そんな風にとやかく言われんの嫌だし、ミサキがそうやって自分の都合を優先するところ、どうかと思う」

「そんなの、お互い様」


 好きな相手に嫌なことは嫌だって言って良いと思うと言っていたのは、茉莉綾さんだったっけ。お互いに我慢するだけじゃなく、ちゃんと早いうちに本音を言った方が良いと言ってたのは、古宮さんだ。やっぱり俺はそうやって、色々なことを色々な人から教わってここにいる。

 そう言えば、そのどちらも俺は、ミサキに対してやっていなかったんだな、と今になって気付く。そういう意味でも、俺はきっと、ずっと停滞し続けていた。


 それからミサキはわざとらしく、大きく溜息を吐いた。


「そうだね。ユウくん、モテモテだもんね」

「は? なんでそういう話になるの」

「塾の帰りにも綺麗な人と一緒にいたし、大学でも後輩と一緒にいて、えっちなお店にも通ってる」


 烏京さんが、ミサキの言葉にぴくりと眉を動かした。


「待ってください。最後の何?」

「いや、あのですね……」


 俺は思わず弁解の言葉を探す。

 烏京さんが、最初にマンションの前で俺に眼力をぶつけて来た時と同じくらい、いやそれ以上に力強い圧を俺にぶつけて来るのを感じた。


「そりゃそれだけ女の子に囲まれてたら、一人の子に決めるなんてできないよね。ユウくんはまだいっぱい遊びたいんだ」

「違うって」


 待て。それは本当に人聞きが悪過ぎる。

 俺はただ、自分の好きな人を大事にしたいだけだ。だからこれまでも、色々な誘惑を跳ね除けたわけで……。


「聞き捨てなりませんね」


 ミサキの両肩に手を置いたままだった烏京さんが、ミサキのことを自分の胸に抱き寄せた。

 ──今、烏京さんとの距離が、物理的以上に物凄く離れた気がする。


「そんなこと、私は聞いてない。そんな最低のクズ男に、エリちゃんは渡せません」

「エリ、その言い方だとちょっと誤解が……」


 俺はミサキの顔を見る。ミサキは何か楽しくなって来たみたいに、烏京さんに抱きかかえられて、涙を目に浮かべて困り顔をしながらも、小さく声を出して笑い続けていた。


「もう良いよ、それで」


 ミサキを抱えて俺を睨みつける烏京さんと、その腕の中で笑うミサキを見て、俺はそれ以上、弁解の言葉を諦めた。

 ──ダメだ。完敗だ。


「ユウくんのまぬけ」

「ミサキのバカ」

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