アパート他家、あの日の訣別③
いざ言葉にしてみると、もう吐いた唾は飲み込めない、という気持ちが大きくなった。相手は他ならぬ烏京さんだ。少しのやり取りだけでもわかる。きっとこの人は、俺がミサキに対しての気持ちに冗談を言うことは許さないだろう。
「結城さん、さっきのは聞き間違えじゃないですよね? 本気で言いましたか?」
少しの沈黙の後、通話先の烏京さんが俺にそう尋ねてきた。俺は大学構内にあるベンチに腰掛けて、もう一度深呼吸をした。
「はい。俺も烏京さんと一緒です。俺もエリには今の活動を続けてほしい」
「ちょっと待って」
烏京さんが俺の言葉に対して何か返そうとして、また静かになった。
「私も最初、あなたとエリちゃんを別れさせようとは思った」
通話先で、烏京さんが小さく息を吐いたのが聞こえた。
「でも、結城さん。あなたに実際会ってみて、それを私から言うのはやめました。だってね? エリちゃん、あなたのことを本当に幸せそうに話すんです。あんなエリちゃん、初めて見た」
「だから、俺はエリとは距離を取らないといけないんです」
震えながらも、俺は断言した。
美咲や古宮さんに対してそうしてしまったみたいに、自分勝手で意固地な言い草にならないよう慎重であろうとする。俺も自分の気持ちを整理し切れてはいない。けれど、それを理由に何度も同じ失敗を良しともしたくはなかった。
俺は慎重に、慎重に想いを巡らせる。
「俺といたらあいつは不幸になるみたいな、そんなことを言いたいわけじゃないんです。俺と一緒にいるならいるで俺はエリを幸せにしてあげたいとも思う」
「じゃあどうして別れるなんて」
「さっきも言いました。俺もエリには、アイドルを続けて欲しい。その為には、俺と一緒にいたらダメだ」
ミサキと俺が強い意志を持って、一緒にお互いの目標に向かって前進できるような間柄であればそれで良かった。けれど、どんなに自分を高く評価しても、きっと俺はミサキに対してそんな風には無情になれない。
「今、あいつがアイドルを続ける為に隣に必要なのは俺じゃない」
「やっぱり、本当に、本気、なんですね」
烏京さんにも、俺の気持ちは伝わったらしい。
「それ、エリちゃんにはもう言ったんですか?」
さっきよりも大きめのため息が聞こえた後、烏京さんが改めて話を続けた。
「まだです。先に烏京さんに言っておく必要があると思って」
「それはどうして?」
「俺達二人で別れ話をしたところで、俺もエリもお互いの家は知ってるし、連絡だって簡単にできる。情け無い話ですが、エリにそれを言っても、多分俺は絆されてしまう」
我ながらみっともないことを言っている自覚はある。最近、そんなことばかりだ。けれど、今回ばかりは自分のみっともなさを取り繕っていたって仕方ない。
「俺、あいつのことすごい好きなんですよ。正直、俺もまだあいつと一緒にいたいです」
それでも俺は、ミサキの為にできることを、自分なりにしようと決めた。今、烏京さんに話していることは、その第一歩に過ぎない。
「だから、俺は烏京さんに俺達の立会人になってほしい」
「私が?」
「はい。烏京さん、昨日言ってましたよね? 俺はちゃんと覚えてます」
──エリちゃんには幸せになってほしい。エリちゃんをずっと見てきて、私は誰よりもそう願っているんです。
「そう言ってくれた烏京さんに、俺はこれからのエリのことを任せたい」
ミサキの意思を無視して、少しばかり傲慢な物言いになっているのは承知の上だ。俺はあいつに再会してから、いや、それより前からずっと、あいつがしたいと思うことを優先してきた。でも、あいつが今俺に言うことは、本当の意味であいつがしたいことと、俺は思わない。
義父の死を経て、記憶の中にしかいない俺が現実にいない寂しさを埋めようとしたのが、桔梗エリカの始まりだったのだとしても、あいつには桔梗エリカとして歩んで積み重ねた日々がある。
「烏京さんも、それで構いませんか?」
「そんなの私は勿論、良いに決まってる。けど……」
烏京さんは「うーん」と小さく唸る。
「本当にそれでいい? 勢いで決めて、後悔しませんか?」
俺に対して烏京さんはそんな風に心配して聞いてくれた。そのおかげで、俺は彼女の優しさとミサキに対する気持ちを、改めて確認できる。
「烏京さんと話さなくても、何となく俺もエリもお互いに甘えて依存してたのは分かってました」
「もう少し、時間を置いてからでも良いんじゃないですか?」
「エリじゃなくて、まず烏京さんが引き止めるんですか?」
烏京さんがあまりに優しく言葉をかけてくれるので、俺は思わず笑ってしまった。
「これ以上に時間を置いたら、それこそもう離れられなくなります」
「そう……。そう、ですか」
烏京さんはまた小さく唸り声を出して、それから頰か手でも叩いたのか、パンッという乾いた音がスマホを通じて届いた。
「分かりました。結城さんがそう言うのであれば、私も腹を括ります」
「良かった」
俺はホッと胸を撫で下ろす。偉そうに言ったが、正直烏京さんの協力がなければ、俺はこのままズルズルとミサキとの関係を続けてしまう可能性も高いと思っていた。
「烏京さん、ありがとうございます」
「ううん、こっちこそありがとう」
そう言う烏京さんからは、先程までの狼狽えた様子はなくなっていた。
「エリちゃんのこと、それに私たちアットシグマのこと、そんなにも考えてくれたこと、感謝します」
一瞬、俺は烏京さんに言われた言葉の意味が読み取れず呆けてしまった。けれど、そうか。当然、ミサキがアットシグマを続けることは、烏京さんの為にもなるのだ。
迷惑ばかり押し付けてしまっていると思ったけれど、そのことはすっかり頭から抜けていた。烏京さんの言う通り、俺が今の選択を勢いに任せているのは間違いないようだ。けれど俺も烏京さんに言った通り、こんなこと、勢いにでも任せなければできない。
「いえ。それでは、よろしくお願いします」
俺は烏京さんとの通話を切った。一限目の開始時刻がもう過ぎている。今ならまだ遅刻で間に合う筈と、俺は急いで講義のある教室に向かった。
その日の講義はどれもこれも、全く手につかなかった。もう言ってしまったこととは言え、冷静になってみれば本当にこれで良いのかと悩む気持ちが沸々と湧いてくるし、ミサキに対してどんな風に俺の気持ちを伝えようというのもまとまらない。とは言え、烏京さんに俺の今の気持ちを話したことで、自分のやるべき行動の方向性は見えてきたし、今更やっぱりなしだなんて格好の悪いことをしたくもないという気持ちだって出てくる。
その日の講義を終わらせて、俺はふと、今も美咲はサークル棟にいるのだろうか、ということが気になった。俺が部室に来なくなってもあいつは変わらずにあそこにいるのか、それとももう俺と一緒で部室には来なくなったのか。
俺は金元との会話を思い出した。美咲自身は金元に自分が処女であることを言わなかったこととか、元々の目的はセックスの練習だったとか、金元の話と美咲の話とで少しばかり話が違うところもある。
ミサキとのことに決着がついたら、こっちとも向き合わないといけない、と思う。勝手に美咲から離れたのは俺の方だ。美咲も、もうそんな俺と話したくないと言うなら仕方ないが、俺の知るあいつはそんなタマじゃないし、このままモヤモヤしたモノを抱えたままになるのは俺もあいつも望むところではない。
ミサキとのことと一緒だ。こんなもの、逃げたままでも、誰も何も文句は言わない。けれど、単純に俺が嫌なのだ。
俺はサークル棟を一瞥して、大学から出ると、もう慣れ切ったミサキのアパートに向かった。向かう電車の中で、花屋を調べたら駅から少し歩いたところにあったので、まずは花屋に向かった。
明日、かなこさんに渡すつもりの花束は花屋の店員に相談してピンクのバラの花束を買い、店員には後で取りにくることを伝える。そして約束通り美咲に渡す為にガーベラを何輪か見繕い、束ねてもらった。ミサキの欲しがっていた赤色のガーベラと、ピンク色のガーベラを交互に束ねたその花束の中に、講義中に隠れて書いた手紙を忍ばせる。
ミサキとまた会えてどれだけ嬉しかったか、ミサキと一緒にいたこの数ヶ月がどんなに楽しかったか、これからもミサキには自分のやりたいことを全力で楽しんで欲しいとか、まとまり切らない気持ちをまとまり切らないなりに書き綴った。この期に及んで未練がましく、自分をよく見せようと必死みたいで格好悪いとも思ったが、このくらいの格好悪さは許して欲しい。
ガーベラの花束を手に、俺はミサキの元に向かう。玄関の扉を開ける前に、俺はもう一度自分の気持ちを確かめた。ミサキのことは、やっぱり好きだ。今日だって玄関を開けたらすぐにミサキにハグをして、お互いに甘え合いたい。これまでみたいにミサキが配信しているのを横目に俺は小説を書いて、それが終わればキスをして、お互いに疲れていなければ体を寄せ合う。そんな毎日が、これからずっと続いたってそれはそれで構わないのだ。けれどそれよりも今、俺はあいつのことを応援したい。
ミサキにとって、俺は過去だ。そんな過去が、たまたま目の前に現れて、少しの間交わっただけ。いつかまた、お互いがお互いを支え合えるくらい強くなれたら……そんなことも考えるけれど、今それを考えてしまったら、それはそれで決心が鈍る。
俺は玄関前で、烏京さんにメールを送った。烏京さんも、ミサキのアパートの場所は知っているので、電話で話した通りに俺と美咲の別れ話の立会人になってもらう。
烏京さんが来るまでに、俺はミサキにこれからのことを、しっかりと二人きりで切り出す。
「ただいま」
「おかえりー」
玄関では、いつものように両腕を開いたミサキが待っている。ミサキは俺の持っている花束に気付き、口元に手を寄せた。
「買って来てくれたんだ」
「うん」
俺はミサキにガーベラの花束を渡した。ミサキは花束を受け取ると、リビングまで駆けていく。渡してから、もっと何でもない日に渡しておくんだったなと少しだけ悔いた。
ミサキは嬉しそうに花束をリビングまで持って行き、置き場所に迷った末に配信用の机の上に置いた。
俺とミサキは、二人でソファに座る。このソファもそう言えば、俺が組み立てたものだったことを思い出す。この部屋の中にはこの数ヶ月、二人で作った思い出がたくさんある。
「エリ」
俺は彼女の名前を呼ぶ。こうして彼女を前にしてみると、やはり俺は彼女に思いを伝えることに対して臆病になる。
ミサキと一緒にいることを選び、美咲にもう部室には来なくなることを伝えた時と似ているけれど、それとも違う。
俺はミサキの泣きそうな顔や、不貞腐れるような顔が見たくなくて、俺は必死になって来たのに。
今度は自ら、そんな顔を見ようという。
「別れよう」
俺が口にした言葉は、シンプルな物だった。
本当はもっと色々と修飾した言葉を、彼女のことを思ってのことだと言いたかった。だけど、そんな器用なこと、俺にはできなかったようだ。
「……そっか」
ミサキの反応は、思っていたのとは少しだけ違った。
「なんか、そう言われるんじゃないかって思ってた」
「……どうして」
「だってユウくん、隠し事下手くそなんだもん」
ミサキは俺の顔を見る。その眼には涙が浮かんでいる。思わずそんな彼女の肩を抱きしめたくなったけれど、そんなことをしてしまえば、結局また二人の関係は変わらないままだ。俺はそんな気持ちをグッと押し込めた。
「なんでそんなこと言うのか、聞いても良い?」
潤んだ目を擦ってミサキが言う。
「俺もエリと一緒にいたいから」
ああ、俺はやっぱりこの期に及んで格好つけようとしているな、と自分から出た言葉なのにバカバカしく思う。そうだけど、最初に言うべき言葉はそれじゃないだろう。
「俺は、エリにアイドルを続けて欲しい。でもエリが俺と一緒にいたいって言うなら、俺はそれを止めないと思う。なら、俺とエリは離れなくちゃ、俺が居て欲しい三﨑瑛梨は、自分のやりたいことを頑張れる、そういう奴だと思うから」
「そんなの、勝手だよ」
分かっている。そんなことは分かっている。
「ねえ? ホントに? ホントにそれしかないかなあ?」
ミサキの眼から、今度こそポロポロと涙が溢れた。
「あたしとユウくん、ちょうど良い距離感で、何とかやっていけないかなあ? あたし。あたしはユウくんと一緒にいたいから、その為には他のこと、我慢できるよ?」
「嘘だ」
それは嘘だ。ミサキだって自分でもそれはわかっているはずだ。
「これからどうするにしても、俺たちは一回離れないと。そうじゃなきゃ、俺たちは前に進めない。多分、そうじゃなきゃいつまでもお互いに甘えっぱなしになる。ちょっと会わない期間を作るとか、そんな中途半端じゃ、変わらない」
ふーっと俺は大きく息を吐く。
「だから、別れよう」
「やだ」
「俺はミサキにアイドルを続けてほしい」
「やだ!」
「そりゃ俺だって。俺だって……!」
ピンポーンと玄関のチャイムの音が鳴る。俺はその音に反応して、玄関に向かう。ミサキも続いて、俺に着いてくる。
俺は玄関の鍵を開けて、扉を開く。
「お邪魔します」
扉の前には、烏京さんが立っていた。俺はスマホを見る。烏京さんからの『そろそろ着きます』のメッセージが届いていたが、気付いていなかった。
「すずちゃん?」
玄関の戸を開ける俺の後ろで、ミサキが不思議そうに首を傾げた。
「どうして? ユウくん、どういうこと? あれ? もしかして、すずちゃんが──」
「俺が頼んだんだ」
ミサキがあらぬことを口走る前に、俺は言葉を被せた。
「烏京さんには、俺から頼んだ。俺とミサキだけだったら、きっとどうにもならないから、立会人になってくれって」
「ユウくん、から?」
俺はミサキの顔を振り返り、大きく頷いた。
「その分だと、もうエリちゃんも聞いたんですね」
烏京さんは俺とミサキの顔を交互に見て、口をへの字に歪めた。
「二人とも、顔がぐちゃぐちゃじゃないですか」
言われて、俺は自分の顔を腕で拭った。確かに、俺の顔もいつの間にやら涙で濡れているようだった。
「中に入っても?」
俺は玄関から離れる。烏京さんは靴を脱いで綺麗に揃えた後、俺とミサキの間に立った。
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