アパート他家、あの日の訣別②

 使い終わったコンドームを捨てた後、ミサキの要望で風呂にお湯を張り、貸しアパートの小さな浴槽で、二人で一緒に入浴した。俺が先に浴槽に入り、その上からミサキが入ってピッタリと密着する形になる。ミサキの自宅マンションの方なら、二人で入っても充分な広さだったと思うのだが、ミサキは「これが良い」と言って俺に浴槽の中で全体重を預けた。お湯の浮力もあって、重さはほとんど感じず、ただ水の中で触れ合う肌と肌の感触だけが、妙に心地良かった。

 お互いに髪や背中を洗い合って、体を洗い流した後はお互いの体を拭いた。


 それから二人とも寝巻きを着て、俺がミサキの髪を乾かしながら、二人で昔の話をした。

 あの頃何を考えていたか。お互いのことをどう思っていたのか。そんな話。ミサキは特進級から落ちてきて不貞腐れていた俺のことを、最初は暗い奴だとは思っていたらしい。俺もミサキのことを最初は、誰とでも仲良くする八方美人だと思っていたなんて話をして、お互いに笑い合った。

 俺とのこと以外はほとんど覚えていないというのも本当らしく、クラスであった行事や修学旅行の思い出なんかは「そんなことあったっけ」といった風にあまりピンと来ないようだった。


「よく考えたら、あたしとユウくんが会ってからあたしが転校するまで、2年くらいしかなかったんだよね」

「短いな」

「ねえ、ユウくんはいつからあたしのこと好きだったの?」

「いつから、かなあ」


 ミサキほどではないが、俺も高校生の時のことをちゃんと覚えているわけじゃない。たかだか三、四年前の話だというのに、ミサキと何をしたかは覚えていても、その時にどんなことを感じていたかまでの記憶は曖昧だ。

 帰る方向が同じで、一緒に帰るようになってからだったか。テスト勉強を俺がミサキに教えるようになってからだったか。休日にも一緒に遊びに行くのが当たり前になった頃、何かきっかけがあったっけ。そのどの時も、俺はミサキに好意を抱いていた気がする。


「少なくとも、一緒にラブホ行った時はもう好きだったよ」

「そこで好きって思ったんだとしたら、流石にそれは後過ぎ! その時はあたしだってもう好きだよ」

「いつの間にか、かな」

「そ? あたしはね、信号待ちでぼっとしてたあたしをユウくんが手を引いてくれた時と、体育祭の準備の時に疲れて寝そうになってたあたしに毛布かけてくれた時」

「どっちだよ」

「どっちも!」


 俺もそれは覚えているけれど、俺が自分からしたことというより、ミサキが普段から「あたしが疲れてる時はホントに疲れてる時だから、その時は君がフォローするんだよ」などと言っていたから、その通りにしたまでだ。正直、あの時にミサキに対して気を使うようになって初めて、俺は他人の様子をより観察するようになったんだ。


 だからこれも、どちらが先なのかははっきりしない。恋愛漫画みたいに、この時に恋を自覚したみたいな思い出が、いつだってはっきりしているわけじゃない。少なくとも俺の場合は、好きになった頃に勝手に「もしかしてあれが」を考えている気がする。


「ユウくん、指しゃぶっていい?」

「なんで」

「なんとなく」


 俺はミサキに右手を差し出す。ミサキは俺の手首を掴んで、人差し指と中指を口に含んだ。俺はそれを黙って見つめる。

 ミサキのして欲しいことは、何でもやらせたかった。

 俺の指を口に含むミサキは、指を舐めると言うよりも麺を啜るように指に吸い付いていた。言葉通りしゃぶりついている様子で、たまに歯を当てて噛むから痛い。人差し指と中指から口を離すと、今度は薬指、小指、親指の順番に同じように俺の指をしゃぶった。吸い付くようにしゃぶるから、少しずつ指が痺れ始めて苦しかったが、ミサキは構うことなく、左手の手首も掴んで同じようにした。

 ミサキは左手の親指をしゃぶり終わり、鼻息を荒く吐いてソファに背中から倒れ込む。


「満足?」


 俺が聞くと、ミサキは激しく首を振って今度は何も言わずに俺に覆い被さり、耳を噛んだ。

 俺はその痛みに驚いて、ミサキを思わず振り解いたが、無言で俺を睨みつけるミサキの顔を見て俺はため息をつき、大人しく耳を差し出した。ミサキは同じように耳に噛みつく。いつもしているように優しく耳介を舐めるのではなく、激しい噛みつくので、俺は必死で痛みに耐えた。

 ミサキは反対側の耳にも同じように噛みついて、それが終わるとまたソファに沈んだ。


「もっとしたい」

「そろそろ勘弁」


 心底嫌そうに言う俺の言葉を聞いて、ミサキは意地悪そうに笑った。


 その後、ミサキが耳掻き棒を持ってきて、正座をして膝をトントンと叩いたので、俺は小さく溜息を吐いて膝の上に頭を乗せた。最初の方こそゆっくりと耳の周りを掻いていたが、段々と中に入って行き、やはり俺は痛みに耐えた。

 耳掻きを終えると、二人でまたベッドに横になり、ミサキに腕枕をしてその重みを感じながら、以前に感じたようなドキドキを今は感じないことに気付く。ただ、そんなことは関係なく、俺に体を預けるミサキはやはり愛おしくて、俺は乾いたばかりのミサキの髪を撫でた。


「好きだよ、ミサキ」


 俺の腕に頭を乗せたミサキに目が合って、俺は最初に彼女が望んだことを忘れずに、そう語りかける。


「私も好き」


 俺達は、今日何度目になるかわからない「好き」の言葉の応酬を繰り返した。

 気付けば瞼も重くなり、俺の目の前が真っ暗になる。そんな中、ミサキがもぞもぞと動いて俺の唇に音を立ててキスをするのがわかった。

 俺もお返しにミサキの頬と唇の両方にキスをして、ゆっくりと夢の中に落ちていく。

 夢の中でも、俺はミサキと抱き合っていた。いつか見たのと同じような夢だったけれど、今度は実感を伴っているように感じた。

 ミサキが俺に腕を伸ばし、俺もそれに応える。そんなことを夢の中でも繰り返した後、いつの間にかアイドル衣装に着替えたミサキが俺に手を振って、玄関から出ていくのをじっと見送り、扉が閉まったところで、俺は目を覚ました。


 ミサキは変わらず、俺の隣にいる。


 俺が望めば、きっとミサキはいつまでも俺と一緒にいてくれるのだと思う。俺もミサキにそうしてもらえたらどれだけ幸せかと思う。


 俺はぐっすりと眠るミサキの頭を撫でて布団から出ると、スマホを手にした。

 昨日教えてもらったばかりの烏京さんの連絡先を開き、メールを送った。できれば通話する時間が欲しかったので、大学の講義のない時間帯を書いて送信し、話ができないかと文言を綴った。

 それからいつものように朝食の用意をして、ミサキが起きてくる頃には大学に行く準備を終わらせる。


「今日、俺花束買ってくるよ」

「何の?」

「ガーベラ。約束したろ」


 ミサキは俺の言葉を聞いて、嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。待ってる」

「わかった」


 俺はミサキに手を振って、玄関から出た。

 電車の中で、桔梗エリカの配信ページを見る。俺はライブ後のお疲れ様配信を再生し、生放送時のチャットをリプレイして見る。桔梗エリカが『ライブどうだったー?』と呼びかけると、何人もの視聴者からのライブの感想が、一瞬では読み切れないほどに流れてくる。どれもこれもライブの楽しさや桔梗エリカの可愛さを熱心に書き込まれていて、それを見て俺まで誇らしくなる。

 ライブ配信をリプレイしているせいで、いつもより早く大学に着いた気がした。

 俺が大学に到着し、1限目の講義に向かおうとした頃に、烏京さんからの返事が来た。俺はすぐにメールを開く。メールには、烏京さんの連絡先が添付され、今からでも話せるとあったので、俺は少しだけ迷った後に烏京さんに電話をかけた。


「もしもし、結城です」

『はい、烏京です』


 烏京さんの声を耳にして、俺は静かに黙りこくった。今、俺の体が震えているのは何のせいなのだろう。涙こそ流れなかったが、言いたかったことを言おうとすると、胸の奥から何かが込み上げてきて、俺は大きく深呼吸をした。


『結城さん? 大丈夫ですか?』

「大丈夫です」


 俺はもう一度深呼吸をする。今からだって、俺は自分を誤魔化すことができる。何でもないのだと、ただ昨日ミサキが烏京さんに感謝している話を聞いたのだということだけ伝えて、何事もなかったかのように電話を切ったって良い。

 ミサキがアイドルを辞めたって、きっと俺とミサキは一緒に何とかやっていける。でもミサキはあれで打たれ弱いから、彼女には支えが必要だ。ミサキがアイドルを辞めて、他の仕事をするようになって、もしかしたら今のようにはいられないかもしれない。そうなったら俺は自分を責めるだろうけれど。ミサキのことだ、きっとそんな俺のことを慰めてくれるだろうし、俺もそんな彼女を正面から抱き締めるだろう。

 別にそんな生き方だって悪くない。

 どんな選択をしたところで、俺のエゴとミサキのエゴを何とか擦り合わせて、生きていくだろう。


 ──けれど、俺はそれが嫌だと感じている。

 俺だってミサキと一緒にいたい。ミサキのことが好きだ。もっとお互いを知って、もっとお互いを支え合っていくことだってできる。そう思う。

 ミサキは確かに少しだけ、束縛が強いのかもしれない。けれど、それがどうした。俺が彼女に寄り添ってあげれば済むだけの話だ。そんなことは決して重要じゃない。


「烏京さん」


 それでも俺は震える体を押さえつけて、昨日から言おうとしていた言葉を、形にする。


「俺、エリと──ミサキと別れます」


 

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