アパート他家、あの日の訣別①

 その日の撮影が終わり、俺は店長に短く挨拶をしてすぐに退勤した。片桐さんは不在の日だったため、そういえばかなこさんの最終出勤日を聞いてなかったと店長に尋ねると、明後日がそうだと教えてくれたので、送別会の参加は無理でも花束や菓子折りの一つでも渡そうと思い、その日に店に来ることを伝えた。

 野々村先輩からも頼んでおいた対バンの時の写真が送られてきていたので、俺はミサキのアパートに向かう電車の中で、その写真データを見ていた。

 あの時はかなり混乱していたので、ろくに記憶もないのだが、流石にブレブレになっている写真が多い。野々村先輩からは「当日は言えなかったが、アットシグマだけだいぶ写真の質が低かったな。疲れが出てたか?」とメッセージも添えられていた。

 ただ、無意識にミサキに対してレンズをフォーカスしていたのだろう。送られてきた写真の半分くらいは、ミサキをおさめたものだった。写真の中におさまるミサキはどれもこれも笑顔だ。それは俺が行ったことのあるライブでも烏京さんに見せてもらった映像でも一緒だったけれど、後半から少し笑顔が引きつっているように見える写真が増えたように見える。もしかしたらその辺りから、ミサキが俺に気づいたせいかもしれない。


 アパートに着く前にミサキへ連絡したが、まだ配信中の時間だったらしく電話の応答はなく、代わりに『帰る頃には終わりにするね』とメッセージが返ってきた。

 一応アパートの前に到着した時に『着いた』とメッセージを送り、ミサキから『お疲れさま。もう大丈夫』と返ってきたのを確認して、アパートに入る。


「おかえり、ユウくん」


 いつものようにミサキが玄関の前で出迎えて、両腕を広げる。俺はそれに応えて、彼女を正面から抱き締める。


「ただいま、エリ」

「ユウくん、疲れてる?」


 ミサキの背中に腕を回す俺に、彼女が少し心配そうに尋ねた。俺はあまりいつもと変わったつもりはないが、昨日は金元とラーメン屋でたまたま遭遇した上に夜に烏京さんに秘密の話をされ、今日は大学の後に烏京さんと話をしてから見学店のバイトをして帰る前にかなこさんが店を辞める話を聞いて、と確かに昨日今日と色々とあった。自分でわからなくても、疲れが出ていて当然かもしれない。


「そうかも」

「あんまり無理しないでね?」


 ミサキの言葉に俺は頷いた。ミサキの為とは言え、烏京さんとのことはミサキに言えないので、ボロが出ないようにあまり口を開かないようにしていたのも疲れて見える原因のひとつだろうか。


「あ、そうだ。エリ、退職祝いって花束とかで良いと思う?」


 二人でソファに座ってから、俺はかなこさんのことを思い出してミサキに尋ねた。

 ミサキは目線を上に向けて考え込むようにしてから答える。


「どうだろう。無難だとは思うけど、あんまり好きじゃない人もいるし。誰かバイト先で辞めるの?」

「うん。キャストの一人がさ、出勤今週までなんだって。他のキャスト達は送別会することになってたらしくて、俺も呼ばれて」


 ミサキは俺の言葉に、怪訝そうに眉を潜めた。


「え、行くの?」

「いや、今日だったんだけど行かなかった。エリのこと、待たせちゃうし」

「あ、そっか。そうなんだ」


 ミサキは少しだけ表情を緩めて、ホッとした様子で俺の肩にもたれかかる。


「ただ、聞いちゃった以上何もしないのもなー、と思って。明後日が最終日だっていうから、何かプレゼントしようと思ってさ」

「でも、それユウくん行く必要ある?」


 ミサキの聞き方に、少しだけ棘があった。


「ユウくんの仕事って写真撮影でしょ? そんなにお店の子と絡んだりする?」

「スタッフ手伝いとかあるから、何度か顔合わせたりしてるしね。確かに同僚ってわけでもないけど、袖振り合うも他生の縁だし」

「そっか。やっぱり優しいね、ユウくんは」


 ミサキは俺の腕に自分の腕を絡ませる。いつもより少しだけ腕を組む力が強くて痛い。


「この間も聞いたけど、ユウくんはバイトいつ辞めるの?」

「俺はしばらくは予定ないけど……」


 俺が答えてもミサキはそれ以上、口を開かずにじっと俺にくっついたままだ。

 ――もしかして怒ってる? これ、迂闊だったか?

 と今更になって俺は焦った。いやでも、普通にバイトしててお別れになるって時に何かしようと思うのは当然だし、烏京さんとの話じゃなくてこっちの方が地雷になるのが少し想定外だった。確かにミサキは俺がバイト先で他の女の子と仲良くするようなのは、最初から嫌がっていたけれど。だから俺はこうしてちゃんと早く帰ってきたわけで。


「ミサキって好きな花ある?」


 焦る中、何とか絞り出した質問がそれだった。


「ガーベラ」


 ミサキの俺を掴む腕の力が、少しだけ緩む。


「ガーベラか。色は?」

「赤」

「じゃあ、退職祝いの花束買う前に、明日エリにも買ってくるよ」

「ホント?」

「うん、約束」


 俺はちらりとミサキの顔を見る。顔が綻び、さっきまでのような怪訝そうな表情はなくなっていた。俺はホッとして、ミサキの肩に手を回した。


「やっぱりあたしも仕事辞めようかな」

「どうして」


 退職祝いの花束の話は終わっても、俺としては避けたくても避けられない話題を、ミサキの方から振ってきた。


「だって、そしたらユウくんお祝いしてくれるし」


 ミサキの言葉に、俺は喉まで出かかった溜息を飲み込む。


「ファンが悲しむって話したろ」

「だって、あたしはユウくんと一緒にいたいんだもん」


 果たして、どう切り込んでいったものか。俺は烏京さんとの会話を思い出す。烏京さんは、心底ミサキにアットシグマの活動を続けてほしいと願っていた。

 ミサキがアイドルを諦めなくちゃいけない時は、これから何度だって来るかもしれない。けれどきっと今辞めたところで、見学店を辞めるかなこさんのようにスパッと気持ちよく終えることは、無理だと思う。


「ずっと一緒にいたいの」

「他のメンバーのみんなも困るんじゃないか?」

「すずちゃんもかえでも、一人でやっていけるし。グループ組もうって無理に声掛けたの、あたしだから」

「そうなんだ?」


 そういえば、アットシグマの結成について俺はあまり詳しくは聞いていない。


「エリはどうしてアットシグマの仕事始めたの?」

「言ってなかったっけ?」


 俺はミサキの言葉に頷いた。

 ミサキは「そっか」と一言つぶやいて、俺の腕から体を離す。


「聞きたい?」

「うん。できれば。エリと会えなくなってからのエリのこと、もっと知りたい」

「そう言ってもらえると嬉しいな」


 ミサキはそういうと立ち上がり、台所まで行って冷蔵庫を開けるとシャンパンとワインを持ってきた。


「お酒」

「飲もう」


 俺は台所に行って、チーズやナッツなど簡単なツマミとグラスを用意した。ミサキは俺がツマミを用意する間にシャワーを済まして来て、俺もミサキが終わってからサッと簡単に体を洗い流した。

 それから二人で乾杯し、一杯目を飲んだところで、改めてミサキはゆっくりと口を開いた。


「あたしは元々配信者やってたところをスカウトされて、今とは違う事務所で、直接会って触れるアイドルってことで、何人かのグループで一緒になって売り出され始めたの。その頃はあんまり鳴かず飛ばずで、色々した」

「会って触れる……」


 色々なニュアンスを読み取れるような売り文句だ。ネットで桔梗エリカの駆け出し時代の頃を調べたら、話が出てくるかもしれないが。


「本当に、本当になんだってした。自分で始めたことだけど、嫌だって思ったこともしょっちゅうあった。でも、頑張れたのはユウくんの言葉があったから」

「俺の?」

「高校辞めて、何にも手がつかなくなってた頃に、ホントにちょっとした出来心で桔梗エリカとしての活動を始めた。誰かに何かを認めてほしくて。その手段が、流行りの配信活動ってだけだった。最初の頃は二桁再生数行けばいいくらいから始めて、ASMRとか慣れないゲーム実況とかでちょっとずつ再生数も増えて」


 ミサキはグラスにシャンパンを入れて、ごくごくと勢い良く飲みこむ。


「あのね。あたしね、あの頃のことほとんど覚えてないの」


 ミサキはシャンパンを片手にしながら、ソファから降りてうずくまる。

 あの頃のこと──。当然、高校卒業の頃の話だ。


「でも、俺のことはすぐわかった」


 俺が言うと、ミサキは振り返ることなく頷いた。そしてまたシャンパンを口にする。俺も彼女に続いて、自分用にワインを注いで飲んだ。


「医者には解離性健忘だって言われた。同級生のことだってほとんど覚えてない。でも、ユウくんのことはちゃんと思い出せた。ううん、ユウくんとのことだけ、はっきり覚えてた」


 ミサキはそこで俺の方を振り向いた。その目は少しだけ潤んでいるように見える、


「カラオケに行った時かな。ユウくん言ったの覚えてる? ミサキの歌、すごい上手だって。歌手になれるよって」


 ──正直、俺はそんなことを言ったかどうか覚えていない。確かに当時からミサキは歌が上手かったし、似たようなことを口にしていても不思議ではない。けれど、そんなに重大なこととして言ったわけではないだろうし、今のミサキの話だとそもそも本当に俺の言ったことなのかも怪しいとすら思う。

 けれど、俺はそんなことは飲み込んで、ミサキの話の続きを促した。


「あたしが誇れるのはそれくらい。だから、何度も言うけど、ユウくんがライブに来てくれた時はホントに嬉しかった。やった。ようやく見に来てくれたんだって」


 でも、とミサキは続ける。


「今はユウくんが隣にいてくれるし。だからもう良いかなって」

「俺は続けるべきだと思う」


 ミサキの言葉に、半ば被せる形で俺は言った。


「ミサキ……桔梗エリカのライブを観てても思ったよ。すごい楽しそうにしてる」

「それは……応援してくれるファンの前で苦しそうにするわけにはいかないでしょ」

「そう思える時点ですごいって、エリはすごい頑張ったんだと思う。それをなしにするのは勿体ないって」


 俺は一生懸命に、言葉を選ぶ。ミサキには本当に幸せになってほしいと、心から思う。


「俺はエリが好きだよ。だけど俺と一緒にいたいってだけでそれ以外を諦めるなんて、俺が嫌だ。桔梗エリカを見ていて、そう思った」


 俺が正直な気持ちからの説得の言葉を紡ぐ間、ミサキは静かだった。


「ミサキには、やりたいことを精一杯楽しんでほしい」

「ユウくんも応援してくれる?」

「当たり前だろ。もうあの頃とは違う。俺はいつでもエリに会える。だから、何があっても応援する」


 俺は彼女の目を見て言う。そうだ。何があったって俺はミサキのことを応援できる。あの頃のように、ミサキから遠くに離れることはもうない。


「アットシグマを結成したのは?」

「そうだね。売れないのに、ううん、売れないから色々なことを強制し始めた前の事務所に嫌気が指して、思い切ってあたしはそこを辞めたの。流石にもう耐えられそうになかったから。だから、あの時もあたしはアイドル辞めようと思ってて」


 ミサキは、体を俺に向かい合わせてその頃を思い出すように天井を見上げた。


「そんな時、よく対バンも一緒になってたすずちゃんがね。今のユウくんと同じこと言ってくれた」


 辛い思い出話を語っているはずのミサキのその顔には、少しだけ喜びが見えた。


「エリはすごい頑張ってるのに、それをなしにするのは勿体ないって。私は何があってもエリちゃんのこと応援するからって。自分だってそこまで売れてない底辺のくせしてさ」


 暴言じみたその言葉の裏には、ミサキの烏京さんに対する信頼が感じられた。


「その時に考えたんだよね。すずちゃんも配信やってたのは知ってたし、あの頃ひとりでアイドル活動やってたかえでも巻き込んで、個人配信者勢としてのグループ組めないかって。それをすずちゃんに言ったら、喜んでついて来てくれて。だから、もう一度頑張ってみようかな、って思えた」

「そうなんだ。良い人に会えたんだね」


 烏京さんの話では、ミサキがアットシグマを引っ張ってくれたから今があるようなことを言っていたけれど、ミサキから見れば烏京さんの方が恩人だったわけだ。

 やはり、ミサキには烏京さんのことを言うべきか? いや、烏京さんが言ってないのだとするなら俺から言うべきことではないようにも感じる


「なんか、色々話したらちょっとだけすっきりした」

「そりゃ良かった」

「懐かしいな。ユウくん、あの頃もこうして、あたしの話色々聞いてくれたでしょ」

「そうかもね」


 ミサキはグラスに残っているシャンパンを飲み干した。お酒には強いはずのミサキだが、耳も頰も既に赤くなっている。


「ユウくん、好き」


 ミサキは紅潮した顔で俺に言う。


「俺も好きだよ」


 再会してすぐの頃は、言えなかった言葉。それが嘘になることを恐れていたけれど、今ならそんなことはない。


「エリ、何かしてほしいことある?」


 俺の言葉に、ミサキはキョトンとして、それからまたうずくまった。ミサキは顔を膝にうずめ、少しの静寂の後に口を開く。


「ユウくんに好きって言ってほしい」


 可愛らしい申し出に、俺は少し噴き出した。ミサキと目線を合わせるために、俺もソファから降り、ミサキと膝を付き合わせる。

 ミサキは脚と腕を開き、俺はその間に体を挟む。

 俺とミサキも酒をほとんど飲んでなんかいないけれど、少しだけ酔いを利用して、お互いの頬と頬に手をよせて、唇を重ね合わせた。

 口の中で舌を絡ませて、何度も何度も唇に吸い付く。


「好きだよ、エリ」


 そして俺は唇を離す度に、そう口にした。

 二人とも服を脱ぎ、そのままソファに倒れ込む。俺は口から顔を下ろしてミサキの胸の辺りまでに舌を這わせる。


「好きだよ」


 俺はミサキの胸に指を置いて、また囁いた。

 ミサキはそんな俺に身を委ねて、だらりと腕をソファの下に垂らす。俺はミサキの脚を大きく開いて、覆い被さる。そしてまた、愛の言葉を口にする。

 いつものミサキに倣って、俺はミサキの耳に舌を這わせた。ミサキはビクンと体を震わせる。ミサキは目をとろんとさせと、口を大きく開ける。その口にまた唇を重ねて、俺は言う。


「好きだよ、エリ」

「あたしも好きだよ、ユウくん」


 ミサキも俺の言葉に応答する。

 俺とミサキは、裸のまま抱き合い、脚を絡め合い、お互いの体温を確かめる。


 俺はミサキの腕を掴み、寝室まで彼女を引っ張る。そして二人でキスをし合いながら、今度は布団の上に倒れ込んだ。

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