夜道にて、あの日の遭遇③

「烏京すずめ?」


 俺は実際に、目の前にいる人間の名前を口にする。桔梗エリカと同じでアイドルとしての名前だろうけれども。


「もう一度聞きますが、あなたがユウくんですよね?」


 彼女は俺の言葉を無視して、再度俺に尋ねかけた。ライブの時のように声を作ってはいないが、俺はそのハスキー声を聞いて、それが烏京すずめと同じ声であると確信する。

 ミサキから俺のことを聞いているのだろうが、こんなところで、それも私服で話し掛けられる理由がわからない。


「そうです」


 俺は警戒しつつも、彼女の言葉に頷いた。

 烏京すずめはホッとしたように胸を撫で下ろす。


「良かった。申し遅れました。エリちゃんと同じ、アットシグマでは烏京すずめを名乗っています。夜遅く、不躾にもお声がけ申し訳ありません」


 烏京すずめは俺に恭しくお辞儀をする。顔をあげた時の彼女の瞳が、煌びやかながら俺をジットリと睨め付けているように見えて、ドキリとした。


「こちらを」


 烏京すずめは手に持っている物を俺に示す。仕事用の名刺のようだった。

 俺はそれを受け取る。名刺には、確かに烏京すずめの名前が書かれていた。


「エリちゃんのところに行くんですよね?」

「そうです。あ、もしかして何か仕事の用事ですか?」


 俺が聞くと、彼女はゆっくりと首を横に振った。


「いえ、違います。エリちゃんと交際を始めたという、あなたにお聞きしたいことがあるんです」

「俺に用事?」


 そしてミサキの奴、メンバーには俺との仲を隠していないのか。それだけミサキがメンバーを信頼しているということであれば喜ばしいことだが、今の俺には判断のつくところではない。


「お時間もないので、単刀直入にお話します」


 烏京すずめは一瞬目を瞑り、静かに息を吐くと、再び俺の顔を見る。その眼力に圧倒されそうになり、俺は唾を飲み込んだ。


「エリちゃんが、アイドルを辞めたいと言っていたのですが、何かそれについてご存知ではありませんか?」

「……え?」


 ミサキがアイドルを辞める?

 そんな話、俺は相談も受けていない。


「いえ、知りません」

「あなたが辞めろと言ったわけではないんですよね?」


 烏京すずめが、一歩その足で歩みを進め、俺に近付いた。やはりその眼差しに、俺は圧を感じる。


「言いません。そんなことは」

「そうですか」


 烏京すずめは考え込むように片手で顎を触ると、彼女はもう一枚名刺を取り出して、そこに何か書き込んだ。


「こちらを」


 彼女が何かを書き込んだ二枚目の名刺を、俺はまた受け取る。名刺には電話番号が書かれている。


「問題なければ、その番号にかけていただいても?」

「良いですけども」


 俺はスマホを取り出し、その番号に電話をかけた。

 烏京すずめの鞄の中から、バイブレーションの震える音が鳴る。彼女は鞄の中からスマホを取り出して、画面をタップした。同時に俺のスマホ画面の架電画面が消える。


「ありがとうございます。先程の件について何かエリちゃんに聞いたら、お時間ある時で構いませんので、そちらの電話番号に掛けていただいてもいいですか?」


 烏京すずめは「あ」と声を出すと付け足すように言葉を続けた。


「言っておきますが、仕事用の電話番号ですので」

「はあ」

「エリちゃん、部屋で待ってますよね?」

「そのはずです」

「では待たせちゃ悪いので、私はこれで」


 烏京すずめは鞄を持ち直し、再度俺にお辞儀をした。そのまま踵を返し、それから思い出したようにこちらを振り向く。


「申し訳ありませんが、私が来ていたということは、できればエリちゃんには内緒でお願いします」


 そう言って、彼女はツカツカと歩みを進め、暗闇の中に消えていく。

 何だったんだろう、一体。俺は頭の中に複数の疑問符を並べる。


「おかえりー!」

「ただいま」


 玄関を潜るなり、ミサキが出迎えた。俺は靴を脱ぎ、ミサキとハグをすると二人でリビングに向かう。

 未だに俺が帰ってくる時は、玄関で待ってくれる彼女には流石に愛おしさを感じる。だから、ミサキの方からでなく、大学とバイトでどれだけ疲れていても、俺から彼女を抱き締めることも増えた。ミサキの方がよほど仕事で疲れるだろうし、俺があまり情け無い姿を見せるわけにもいかないとも思う。


「今日の配信、ちょっとだけ聞けたよ」

「ほんとに? ありがとー! やっぱり流行りのゲーム実況だと人集まるね」


 ミサキは今、平日の昼間に配信枠を取って、最新ゲームの実況配信をしていた。反響もそれなりに良く、新規のファンも獲得してきているようで、俺も大学の講義の合間に観れそうな時は配信画面を開くようにしていた。

 なんなら、裏でのレベル上げ作業を俺も手伝ったりしている。


「今日のライブの動員には影響したりしたの?」

「どうかなー。アンケートにはゲーム実況からファンになったって書いてくれた人もいたけどね。継続的なお客さんになるかは微妙ー」

「そうなんだ」

「アバター持ちの配信者がライブで顔出しするなんてーとか、そもそもコンセプトからして否定するファンもいるしねー。色々大変」

「そっか。エリ、頑張ってるからもっと成果出て欲しいけど」

「ねー、ホントだよ」


 俺は先ほど、マンションの前で烏京すずめの発した言葉が、まだ頭の中にこだましていた。


 ──エリちゃんが、アイドルを辞めたいと言っていたのですが。


 本当にこいつがそんなことを言ったのか? 俺はそのことを尋ねようとして、踏みとどまる。下で俺が烏京すずめと会ったことを、ミサキに言うべきだとは思うが、彼女がミサキには内緒にしたいと言っていたことも気に掛かる。


「ユウくん、今日遅かったね。何かあった?」


 ぐるぐると思案していた俺に、ミサキがそんなことを尋ねる。


「受験生の質問に答えてたら就業時間ギリギリになってさ。残ってんのが俺だけくらいになったから、鍵閉めまでしてた」


 これは嘘じゃない。ただ、帰りの電車にはいつも通り普通に乗れたし、少しだけ帰りが遅くなったのはマンション前で烏京すずめと話していたからだ。


「そっか。いつも言ってるけど、あまり遅くなるようなら連絡してね? 待つの寂しい」

「ああ、わかった」


 俺が頷くと、ミサキは俺の腕を両腕で掴んで俺の肩に頭を寄せた。俺はそんなミサキの頭を撫でる。


「ユウくんって塾のバイトはいつまでやるの?」

「来年は流石に就活集中しないとだしな」


 俺はこの間、イベントの進捗の確認に俺に電話してきた時の野々村先輩の声を思い出した。明らかに疲弊していて、就活の大変さを感じたものだが、あの人の場合、まだ地下アイドルのライブには週に一回は必ず行くようにしているらしく、感服する。


「今の受け持ちまではしっかり見たいし」

「三月までは、ってこと?」

「そうだな」


 俺は腕に掴まるミサキの頭を見下ろす。

 ──聞くなら今か?

 烏京すずめのことはひとまず話さず、ミサキが今後アイドルの仕事についてどう考えているのか。今の流れであれば不自然ではない。

 俺は乾いた口の中に残る唾を飲み込む。必要以上に心拍数が上がっていた。俺の腕を掴むミサキに、気取られたりしていないだろうか?


「ミ……、エリはこれから仕事どうしていきたい、とかあるの?」

「んー、あたし?」


 ミサキは、ふぅと声を出しながら、鼻息を吐いた。


「そうだねえ。最近、アイドル活動辞めようかなとか思ってて」


 ──来た。

 俺は平常心を心掛ける。だが、今の言い方だと、辞めるのを決めていると言うよりは、そういう選択肢が彼女の中に浮かんでいるだけ、ということか。とは言え今日まで、俺はそんな話をミサキから聞いたことはなかったし、烏京すずめもそんな風に言ったミサキの言葉に衝撃を受けたのかもしれない。


「それは、なんで?」

「だって、その方がユウくんと一緒にいる時間が増えるでしょ?」


 ミサキは俺を見上げて、にこりと笑う。


「アイドルの仕事はどうしても拘束時間長くなるし」


 ミサキは俺の腕に更に深く自身の腕を絡め、その力をギュッと強めた。


「配信は続けたいかな。配信だけなら今みたいにユウくんと一緒の空間にいられるし。一緒にゲームもしてくれるし」


 俺と一緒にいたいから、アイドルを辞めたい。

 普段の彼女のことを見ていれば、そういう判断を口にするのは、確かにミサキらしいとは思う。

 けれど、それは本当に彼女らしい選択肢なのだろうか。


「こないだ言ったみたいに、ユウくんも在宅になればもっと一緒にいられるし」

「応援してくれてるファンが困るんじゃないか?」

「それはそうだけど……」


 俺の言葉を聞いて、ミサキは不満そうに口を歪めた。


「あたしは、ユウくんと一緒にいられる方が大事」

「……そっか」


 俺はそれ以上、仕事について彼女を追及しなかった。

 アイドルを辞める選択肢は、あくまで考えの一つに浮かんでいるだけ。それだけだ。それにアイドルの引退なんて、珍しいことじゃない。そうだ。転職をしようと言っているのと一緒だ。

 俺は未だ就職もしていないから、ニュースで聞くばかりだけれど、ライフバランスのことを考えて他業種に移るのは、今の社会じゃ普通のことだ。


 俺も塾にしても見学店にしても、今のバイトは楽しいが、就職すれば辞めないといけない。彼女にとってのアイドルも、同じようなものと言えばそうだ。


 俺はそんな風に自分に言い聞かせて、その日もミサキと一緒に布団に入った。


「ねえ、久しぶりに腕枕してもらっても良い?」

「良いよ」


 俺はミサキのいる方に腕を伸ばす。


「今日、ユウくん何か悩んでた?」


 腕に頭を乗せたミサキが俺に問いかける。

 気取られないようにと思ってはいたのだが。相変わらず、俺はミサキに隠し事をするのが下手なままだ。


「先輩たちも就活忙しそうだし、俺も色々考えると頭の中まとまらなくてさ」

「そっか。いつかも言ったけど、自分を安売りしないようにね」

「うん」

「どこも人材不足の世の中って聞くけど、だからこそ自分で自分の価値をちゃんと考えなきゃ」


 ミサキもそのことを考えて、さっきのようなことを言ったのか。そんなことを聞きたかったが、俺は口をつぐむ。

 今日はなんか、色々あったな……。金元に美咲のことについて聞いて、バイト終わってミサキのとこに行こうと思ったら、烏京すずめと話して──。

 結局、俺は烏京すずめのこともミサキには話さず、ミサキの頭の重みを腕に感じながら眠りについた。




 

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