夜道にて、あの日の遭遇①

 それから俺はサークル棟にほとんど足を運ばず、大学から真っ直ぐ帰るようになった。帰る先は自分んちのアパートなこともあれば、ミサキの配信部屋やマンションなこともある。

 ミサキの部屋にも、俺の部屋にもそれぞれ二人分の私物が共有されるようになったし、週末には主にミサキの方から求められて、セックスをすることもしょっちゅうだった。俺も彼女の為に懸命に励んだし、ミサキもまた夜遅くまでアイドルの仕事があっても、仕事から帰って来たら必ず俺とハグをした。

 ミサキは自分から俺の胸を撫でたり、下腹部に手をやったりはするが、実際の挿入の際には彼女の方が受動的になることを望む節があったので、俺も彼女の求める行為になるように努力することを心掛けた。

 桔梗エリカとしてのライブがある時に、俺もライブに足を運ぶこともあった。ミサキは俺がいることに気付くと、こちらを一瞥してウインクをしたりして、正直なところ、それによる一種の背徳感に高揚したりもした。

 野々村先輩にミサキとのことを話すか迷ったが、彼女も選考が始まった企業へのエントリーや面接に行く機会が増えて、就活がより本格化していっている話を聞いていたので、ひとまず今のところは黙っておくことにした。そもそも熱狂的な地下アイドルオタクである野々村先輩に俺とミサキとの関係を話した場合の、彼女の情緒が俺には予想できない。

 夏が近づき、毎日のように雨が降り始めてジメジメとして来ると、俺も就活に向けて三年生向けの合同企業説明会に参加したりもした。その帰りにスーツでミサキのアパートに行った時は、普段と違う俺の格好に興奮して喜んでくれた。


「WebデザイナーとかシステムエンジニアとかのIT系はどうかなあ」


 スーツを脱いでYシャツ姿でくつろいでいた俺に、その日の配信が終わってパソコンを閉じたミサキが聞いた。


「何が?」

「ユウくんのお仕事」


 ミサキはゲーミングチェアから立ち上がり、俺のいるソファに座ると、俺の腕を掴んで言った。


「今、配信関係でお世話になっている編集とかもユウくんに任せたら一緒に仕事することもできるもんね。ライブの設営スタッフとかもありかなあ」

「どうかな。新卒でそううまくいくことも厳しいと思うけど」

「あたしの一存でなんとかできる部分も少しはあるし」


 流石にそこまでミサキに甘えるのは気が引ける。自分の将来のことだし、ミサキとは言えそう簡単に他人に預けたくはない。


「簡単に、じゃないよ。真剣に言ってるの」


 将来への不安を口にする俺に、ミサキは不満そうに俺を睨み、俺のワイシャツのボタンを一つずつ開けていった。ミサキはその下にあるインナーをたくしあげ、顕わになった俺の胸に頬を寄せる。


「あたしは出来るだけユウくんと一緒にいたいの」

「ミサキ……」

「ねえ、そろそろ名前で呼んで?」


 ミサキは俺の背に手を回して、俺の顔を見上げた。


「もう付き合って結構経つんだし」

「それを言うならミサキもじゃん」

「ユウくんはユウくんだし」


 ミサキが俺のことをユウくんと呼び始めたのは俺の名前の悠斗ハルトを最初間違えてユウトと呼んだのがきっかけだ。

 苗字も結城ゆうきだし、どっちでもユウくんだねと、その時のミサキは誤魔化して、それから俺の愛称はユウくん、になった。


「例の後輩ちゃんとも混乱しないでしょ」

「まあ」


 ミサキとの初セックスの翌日に、あいつとの電話に乱入されてから、俺は彼女の前で美咲の話をしたことはない。なのに、ミサキはそのことをずっと気にしていたのか。


「エリ」


 要求に応え、俺はミサキの名前を呼ぶ。

 ミサキは俺の背中に回す腕を後ろに回し、より強く俺を抱きしめた。


「えへへー、ユウくん!」

「そっちは変わんないのか」

「ハルトの方が良い?」

「正直、どっちでも良い」


 ミサキからの呼び名はずっとユウくんだし、彼女からそう呼ばれることも、俺は結構気に入っているのだ。


 ミサキとのそんな日々がそろそろ一ヶ月半くらいが過ぎようとするある日のこと、俺は以前足を運んだラーメン屋で昼食を摂ることにした。前日に夜遅くまでミサキと映画を観ていたものだから、朝お弁当を作る気力がなく、せっかくだからと以前は頼まなかった塩ラーメンでも食べようかと店を訪れた。俺は店のカウンター席に座り、店員にラーメンを頼んで、注文の品が来るのを待っていると、俺の隣に客が来た。


「大将、豚骨麺固め脂マシマシでお願い」


 その声に聞き覚えがあり、俺は驚いて隣の席に座った客の方を向く。

 俺の隣に座ったその男は、ラーメンを注文した後に店員から提供された水を口に含むと、俺の視線に気づいたのか、彼もちらりとこちらを見る。


「……ッ! ゲホッゴホッ!」


 男は盛大に咽せていた。男は自分の胸をさすりながら何度か咳き込み、溜め込んだ息を吐くと、気まずそうに俺の方を向いて小さく頭を下げた。


「ご無沙汰」

「どうも」

 男のボソリとした挨拶に、俺も同じくらいのトーンで返す。


「塩一丁!」


 そうこうしているうちに俺の頼んだ塩ラーメンが俺の目の前に運ばれて来た。

 俺は小さく「いただきます」と言って割り箸を割り、レンゲを片手に麺を啜った。流石に旨い。やっぱりこの店は当たりだな、もっと早く知ってれば良かった、などと思いながらも、俺は再度隣の男を見た。

 男は手持ち無沙汰にそわそわと体を揺らしている。俺が麺を飲み込み、水を一杯飲んだ頃合いで、彼が話しかけて来た。


「結城はよくこの店来るの?」


 急に話しかけられて、今度は俺の方が咽せそうになるのを何とか耐え、俺は隣の席に座る男の顔を見る。

 ツヤとハリのある肌。短くカットされた髪をブラウンに染めて、ワックスで軽く固めている。首元を飾るネックレスがサマになっているのが少々癇に触る。


「こないだ初めて来た。そっちは?」

「ボクは割と行きつけでね。結城がいると思ってなかったからビックリした」

「野々村先輩が、急に飲み会誘っても来なくなったってお前のこと心配してたぞ、金元」


 隣の席の男──金元は「うーん」と困ったように唸った。


「豚骨麺カタ脂多め!」


 金元の目の前にも、先程注文した豚骨ラーメンが運ばれて来る。金元も割り箸を手に取り、手を合わせてから一口目を啜った。


「サークルなあ。狙い目の子も何人かいるから惜しいんだけど……あっ」


 金元は失言したとでも言いたげに、急に口をつぐむ。


「あー、結城この後時間ある?」

「あるけど」

「これ食べたら話せない?」


 何でお前と、と言いたくなるのを飲み込んで、俺はスープを一口飲んだ。こちらも中々に絶品だ。


「いいよ。俺も今度のイベントのこととか話したいし?」

「あー、じゃあちょうどいいや」


 その後、俺と金元は一心不乱に自分の麺を啜った。金元の方が俺より後から食べ始めたが、二人とも大体同じくらいのタイミングで食べ終わった。

 会計を済まし、金元の提案でカラオケの一室を借りることにして、俺と金元は部屋に入る。ドリンクだけ注文をし、俺と金元はそれぞれ部屋にある別々のソファに座った。


「何でこんなとこまで連れて来て話したかったの?」


 金元の誘いを断らなかったのは俺だが、純粋に気になった。

 金元はおそらく、俺と美咲のことを避けていたから、サークルから距離を置いていたのだ。ラーメン屋で顔を合わせたとて、適当な挨拶だけをして店から出れば済んだだけの話である。


「あー、結城ってモテるために必要なものって何だと思う?」

「は?」


 いきなり何の話だ。俺の質問に対する答えになっていない。


「優しさ、とか?」


 俺の答えに対して、金元は「いいね」と返す。


「優しいだけじゃ意味はないけど、優しさは間違いなくボクが思う、モテの要素のひとつだ」

「要素のひとつってことは、他にもたくさんあるってこと?」

「いや、究極的にはひとつだけ。それは余裕だ」

「余裕?」


 金元は俺に頷くと、言葉を続けた。


「年収が高く、相手に奢るだけの金がある。これは金銭的余裕。他人に優しいか、度量を見せれられる。これは精神的余裕。相手をエスコートできるだけの下調べや知識があり、何をすれば相手が喜ぶのか分かる。これは経験的余裕」


 金元は自分の左手の親指と小指以外の三本指を立ててみせた。


「ボクが思う、他者にモテる為の三つの余裕だ」

「それが何」

「ボクはこの余裕を常に持っていたい」


 金元はそう言って、肩を竦める。


「けど、結城に対してはそうなってなかった。そんな自分自身を許せなかった。これがボクが、君と話そうとした理由」

「なるほど?」


 何か意図があるというよりは、自分の誇りの為だと言うなら、それはもっともな理由だろう。


「単刀直入に聞くんだけど、美咲ちゃんとなんかあった?」

「何でそう思うわけ?」

「いや、こないだ美咲ちゃんから久々に連絡が来て。2ヶ月前くらい」

「は?」


 2ヶ月前って言うと多分、俺が美咲に逆ギレして部室から飛び出した後、美咲が古宮さんや茉莉綾さんに連絡したのと同時期か。あいつ、金元にも連絡してたの? もう他に出てこないよな?


「美咲は何て?」

「あんまこういうの漏らすべきじゃないと思うけど、結城だしな……。男の人って、普通はセックスしたらその相手を大事に思うようになるものですかね? だって」


 何だよそれ。


「金元はなんて返したんだよ?」

「まー結構そういうもんだよねえ。男って女よりもセックスを神聖視してるっていうか、ヤった相手のこと特別だと思うもんだし。あ、俺は違うけどー。みたいな?」


 最後の自分は違うアピールが若干ムカつくな。


「結城と美咲ちゃん、サークルでも割とニコイチだったろ。お前が帰っちゃったらあいつも飲み会すぐ帰るし」

「その認識でよくお前、美咲とヤったな」


 続いて口にされる金元の言葉にもムカつきが重なり、俺は思わず、頭に浮かんだことをそのまま口にした。サークル棟でやらかしてからそういうことはやめようと思っていたのに、流石に金元を前にすると調子が違う。

 今の俺にそんな権利も資格もないと重々わかっていながら、こいつの言動にムカつきを覚えるたびに、俺は平手打ちでも金元に一発見まいたくなる。


「悪かったって。でもそれはタイミングとか雰囲気とか色々あるじゃん」


 なんか似たようなことを最近どこかで耳にしたな、と思ったが、俺が美咲に言ったのとほとんど同じ言葉なのに気付いて、俺は頭を抱えた。


「一応聞くけど、君らもう付き合ってる?」

「付き合ってない」

「じゃあ良かった」


 何がだよ、と聞きたいが今の俺にこいつを責めるような資格はゼロだ。


「でもあれは美咲ちゃんの方からさ」

「は?」


 美咲は金元の方から誘って来たと言っていたはずだが。


「あのな。聞いてくれ」

「……聞くよ」


 余裕を持っていたい、と語る金元だが、冷静に彼のことをよく見ていると、ラーメン屋にいる時からずっとソワソワとしている。こいつはこいつで負目のような物を抱えて俺と対峙している様子が伺える。

 俺は今、美咲とは何でもないし、他に恋人ができているのだが、聞かれてもいないのにそのことを教える義理はない。


「美咲ちゃん、珍しく結城のいない飲み会の席にいたもんだからさ。二人きりになる機会があって、話しかけたわけ。なんだったかなあ、多分美咲ちゃんが書いた作品の感想とかそんなの」

「適当だな」

「その後何の流れかは忘れたけど、男って自分が気持ちよくしてほしいもんだからさあ、みたいな話になって。まあ、酒の席だし」

「それで?」


 基本的にこいつは前置きが長い。それで他人を煙に巻いているタイプの男ではあるのだが、その癖が染み付いてしまっているように思う。

 ……俺自身にもブーメランが返ってきそうな分析だ。


「美咲ちゃんがさ、金元さんなら男の人がどういうのを気持ちよく感じるかよくご存知ですよね、って言うのよ」

「あいつの言いそうなことではある」

「で、ボクはそりゃ当然って答えた。勿論、女性のことだってわかるよ、とも言ったな」


 いちいち補足はいらない。


「そしたら美咲ちゃんがね。よろしければ私に教えてくれませんか、って」

「美咲が?」


 見学店でのことや、AV鑑賞会の時のことを思い出す。美咲は、好奇心から色々と遠慮なく聞く方ではある。

 じゃあつまりどういうことだ? 美咲自身は金元を誘ったような言葉を言ったけれど、その自覚はなかったということか。金元なら、それを理解した上で強行するような胆力はあるだろうから、そこは追求の余地があるとしても。

 俺の胸からムカつきが薄れて、少しだけ冷静さを取り戻す。もう少しちゃんとこいつの話を聞こう。


「じゃあ、それで?」

「うん。それでボクは美咲ちゃんに言ったわけだ」


 金元は自分のドリンクを一杯だけぐいっと飲んだ。


「今夜、ボクのウチに来たら教えてあげるよ、って」


 前言撤回。

 やっぱりこいつ、何かムカつくわ。



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