いつもの場所、あの日の一別

 ミサキの手を握り歩きながら、また俺は高校時代ミサキに最後に会った、あの日のことを思い出していた。

 「あたし、逃げてきたの」と語る彼女に返す言葉を持たなかった俺だが、彼女が何から逃げてきたのかはしっかり聞いていた。

 ミサキはあの時、義父に軟禁されていたのだと言う。母親の再婚相手である義父に、ミサキは良い扱いを受けなかったらしい。義父の言うことを聞けないという理由で脛を痣ができるまで叩かれたり、門限を破ったからとすっ裸にされ玄関に放り出されたこともあったらしい。それ以外にどういったことをされたのかを聞き出せる程に、俺は器用ではなかった。ダメ元でも警察に通報するとかもっとできることはあったはずだけれど、当時の俺はただ彼女が時折語る家庭の暴力を聞いてやるくらいのことしか、しなかった。

 義父が彼女のことを軟禁したきっかけは、彼女の母親の蒸発だ。これは後にミサキの叔母から聞いたことだけれど、彼女の母親はミサキを置いて、他の男のもとへ行ったらしい。それでミサキまで失うと焦ったミサキの義父は、彼女を学校にも行かせず、色々な雑務を母親の代わりにミサキにやらせて家から出さなかったらしい。

 彼女はそこから抜け出して、俺のところに来た。明らかに倫理的に逸脱した行為をしていた義父のもとから逃げるのは当たり前だ。それで来たのが俺のところだったこと、彼女が俺と別れた後に家に戻ったことがいけなかったのだ。彼女は自宅で死んだ義父を直接見る羽目になったし、そんなこと思う必要はないのに、当時の彼女は彼の死は、傍にいれなかった自分の責任だと自責するようになっていた。だからそんな彼女を、義父の死から遠ざける為に、ミサキを世話することになった彼女の叔母は彼女が元居た場所から遠くに行くことを決定し、俺も彼女と離れることになった――。


 その日は、配信用に借りている部屋でミサキが配信する間に俺はまたパソコンを借りて小説を書いた。その後、彼女が普段生活しているのだというマンションも訪れた。高級マンションではないが、建物内に入るにはICカードが必要で、玄関も電子ロックでしっかりと施錠されるタイプだった。バイトなしでも食べていける、というのは本当に伊達じゃないようだ。


 ミサキの家の風呂を借りて汗を流した。風呂もアパートより断然広く、何故だかちょっとした緊張感を覚えたりもした。

 風呂から出ると、ミサキがワインとチーズを用意して待っていたのでそれを楽しみながら、今日のバイトの話なんかを聞かれた。


「今日はどんなお仕事だったの?」

「今度多分写真撮ることになる新人の見学と、スタッフの手伝い」

「新人さんの面倒?」

「いや、それは別。今日の俺はあくまで研修の様子を見てるだけ。それでキャストの特徴掴んで、どんな写真撮るか決めたりする」


 ワイン飲みながら見学店の話ってのもなんかミスマッチだな。飲みながら、以前茉莉綾さんと訪れた酒屋を思い出した。あそこにミサキと行くのも良いな、などと考えているとミサキが自身のグラスに注がれたワインをクイっと傾けて飲み「ふぅ」と一息ついた。


「返信ずっとなかった」

「ごめん、マナーモードにして見てなかった」

「うん。ちゃんとお仕事に集中してるってことだもんね」


 ミサキはカットチーズをパクリと頬張り、すぐ噛んで飲み込んだ。それからグラスに残っていたワインを飲み干したので、俺はミサキの空いたグラスにワインを注ぐ。


「ただ、無視されるのは寂しいのです」

「ごめんて。気をつけるよ」

「仕事なら仕方ないとは思うけど、あたしはユウくんが他の女の子とあんまり楽しくはしてほしくない。普通に嫉妬、する」

「うん、わかった」


 そんな話もして、酒を飲み終わる。俺とミサキは就寝準備をして、ベッドに入った。寝室も配信部屋とは違い、無駄なモノはなくしっかり綺麗にしていた。

 ミサキもなんだかんだで疲れていたらしく、布団に入って俺の腕に抱きついてすぐに寝息を立てて眠ってしまった。俺もミサキに倣って寝ようと目をつぶった後、トイレに行きたくなり布団から抜け出して排尿した。

 布団に戻る前にスマホを開いて、美咲へメッセージを送った。


『明日、部室くる?』


 返事は朝確認しようと思っていたが、美咲の方も起きていたようで、すぐに返信が来た。


『行きます』


 それだけの簡素な返信だった。


『明日、俺行くから』


 俺もそれだけ送り、スマホを閉じるとベッドに戻り、横になった。寝付きが悪く、なかなか寝れなかったが、今度書く小説の内容を妄想しているうちに、夢の中に入った。


 朝起きると、ミサキが一足先に起床してトーストとコーヒーを用意していた。

 ミサキに言った通り、今日の大学の準備はしていたので、このまま大学に向かって問題ない。ただ電車の時間を調べると、いつもよりは早めに出ないと間に合わなさそうで、少しだけ急いで、しかしちゃんと味わって朝食を食し、ミサキに行ってきますを行ってハグをして、大学に向かった。


 その日はほとんど上の空で講義を受け、気付けばその日の講義を全て終えていた。ノートはちゃんと取ったつもりでいるが、講義の記憶がほとんどない。後でちゃんと復習しておかないとな、などと考えながら、俺はサークル棟に足を運ぶ。


「美咲、いる?」


 部室の扉を開けて、俺はおそるおそる声を出す。


「先輩、お疲れ様です」


 そしていつもの席で、いつものように、美咲は俺を出迎えた。


「うん、お疲れ」


 俺は美咲にそう返して、俺もまたいつもの席に座る。パソコンは開かなかった。


「先輩、この間はすみません」


 暫しの静寂の後、先に口を開いたのは美咲の方だった。


「私、無遠慮でしたね」

「いや、俺が勝手に逆ギレしただけだから。ごめん」

「私から先輩のところに行こうかとも思ったんですが、ご迷惑かと思い……」

「気遣ってくれたのか。ありがとう」


 俺は美咲の顔を見る。普段よりも沈んだ美咲の表情は、まだサークルに馴染む前の彼女のことを思い出させた。あの頃の美咲は、無遠慮でこそなかったが無愛想で、口数の少ない後輩だった。

 それが少し変わったのは、俺がWebに投稿しているハンドルネームを、美咲が知ってからだ。

 その名前知ってます、と美咲は俺におずおずとした様子で言ってくれた。大学に入る前から美咲は俺の小説を読んでいたらしく、美咲の教えてくれた彼女のハンドルネームにも覚えがあった。

 それから徐々に、俺と美咲は色々なことを話すようになって、気付けば二人で部室を占領して、小説を書いたりサークルの作業を進めたりしながら、好きな本の話やその日ネットで話題になった創作論の話で盛り上がってりして、美咲と部室で過ごす日々が、当たり前になった。


「美咲、あのさ」

「はい」


 俺は一度深呼吸をする。昨日の帰り道、ミサキに好きだと言ったことを思い出す。


「サークルのイベントとかもあるから、これからも部室には来るんだけどさ」

「はい、そうですね」

「でも今までみたいには、来れないと思う」


 俺の大学の後もバイトの後も、ミサキが待っている。今の俺は、出来るだけあいつの側にいたい。ミサキは多分、俺がここに来ることもあまり良い顔をしない。


「しょうがないですね」


 美咲は俺の顔をちらりと見て、表情を変えずに言う。茶化したり、揶揄うような言葉は何も言わない。


「エリカさんでしたっけ。当然、彼女のことを優先してあげてください」

「ごめん」

「何を謝ることがあるんですか」


 美咲の表情も、声のトーンも何も変わらない。ただ、俺の言葉に淡々と返答してくれている。


「いや、俺ホントに勝手だよな」

「今更何を」


 美咲の表情のかげりが、少しだけ緩んだように見えた。

 俺の脳裏に、あの日のことがよぎる。明日も当然、当たり前のように会えると思ってミサキと別れたあの日のこと。


「お前、サークルにはこれからも来るよな?」

「来ますとも」

「急にいなくなったりしないよな?」


 言葉にして、俺は何を言っているのかと悔いた。なんだその構ってちゃんみたいな台詞は。


「いますよ。先輩のWeb小説だって、読ませてもらうし、コメントもつけます。レビューも書きます」

「それは、ありがとう」

「先輩、何かあったんですか?」


 何かあったかと言えばそうだし、何もないと言えばない。今とは全然違うのに、ミサキと会えなくなった日のことを思い出してセンチメンタルになっただけだ。


 美咲はそんな俺のことをじっと見て、躊躇いがちに口を開いた。


「これはもしもの話なのですが」


 美咲はそこまで言って下を見た後、俺の顔を改めて伺った。


「どうしたよ」

「また怒らせちゃうと思って」

「もしもの話だろ、怒んないよ」


 繰り返すようだが、部室を飛び出したことについては完全に俺の逆ギレだし、美咲が悪いわけじゃない。


「私が先輩にセックスを迫って、エリカさんに絶対バレないのであれば、先輩はどうしますか」

「……は?」


 何言ってんの、こいつは。

 思ってもみなかった問いかけに、俺の心拍数が少し上昇する。

 美咲の問いに、俺は昨夜の茉莉綾さんの言葉を思い出していた。


 ──先輩さんがさっきの質問にちゃんと答えられなかったら、じゃあ私とヤってよって言おうとしてた。


 筋としては似たような話だ。

 ただ、言ってることは全く違う。相手が茉莉綾さんではないというのも違う。他ならぬ美咲のことだからだ。

 俺は美咲に対して惹かれる想いを、ミサキを優先すると決めた今も、否定できない。


「質問がおかしい」


 だから俺はその問いには、正面からは答えられない。


「まず絶対バレないってのが無理」

「そりゃそうです」

「バレなきゃ浮気じゃないって理論はまあ百歩譲って一理あるとして」


 これは最大限の譲歩だ。実際には、普通はその時点で不貞行為でしかない。


「あいつはそういうの、普通に嫌がる」

「なるほど」

「後、そもそもお前が俺にセックスを迫るって何?」


 俺が質問を返すと、美咲は考え込むようにしてちらっと天井を見上げた。


「先輩、私とセックスしてくれませんかとか?」

「それでする節操なしじゃねーの、俺は!」


 何度目だよ、この話。

 いや、今まではこいつの方からそういうことを聞いたことはなかったんだ。

 くそ、調子狂うな。


「でもでも、先輩はエリカさんとは致したわけで」

「それは、お前。俺はあいつのことずっと好きだったし、雰囲気とかタイミングとか、色々あるの」

「そうか。そうなんですね」

「どうしますか、って聞き方も曖昧過ぎるだろが」

「単純にするかどうかだけ聞きたくて」


 マジでさっきからこいつは何言ってんの。


「なんかお前が馬鹿なこと聞くから調子狂った」

「すみません。混乱させました」

「混乱はしてない」


 美咲に対して答えることはしないけれど、実際的な俺の答えは「絶対バレないなら断らない」だと思う。絶対にそんなこと、口が裂けても言わないが。


「逆に言うと、エリカさんが許すならヤれる?」

「アホなこと抜かすな」


 世間的には一人の恋人がいながら他の関係を持つことに対する目は厳しい。実際、ミサキがそうであるように、自分の好きな相手が他の相手とも同じような関係を結ぶことは、多くの人が嫌がるし、許さない。だからNTRってジャンルも成り立つわけだろ、と美咲が処女を捨てたと俺にふざけた報告をした日のことを思い出す。

 ──というか、俺だって嫌だ。俺が美咲に対してずっと抱えていた気持ちはそういうことだし。美咲が風俗で働くのは嫌だという話を以前したことも思い出す。

 とは言え俺も当人同士の了解があるなら、恋人を複数持つこと自体を完全には否定しない。

 ただ現実では、そうなるのは大変だから問題なんだろが。

 俺も嫌で、ミサキも嫌がることに対して、わざわざ突っ込んでいくことは、しない。


「でも、そうですよね。先輩のことを普通に好きで、セックスもする相手だったらそっちの方が良いですよね」


 自分から振った話題なのにそんなことを言って、美咲はまた沈んだ表情で顔を伏せてしまう。その寂しそうな表情は、ミサキが俺に対して不機嫌そうな顔を見せる時のものと似ていると思った。なんなんだよ。

 ──俺にはやはり、こいつのことがよくわからない。


「じゃあ、俺もう行くから」

「すみません、変なこと聞いて」

「いや……」


 美咲がふざけたことを聞いてから、部屋の空気が明らかに変わった。俺がミサキと再会する前の、部室の雰囲気に。

 俺も出来ることなら、美咲と今みたいにこういう馬鹿みたいな話をするのを楽しみたい。


「じゃあ、さよなら」

「さようなら、先輩」


 けれど、ミサキがそれを嫌がるなら、俺は無理にそうしない。それだけの話だ。

 俺はこれ以上後ろ髪を引かれる思いが強くなる前に、美咲に別れの挨拶をして、部室から出た。


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