バイトの帰り、あの日の出迎え
その日も、俺は結局またミサキの家に泊まった。
下着やTシャツの替えをコンビニまで行って買い、ミサキの家の風呂を借りて汗を流した。風呂から出ると、ミサキが鍋を作って待ってくれていた。ちょうど買い出しに行ったばかりで、肉も野菜も揃っていたらしい。俺とミサキは鍋をつつきながら、テレビを見て過ごした。
「帰ってくるの早かったね?」
「思ったより作業が早く終わったから」
俺はミサキの問いに対して、そんな風に適当に答えた。
「それにミサキに会いたかったし」
「えへへー、嬉しい」
ミサキと適当に話をしてテレビを見ながら、ぼけっと明日のことを考えた。明日は塾のバイトがある。終わるのが9時過ぎになるが、自室に戻って講義に必要な教科書やノートを取りに行く時間はあるだろう。その後で、ミサキのところに来れば良い。
「明日も来るよ」
と俺が言うと、「ほんと? 嬉しい!」とミサキは俺の首に抱き着いた。
その日、夜の配信の予定はなかったようで午後11時頃には一緒に布団に入った。ミサキが腕枕をしてほしいと言うので、俺は右腕を伸ばし、彼女がそれを枕にしてくっついて眠った。ミサキの吐息を近くで聞くと、相変わらず俺の心臓はドキドキとうるさくて、俺は自分の小心を嗤った。
朝起きると腕から頭をずり落ろしていたミサキが横にいて、俺はそんなミサキを抱き締めた。
高校生の頃、間違いなく俺はミサキとこうして過ごしたかった。俺はミサキの助けになりたかったし、できることなら恋仲になりたかった。
それが今、こうして叶っているのだ。そのことは、幸せなことに違いない。ただ、部室に置いてきた美咲の顔が、ミサキと触れ合う度にちらちらと頭をよぎった。
朝目覚めて、俺はミサキにコーヒーメイカーの使い方を聞いてコーヒーを淹れ、二人分のトーストを作った。いつも自分が食べているような簡素な朝食だったが、ミサキは美味しいと言って喜んだ。
「俺もう出るけどミサキは?」
俺が聞くと、ミサキはスマホでスケジュールを確認する。
「朝は特になんもなし。お昼から次のイベントの衣装について、デザイナーさんと打ち合わせがあるかな」
「そういうのもやってるんだ?」
「まあね。他のメンバーは兼業で夜しか空いてなかったりするから、その分あたしが動いたりしてるんだよね」
「なるほど」
今はバイトせずにやっていけている、という話をミサキと再会した日に彼女から聞いていたが、アットシグマのメンバー三人全員が全員そうというわけでもないのか。
「こないだユウくんが、マネージャーさんとかに手伝い頼めないの、とか言ってたじゃん?」
「聞いたな」
「マネージャーさんは雇ってるけど、やっぱり楽曲のこととか衣装のこととかはメンバーと話し合った上でセルフマネジメントした方が良い部分もあってさ」
「へえ」
思ったよりもだいぶしっかりしているんだな、と俺は感心した。
「ミサキがリーダーなんだっけ?」
「一応誰がリーダーとかは決めてない。あくまで適材適所だと思ってるよ」
「すごいじゃん」
「でしょー? 褒めて」
「偉い」
「やったー。ユウくんに褒められた」
ミサキとそんな話もしながら。
昨夜のうちに洗濯をして乾いていた服を着て、大学に向かう準備をした。持ち物は昨日鞄に入れた分で特に問題なかったので、アパートの自室に戻る必要もない。
弁当を作る時間がないが、それは駅前のコンビニにでも寄って済まそう。
「行ってらっしゃい」
玄関で靴を脱いでミサキの方を見ると、ミサキは両手を広げる。その隙間に腕を入れて彼女とハグをする。
「行ってきます」
もう何度目かのやり取り。俺が家を出る時はこれまでだいぶ長く一人だったのもあり、このやり取りも悪くないと感じた。
その日小テストのある講義があったことを忘れていて少しだけ肝を冷やしたが、テスト範囲を勉強するための教材はしっかり持っていたので何とかテスト前にざっと内容を確認し、ことなきを得た。
他の講義も特に大きな問題もなく進み、その日の講義を無事終えた。
それから俺はサークル棟には寄らず、すぐに塾に向かった。いつもより早めの時間に出勤し、いつもよりゆったりと授業準備をした。
古宮さんも出勤してきて、少しだけドキリとしたが、そこでは仕事の話以外、特にあまり会話はせずに普段通りの業務をする。
「お疲れ様ー」
そうして授業を終え、自分の分の報告書を書き上げ業務を終えて講師室に置いてある自分の荷物を取りにいくと、古宮さんが話しかけて来た。片手には既に鞄を持っていて、彼女も今日の業務を終えたのだと分かる。
「お疲れ様です」
「いやー、大変だったねユウくん」
──おいこら。
「美咲から聞いたんですか?」
「聞いた」
「ど、どこまで?」
「昨日電話して多分大体は? 童貞卒業おめー」
「ど、どうも……」
マジかよ。美咲の奴、ホイホイと……。いや、古宮さん相手だからホイホイってのとも違うんだろうが。
何これめちゃくちゃ気まずい。
「あーあ、君の童貞はわたしがいただきたかったのだが」
「そういう話ここですんのやめましょうよ」
一応、古宮さんはまだ職場では清廉潔白なキャラで通っていたはずだ。
「良いのよ、佐々木先生ともヤったし」
「マジかよ」
以前、古宮さんが同僚の佐々木先生のことを少し狙っていることは聞いていたけれどいつの間に。
「付き合ってるんですか?」
「今んとこワンナイトかな。相性は良さげ。後ね、一つ言っておく」
古宮さんはわざとらしく人差し指を立て、眉を歪めた。
「セックスと恋愛は、別」
「……なるほど」
「肝に銘じて?」
今の俺には、少しだけ耳に痛い言葉のように感じた。
「それでユウくんは?」
「ユウくんやめて」
ただまあ、古宮さんの普段と変わらないこういうノリには少しホッとするのも事実だった。
「今日も……その子のとこ行きます」
「おお、マジか。ゴムはつけなね」
俺は頭を抱えた。
「それも美咲が?」
「まあ初体験でテンパってゴムなしはあるあるだから」
ほんとか?
俺は思わず小さく唸る。いつものようにデータを出してきていない以上、統計というより実体験の話なんだろうか。
「美咲ちゃん、ちょっと落ち込んでたよ」
「え」
「自分のデリカシーがなかったって」
──それはまあ、そうだ。俺に対して、あいつには基本的にデリカシーとやらはない。
「わたしはこういう奴だからさ?」
古宮さんは、珍しく小さめの溜息をついた。
「あんまとやかく言う資格とかないんだけども。あんま深く考え過ぎない方が良いよ」
「考え過ぎって……」
「ヤっちゃったから責任とらないと、とか? いや、大事だけどね、そういうの。気にし過ぎもよくない」
「古宮さんは……」
古宮さんはそうかもしれないけど、と言おうとして口を噤んだ。どうも、昨日美咲にムカついて部室を飛び出してから、下手なことを考え過ぎるようになっている。
「わたしは、何?」
「なんでもないです」
「そ? わたし、君のことも美咲ちゃんのことも好きだからさ。わたしとしてはあんましギクシャクはしてほしくないなーと思うわけ」
「そうですか」
勢いで美咲から距離を取ってしまったが、ミサキとの関係を続けるにしたって、俺もこのままで良いとは思っていない。
「ユウくんはその子のこと好きなの?」
「だからユウくんやめてくださいって」
俺は一度口を閉じ、首を捻って考える。
「好き、ですよ」
「そっか? じゃあ尚更しっかりしなきゃね」
「はい」
「この後はその子の家?」
「そのつもりです」
俺と古宮さんはそれぞれの荷物を持って、講師室を出た。他の講師や塾長にもお疲れ様の挨拶をして、外に出る。
「セックスのこととかで困ったら、わたしは全然相談とかには乗るからさ? ユウくんも──」
「ユウくん!」
塾から出てすぐ、古宮さんのからかいを込めた呼び方に重なるように、聞き覚えのある声が響いた。
俺は声のした方を見る。俺と古宮さんのいる方に向けて誰かが手を振っていた。
──ミサキだ。帽子を被り、サングラスをかけてはいるが、それがこの数日目に焼き付けた彼女であることは流石に分かる。
「え、約束してたなら言ってよ」
古宮さんが小声で俺に耳打ちした。
「してませんよ」
俺も古宮さんにつられて小声で返す。
ミサキは手を振りながらこちらに走ってきて、俺の腕にしがみついた。
「お疲れ様! もう終わり?」
「ああ、うん」
「そちらは?」
ミサキが俺の腕にしがみついたまま、俺の隣を歩いていた古宮さんを見る。横目でちらりと古宮さんの顔を見ると、少しだけ引き攣った笑顔をその顔に浮かべていた。
「どうもー、
「どうも!
「あー、お噂はかねがね!」
かねがねはおかしい。
俺が紹介する間もなく、お互いの自己紹介を終える二人。
古宮さんが俺に対して何か言いたそうな顔をしているが、どうにかこうにか言葉を呑み込んでいる様子だった。
「えっと、どうしてここに?」
「仕事終わって、帰る前にユウくん迎えに来れると思って」
「あー、そっか。なるほど」
ミサキは俺の腕に自分の腕を絡み直して、改めて古宮さんの方を見た。俺がミサキと古宮さんに挟まれる形になっており、さっきの数倍は気まずい。
「古宮さんはユウくんとはよく一緒に帰るんですか?」
「ええ。わたしの方が講師として後輩なので、よく授業のことを相談させてもらって」
本当はそんなこと、ほとんど相談されたことないが、急なミサキとのエンカウントに、古宮さんはうまく言葉を探しているようだった。実際のところ、どういう関係なのかと言われて正直なことをぶち撒けられたら困るとかそういう問題ではない。俺は塾の同僚の家に行ったことがあるという話はミサキにしてしまっているし、気遣いは助かる。
「何で来たの?」
「普通に電車」
「じゃあ帰りも?」
「うん」
ミサキにはメッセージで俺のバイト先の名前は言ってたと思うし、調べれば場所はわかったのだろうけど、急なことで驚いた。
そして古宮さんはというと、俺がミサキと話している間に俺の隣から距離を取り、俺とミサキの向かいの方に立っていた。
「じゃあ、わたしは少し買い物があるので。それでは結城先生、お疲れ様でした!」
「あ、お疲れ様です」
古宮さんは早足で駅前のスーパーのある方角へ向かった。時間も遅いし、当たり前だが多分本当に買い物があるわけではない。
「えっへへー、来ちゃった」
「あんまり夜ふらふら出歩かない方が」
もう俺たちからは古宮さんの姿が見えなくなったが、ミサキはまだ俺の腕に自分の腕を絡めている。
「それにこういうのもあんまり良くないんじゃ?」
「だから大丈夫だって。朝も言ったけど、アイドルって言っても昼間は普通に仕事したりバイトしたりするんだから」
そうは言うけれど、用心したことに越したことはないのは確かな気がする。桔梗エリカは少なくとも、配信とアイドル業で食べていけるくらいの知名度はあるのだろうし。
「とりあえず駅までは、ね?」
「……わかったよ」
俺は辺りを見回す。
確かにこの近くは人通りは少ないし、そこまで警戒し過ぎることもないだろう。実際のところ、その辺の危機管理は俺なんかよりミサキの方がよほどしっかりしているはずだ。
「さっきの人がコーヒーが美味しいって言う?」
「そう」
「綺麗な人だったね。モテそう」
「結構モテるみたいだし、あの人相手いるよ」
ワンナイトらしいが。
「そういや、ユウくんご飯は?」
「まだ」
塾がある日は大体、夕食はなくてその日最後の食事は遅めの時間になる。
「そうなんだ。ねえねえ、そしたらこの近くに個室ありの居酒屋あるからそこ行かない?」
「行きたいの?」
「行きたい」
「わかった」
「やった!」
ミサキは俺の肩に頭を寄せた。そこまで重くないミサキの体重の一部が俺に預けられる。
俺はよろめかないように気をつけながら、ミサキと腕を組み、ひとまずは駅までを一緒に歩いた。
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