いつもの部室、ある日の先輩

 美咲が俺の自宅に来た翌日、いつものように講義を終えて部室を訪れると珍しい人がいた。


「おう、君か」


 レディースのスーツに身を包み、綺麗に髪を束ねているその人が誰か、俺は一瞬分からなかったが、よくみれば文芸サークルの副部長である野々村先輩だった。いつも見る野々村先輩はヘアアイロンもかけないボサボサの髪に適当なジャージを着た姿で大学に来ていたので、これだけ身なりを整えている彼女のことは正直初めて見る。


「野々村先輩、珍しいですね」

「流石に四年ともなると忙しいからな。なかなか来れないではいたが、たまにはな」


 野々村先輩は懐から何かを取り出しと、口に咥えた。これまたいつもの先輩とは違い、禁煙用のアイコスだった。

 野々村先輩は今時の大学生には珍しく、それなりの量を吸う喫煙者だった為、俺はその変化にも驚いた。


「タバコ、やめたんですか?」

「まあね。就活にも不利だしな。就活に本腰を入れる為、自分には珍しく身嗜みもこうして整えているというわけだ」

「良いと思いますよ。スーツ似合ってますし」


 野々村先輩は元々線が細いし、そこに身を引き締めるスーツをこうしてパシッと身につけていると、かなりクールな印象になる。


「そうか? そう言ってもらえると少しは自信つくよ。ありがとう」


 野々村先輩はそう言ってはにかみ、ゆっくり味わうようにアイコスを吸った。


「この間の部誌の内容とかも君が結構書いてくれたんだろ? ありがとうな。今日は他のメンバーはいないか」

「僕はここの居心地が良いので来てるだけですからね。普段は閑散としてて、イベントの時と飲み会の前後くらいにわいわいするのは野々村先輩がいた時と同じです」

「そんなもんか。じゃあいつも君だけ?」

「後は美咲ですね」

「なるほどな。あいつは来るだろうな」


 野々村先輩は何かに納得するかのように頷いた。


「なんでそう思うんですか?」


 野々村先輩があまりにも当たり前みたいに言うのが不思議で、俺は尋ねた。彼女は何を今更と鼻で笑う。


「だって君らニコイチみたいなもんだろ」

「え? は? 違いますが」


 野々村先輩の謎の断言に、俺は変に動揺した声で答えた。


「いや、そうだろ。大体あの子は君の後ろついて回ってるし。君がいるってんならあの子がいるのも不思議じゃない」


 俺と美咲、そんな風に見られてたの!?


「君も美咲に対しては他の後輩に対して以上に厳しく指導するし、美咲もそれが満更じゃない。自分から言わせたら、もう付き合っちゃえよ、というやつだ。それとももう付き合ってるのか?」


「つ、つつ、付き合ってませんが!?」


 俺のことも美咲のことも知っている第三者からそう言われるのは初めてでそれはそれで心臓に悪い。俺の心臓は不意打ちを喰らってバクバクと暴れ回っている。


「そうか。まあ、男女だからといってそれが全てじゃないから、今のはスラングを言っただけの自分の所感だ。忘れてくれ。君らの関係を他人がとやかく言うこともない」


 野々村先輩はおかしそうに俺にそう言ってアイコスを咥え、それから少し間をあけて俺に尋ねた。


「ところで金元がどうしてるか知らないか?」

「……は?」


 聞きたくない名前が急に野々村先輩の口から出てきて、俺は反応が一拍以上に遅れる。あいつの名前がなんで出てくる?


 とは言え実際、金元も文芸サークルに所属していることになっているからおかしなことではない。基本的には飲み会の時にだけ顔を出すタイプで、他のサークルにも兼部してよく女性をつまみ食いしている、ともっぱらの噂だった。金元のそのの噂については俺も聞き及んでいたことだ。だが、俺の所感で言えば、彼自身そう悪い男ではない。遊ぶのが好きで自分に多少だらしないとこらのある一般的な大学生。俺の印象としてはそんな感じだ。


 だが、それと美咲とあいつがセックスしたこととは別問題だ。今俺があいつの顔を見たとして、その時には怒りと嫉妬の念くらいしか出力しない自信がある。だから、別に普段からやり取りをするような間柄でもなし、あいつの所在に関してなど知るはずもなかった


「いや、知りません」

「そうか。いや、自分の就活が本格化してくるから、もう皆で飲めるタイミングも最後かもと思ってなあ。またイベント前とかで皆集まれないかと。君や美咲とか、他でも顔合わせするようなメンバーは後回しで、まずは金元みたいな奴優先でな。またサークルの皆で飲みに行けないかとSNSで誘ったんだが、あいつには断られちまった」

「そうなんですか?」


 俺もあいつと顔を合わせたくはないから、それならそれで助かるが。


「あいつが飲みの誘いを断るなんて珍しい、というか初めてだなと思ってな。何か事情とか聞いたりしてないか? と、そう思っただけだ。次の飲み会は金元抜きかな。君は来るだろ?」

「はい、行きます」


 金元が来ないのならば俺もためらう理由は特にない。野々村先輩と最後になるかもしれない飲み会だというのなら尚更断る理由はない。

 野々村先輩はアイコスから口を離し、ゆっくりと息を吐いた。アイコスのミントかチョコかわからないが、甘ったるいフレーバーが俺の鼻に届いた。


「そうか、日程とか決まったらまた連絡しよう。君もそろそろ就活を始める時期だろう? 心しろよ」

「あんまりプレッシャーかけないでください」


 まだそこまで切羽詰まっているわけでもなく、モラトリアム期間を楽しめる時期だ。考えなくて良いことは考えないようにしたいのが本音である。


「今日はこの後どうするんだ?」

「美咲待ちのつもりでしたけど遅いですね」


 俺はスマホで美咲に連絡しようとして、少し前に彼女から「今日は行けなさそうです」のメッセージが入っていることがわかった。どうやら、見学店の方で急に店に呼ばれたらしく、忙ぎの用もないために行くことにしたのだという。


「急用ができて今日は来ないみたいです」

「そうか」

「先輩はこれから就活ですか?」

「まあな。その後、推しのライブがあるから応援しにいくつもりなんで忙しいな」

「……忙しそうですね」


 就活に本腰を入れるとは何だったのか。だがこればかりは仕方がないことかもしれない。

 野々村先輩は、かなり気合いの入ったアイドルオタクだ。それも複数のアイドルを推している。所謂、地下アイドルと呼ばれるものを野々村先輩は好んで応援している。

 数万字に及ぶアイドル考察記事を書いて、サークル誌に寄稿したことだってある。


 地下アイドルというのはテレビなんかのメディアにはあまり出演はせず、ライブハウスなどで比較的小規模な活動を中心に活躍するアイドルの総称だ。小規模な活動であるが故に、かなりニッチなところを攻めたアイドルも多く、メジャーなアイドルと比べてファンとの距離が近いというのが魅力の一つだとか。具体的にはファンとの接触のあるチェキ会だったり、場合によっては、アイドルとファンがほぼ同じ目線の交流会を開いたりもすると聞く。

 以前は白い目で見られたこともあったかもしれないが今や地下アイドルの存在は一般教養になり、かなりの市民権を得ることになったと言えるだろう、とは他ならぬ野々村先輩が言っていたことだったと記憶している。


「君もどうだい?」

「そうですね……」


 以前も他のサークルメンバーと一緒に、野々村先輩と地下アイドルのライブに行ったことがあったが、こうして見る普段の野々村先輩とはかなりテンションが違う様子が見られて楽しかったのを覚えている。


「行きたいところは山々ですが今日はやめておきます」


 ただ、今回は事前に約束をしていたわけでもないし、俺にも仕上げなくてはならないレポートや仕事は山ほどある。


「また誘ってください。できれば直前ではなく」

「悪い悪い。ダメ元だ。確かに急に誘うものでもないか」


 野々村先輩はニヤリと口元を歪ませた。


「それに美咲にも悪いし」

「い、いや!? それは全然良いんですけど、ね?」


 返答が気持ち悪くなっちゃうことは自覚しているのであまりからかわないで欲しい。


 野々村先輩はそんな俺の様子を見て今度は快活に笑う。この人はこの人で気持ちの良い人だ。


「悪い悪い。そうだな。君の言う通り他には誰も来なさそうだし、自分はもう自分のことを頑張ることとするかね」


 野々村先輩はそれまで口に咥えたり吸ったりを頻繁に繰り返していたアイコスを鞄の中にしまう。


「じゃあまた。他のサークルメンバーに対してもよろしく」

「野々村先輩もたまには顔出しでくださいよ」

「ああ、こちらこそ肝に銘じておこう」


 そう言って野々村先輩は椅子から立ち上がる。

 野々村先輩が部室を出るところで、「君も頑張れ」と一言ボソリと言われた。


 俺はその言葉から胸に迫るものを感じつつ、しばらくの間は一人部室で小説を書いた。

 野々村先輩は、俺が大学に入ってからずっとサークルで小説を書き続けていた人だが、そんな野々村先輩だってスーツを着て綺麗な身なりをし、禁煙までして自分の未来の為に色々としている。そんな風に、こうして就活という現実を見せられると、そればかりではいけないたのだということをまざまざ見せつけられるかのようだった。そんな中でもアイドルの推し活はやめないというのが野々村先輩らしいが。 


 今日のところは、ここでじっとしてても美咲も来ないというならここにいる意味もあまりないかもしれない。

 そう思い、俺は部室の鍵をしっかり閉めて、大学を出て自宅に帰った。

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