喫茶店より、ある日のデート②
喫茶店でそんな風に、注文した品を一通り堪能して、俺と茉莉綾さんは次の目的地に向かうことにした。支払いのために財布からお金を出そうとすると、茉莉綾さんが「今日はあくまで私のお礼ですから」と、俺の手の甲を握って無理矢理下におろした。
「いや、でも茉莉綾さんと歳そんな変わらんし。というか俺の方が上みたいだし」
確か、美咲と同い年だったはずだ。それは以前、高校で茉莉綾さんの先輩だったという古宮さんからも聞いている。
「お店来てくれたお礼、私を立ち直らせてくれたお礼ですから! もちろん、ありさちゃんにはありさちゃんにで個別にまたお礼します」
「そっか」
あまりここで食い下がっても仕方ないと思ったので、俺は喫茶店のレジ前に並んでいたコーヒーギフトセットだけ自分で買うことにした。それもできれば支払いますよと茉莉綾さんは言ったが、こっちは大丈夫と断った。
喫茶店から出て次の目的地へ向かう道中、茉莉綾さんは困ったように小さく鼻息をついた。
「本当に遠慮しなくて良いんですよ? 先輩さんのおかげで結構羽振り良いんです私。昨日も指名からのオプションをたくさんもらいまして。一日で五万いただきました」
「あー、ホントにそれは羽振り良いね」
そんなに儲かるのか。確かにそれは俺が今日の支払いを全部任せても問題ないくらいではあるのだろう。
「俺もバイトはしてるからさ。全部奢ってもらうわけにもいかないって。今日のところはだまって御相伴に預かるけど」
「今日のところは? それは今後もお店に来てくれるってことですかね」
ちょっとだけ機嫌を損ねてしまったらしい。美咲にされるみたいな詰められ方をされてしまった。
「そういや茉莉綾さんってどうしてあの店で働いてるの? 聞いて良い?」
「見学店で働いてる理由ですか? まあ稼げるからですね」
茉莉綾さんは迷うことなく即答した。身も蓋もなかった。
「大学生になったら、若さ、それも自分自身が資本になるバイトでも活動でも、そういうのなんでもしたかったんですよね。とは言ってもさっき言ったように、あまり人と触れ合うのも得意ではないので、接客メインの仕事は難しそうだし、他には動画配信でスパチャとかってのも考えてましたが、こちらは初期投資の面で問題がありそうなのでやめました」
「君、思ったよりかなりアクティブな性格だったのね」
もう、俺の脳内では最初に茉莉綾さん見た時の弱弱しい印象はほぼ完全に消えつつあった。
「だから感謝してるんです。あの時は、お店をやめようかとも考えていたので」
「なるほどね」
「それで古宮さんに紹介してもらった、あの店のオーナーに会いに行って、ここだったら働けそうだと踏んでキャストとして働くことにしたわけです」
なるほど。だから古宮さんも茉莉綾さんのことに気を揉んでいたわけか。自分の後輩というだけでなく、茉莉綾さんが今のバイトをしている責任は彼女にもあるわけだから。
「抵抗とかなかったの?」
「なくはなかったですが、やることは他の仕事とそう変わりませんよ。自分ができそうなことをして、それで売っていくだけです」
「まあそうか」
「先輩さんもあんまり気にしないタイプですよね?」
「そんなことないけど」
普通に人並みに気にするタイプだと思う。実際、美咲があの店やその系列店で働くというのはあまり気は乗らないし。
「それは先輩さんの親心みたいなものじゃないですか」
「親心かあ?」
茉莉綾さんはどうも、俺の美咲への感情を綺麗に受け取りすぎている節がある。俺のあいつへの気持ちはそんなもんじゃない。
「まあ、たとえばだけどさ。俺は今、塾とたまに家庭教師とかのバイトをしてるわけだけど、それを知ってる知り合いにさ、自分や自分の知り合いの子に勉強教えてくれとか言われたら、良い気はしないわけじゃん。見返りは? ってなる」
「そうですよ、先輩さん! それですよ、私が言いたいのは!」
茉莉綾さんは急に俺の腕を掴むと、ぶんぶんと振り回した。
「全くその通りです。私みたいのがああいう店で働いてるって聞くと、それに対してじゃあちょっとやってみせてよ、みたいなこと言う奴がいるわけですよ! お店はお店! 仕事でやってるんですから」
今度はさっきとは逆に彼女の何かツボを刺激してしまったらしい。茉莉綾さんは目を輝かせて俺を見つめて、今までで一番テンション高めに熱弁を奮った。色々と苦労したらしい。
「それは良いけど、着いたんじゃない?」
俺は足を止めて、到着地を指差した。今日のルートは電話であらかじめ決めていて、今来たのは酒店だった。
茉莉綾さんがここのお酒を是非選んでほしいとのことだった。
「ワイン中心?」
俺は店頭に並ぶワイン樽の置物や酒瓶を見て、彼女に尋ねる。彼女はようやく俺の腕をパッと離し、咳払いをしてから答えた。
「そうですね。ワイン好きなんです、私」
「一応確認だけどハタチこえてる?」
「当然です。じゃないとそもそも買えませんから」
美咲はまだギリギリ十九歳なので、茉莉綾さんも二十歳を過ぎてそう長くはないはずだ。
「それでワイン好きか。良いね」
「職場の先輩にワイン好きがいて、ここもその先輩に教えてもらったんですよね」
「俺、ワインってあんまわかんないな」
ワインは地域的な特色が強いタイプの酒だとは聞いたことがある。だから、どの地域のどの年代のワインが好きかは人それぞれだとか。
「逆に言うと、探せば必ずその人好みのものが見つかるとも言えます。私はコクのあるフルボディなものがすきですね」
「今日は茉莉綾さんチョイス?」
「いえ。このお店の良いところは、試飲してからワインを買うことができるところです。実際に飲み比べて、先輩さん好みのワインを探してもらえたら!」
酒店には、何種類かのワインを試飲するためのボトルが用意してあり、試飲用グラスのレンタル料金を支払うことで、好きに試飲ができるという仕組みらしい。
「先輩さんは好きなお酒ってありますか?」
「日本酒は結構好き。甘口のやつ」
「そしたらフルーティなこれとかどうですかね」
茉莉綾さんはお店の中にあるボトルの中から一本を選んで、試飲用グラスに注いだ。そして一口飲み「うん」と頷くと、そのグラスを俺に手渡した。
「飲んでみてください」
「では」
俺はグラスを口元に近づけた。甘い芳醇な香りが鼻先を触る。スーパーで市販しているワインなんかには感じる酸味の匂いが少し薄い。
俺はグラスを傾けて、ワインを飲んだ。甘いフルーティな口当たりが舌を流れたかと思うと、一息に飲んでしまった。ワインがあまり得意でないと思っていたのは、一口目を飲んだ時に舌に絡みつくような渋味を感じるせいもあったが、このワインにはそれもなかった。
「美味しい。美味しいよこれ」
「良かった!」
茉莉綾さんはワインを飲んだ俺の反応に嬉しそうに笑った。
「他にも気にいるものがあるかもしれませんし、幾つか試しましょう」
と、茉莉綾さんに言われるままに何種類かのワインを試飲した。こうして飲み比べると、同じワインでも舌触りや鼻の周りを漂う甘味や酸味の匂い、喉を通る時の絡みつき方などが一つ一つ違うのだとよくわかる。ソムリエというのはこうした違いの一つ一つを丁寧に読み込むのだな、と実感を得ることができたのは、かなり良い体験だった。
結局、最初に試飲したワインが俺は一番気に入った。茉莉綾さんはそのワインを購入し、俺に渡してくれた。
「気に入れば是非是非リピーターになってくだされば」
「茉莉綾さんはこの店のスタッフじゃないでしょ」
「あはは、そうでした」
そうしてワイン試飲のできる酒店で俺好みのワインを買ってもらった後は、二人でカラオケに行った。世代が近いこともあり、好きなJ-POPやアニソン、ジャンルを問わずに歌いたい曲を各々好きに歌った。
自分で酒好きを称するだけあって、歌を歌っている間も茉莉綾さんはカクテルやハイボールをどんどん頼んでいた。俺も彼女にならって、遠慮せずに酒を飲み、気付けば三時間歌い通した。
「先輩さん、明日は早いんですか?」
延長をするかどうかを確認するコールが部屋に届き、茉莉綾さんは俺に尋ねた。
「まあ普通に大学かな」
「私もそうですねー。名残惜しいですが、ぼちぼちお開きでしょうか」
茉莉綾さんは本当に名残惜しそうにそう言って、ふと俺の近くまで寄ってきた。
それから茉莉綾さんは俺の右膝に跨いで乗る。
一瞬のことにびっくりしたが、頭に酒も回っており、すぐに反応できない。
「さっきは、他の子はさておき私はお店の外でお客さんと会うことはないっていいましたけど、先輩さんだったら良いですからね」
「それは、ありがとう」
「お礼だって、まだ足りません」
茉莉綾さんがどういう意味で今そう言ったのか、突っ込んで聞いてみても良いかもしれないが、あくまで今日は茉莉綾さんのお誘いで、俺へのお礼として二人楽しく遊んだ、そういう日だ。
「茉莉綾さん、降りて」
俺はゆっくりと茉莉綾さんの肩を押して彼女を膝からおろして立ち上がる。それから茉莉綾さんの分まで荷物を持ち、お会計の伝票を手にした。
「ここも茉莉綾さん持ちってことでいいの?」
「そうですね。そうさせてください」
茉莉綾さんが酔いで赤く染まった頬をこちらに向け、両手を伸ばした。俺は彼女の手に伝票を渡して、部屋から出る。
扉を開けたまま、一緒に外に出るように促すと、茉莉綾さんも渋々といった風に部屋から出た。
ほろ酔い気分で駅前まで時折、茉莉綾さんと肩をぶつけながら歩く。
「今日はありがとうございます」
帰る方向が別だったので、駅でお別れすることに決まり、茉莉綾さんの方から挨拶してくれた。
「こちらこそ。色々楽しかったです。お酒のお店、また今度こようかな」
「良いですね。その時は私も誘ってください」
「はは、わかった。あ、そうだ。茉莉綾さん。はい、これ」
俺は茉莉綾さんと待ち合わせた喫茶店で買ったコーヒーギフトセットの入った紙袋を彼女に向けて掲げた。
茉莉綾さんは不思議そうに、首を傾げる。
「なんですか?」
「俺からの今日のお礼」
「んー? それおかしくないですか。今日がそもそも私のお礼であって」
「でも今日楽しんだのも事実だから、そのお礼」
俺は茉莉綾さんに近づいて、紙袋を手渡した。
友達、家族、職場の先輩後輩でもなんでも、楽しんだ時はそれを形にして良い。俺はそう思っている。できれば、彼女の店にまた行っても良いが、古宮さんの頼みも果たしたと思うし、見学店の取材という目的も達した。だから俺は次に実際に店に行くかどうか、約束はできない。だから、今日の俺のお礼はこういう小さな形で示すのが一番良いと踏んだ。
それにこれは俺の中にある彼女に対する気持ちの一区切りでもある。
茉莉綾さんは紙袋を受け取り、小さく深く息を吸い込んだ後、おかしそうに口に手をあてて笑った。
「わかりました。でももう先輩さんと私はお友達ですからね。いつでも飲みに誘ってくださいよ!」
「うん。ありがとう。じゃあまた」
「はい! また」
俺は彼女に手を振って、改札を通り自分の家の最寄りに向かう電車に乗り込んだ。
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