バイトの飲み会、ある日の帰り

「ちょっとくらいいいじゃん?」

「いやー、そうは言いましても」


 すぅっと古宮さんの手が俺の腿を撫でた。俺は驚いて立ちあがろうとするが、反対側の手で引っ張られ、俺は難なくそれを阻止される。


「恋人とかいるわけじゃないんでしょ」

「い、いません」

「わたしも。ならお互い、後ろめたいこともないよね」


 古宮さんはそう言うと、上着を脱いだ。そのまま下に着ていたシャツのボタンを外して、下着姿を顕にさせる。


「不安ならわたしがリードするから」

「いやいやいや」


 ──何故こんなことになっているのか?

 記憶を整理する。古宮さんは、俺のバイト先の塾で同じく講師をしている同僚だ。年齢は古宮さんの方がひとつ上。けれど、バイト経験は俺の方が先輩ということで、古宮さんには色々と質問をされつつ、良い感じの仕事仲間といった関係だ。

 今夜は塾長の発案で飲み会をすることになり、その帰り道に古宮さんがヘロヘロになってしまったのを、帰る方向が同じだということで俺が家に送ることになったのだ。

 タクシーで古宮さんの住むアパートの前まで彼女を送り、それから自分も帰路に着こうとしたが、古宮さんがタクシーから降りるなりその場で倒れてしまったため、流石にそのまま淑女を夜に一人置いていくのも見過ごせなかった俺が古宮さんに誘導されながら部屋の前まで。

 そのまま別れの挨拶をして後ろを振り向いたところを、両腕でがばりと首元を捕まれ、情けないことに押し倒されたのだった。


 俺、玄関で這いつくばる。古宮さん、その上に乗って俺に跨る。


 何の状況だろうこれは。


「知ってる? ある調査によると今の20代大学生の性交経験は60%くらいはあるらしいって」

「へえ? そうなんです?」

「据え膳食わぬはって言うでしょ? 今の世の中、奥手な童貞大学生の方がマイノリティってこと」

「ど、童貞かどうかは知らないでしょ?」

「違うの?」

「違いません!」


 古宮さんはニコリと微笑み、俺の両腕を掴む。そのまま顔を近づけて来た。おっぱいがデカい。顔よりも先に胸が俺の体を圧迫してくる。俺は思わず顔を背けたが、そこを狙われた。古宮さんは俺の耳元に口を近付けると、そのまま耳介を舐めた。


「ひゃん!?」


 あまりに咄嗟のことに頭を床に叩きつけた。耳元から神経を通じて身体中に広がってくる電気信号が体を震わせる。でも頭ぶつけたから痛い。


「可愛い声」


 古宮さんはクスリと笑う。俺は彼女の顔を直視できない。けれどそんな俺のことはお構いなく、古宮さんはまた耳介を舐める。そのまま耳の穴に何かが侵入して来た。ぞくりとした感覚が頭のてっぺんから爪先まで流れる。正直な話、このまま抵抗せずにいたいとも思いはじめる。


「こ、古宮さん」


 でもダメだ。俺にその気はない。いや、その気はある。あるんだけど……!


「俺……っ」


 俺が言葉を続ける前に、古宮さんは片手で俺の顎を掴む。


「…………ッ!?」


 何が起こったかわからなかった。古宮さんの目線がまっすぐに見える。唇に何かが触れる。舌先に何かが絡みつく。息ができない。呼吸の止まる苦しみと同時に、口の中を何かが蕩けるような感覚に襲われる。そこで初めて、古宮さんと俺の唇が重なり、口腔に舌を入れられていることに気付いた。


「ふふ、静かに。私の手、離さないで?」


 腿を触る古宮さんの手がさわさわと円を描くように脚の付け根に近づく。そのまま俺のズボンのチャックに手を掛けたところで──。


「お、俺好きな子いるので!」


 両手で古宮さんの肩をぐいと押す。体を捻り、古宮さんの脚の間挟まっていた自分の下半身を抜き出した。


「お、っと」


 古宮さんがその反動で腰から床に倒れる。


「あ、す、すみません!」


 俺は古宮さんの頭を抱えて、さっきの俺みたいに頭をぶつけないようにする。古宮さんがそんな俺の背中にまた腕を伸ばしたのを見て、ゆっくりと古宮さんの頭を床に置いて立ち上がった。


「えと、すみません! お邪魔します!」


 俺は玄関の扉を開けて、外に出る。心臓の鼓動がこれ以上なく早まっている。血が身体中を巡るのがわかる。このままじゃ俺は古宮さんと一線を超えてしまう……ッ!


「おや、早かったですね先輩。……早漏?」


 そんな俺の耳に、聞き覚えのある声が届いた。



「へ?」


 声のする玄関方面を俺は向き直る。そこには文芸サークルの後輩である、美咲が立っていた。


「は? お前なんでいるの?」

「いや、先輩の童貞卒業を祝おうかと」

「はあ!?」


 ガチャリ、と。俺が先程急いで閉じた玄関の扉が再び開いた。


「あ、美咲ちゃんごめんねー。逃しちゃった」

 そう、申し訳なさそうに笑って、ぺこぺこと頭を下げる古宮さんが、そこにはいた。

 シャツは脱いで、下着姿のままだった。


 ──つまり、こうだ。


 古宮さんと美咲は知り合い。どころか、古宮さんは美咲の中学時代の先輩で、かなり長い付き合いらしい。

 そんな可愛い後輩の頼みというのと、何か楽しそうという判断のもと、古宮さんは俺のバイト先に潜入。俺との仲を深め、二人きりになれそうなチャンスを逃さずに俺を自分の家まで誘き寄せて、そのまま──。


「なんで? なんでそんなことすんの?」

「先輩が経験豊富な古宮さんの手練手管で童貞卒業。性行為の良いところをしっかり体験しまして、その上で付き合ってもいない女性と流れでしてしまう罪悪感を味わったところに私参上。先輩を詰る計画でした」

「なんで?」

「リアリティです。リアリティですよ、先輩。確かに童貞の妄想力は目を見張るものがありますが、たった一度、たった一度で良いのです。実際の性的な体験によって得られるリアリティは、後々その妄想をむしろ手助けするパワーとなり得ます」

「俺はお前の言ってることなーんもわからん」


 俺と美咲は古宮さんの部屋のリビングで、ことの顛末についてを話し合っていた。


「ホントにごめんねー」


 台所で人数分のコーヒーを淹れて来た古宮さんが、俺達のところに戻ってきた。

 古宮さんは俺と美咲の座る座布団の前にあるテーブルに、既に中身の注いである二人分のコーヒーカップを置き、自分の分は片手でしっかりと持ってソファに座った。

 当たり前だが、服はもうちゃんと着ている。


「美咲ちゃんがすごい剣幕で協力を迫ってくるし、なんか面白そうだったから」

「こう、あれですからね。俺が言えば犯罪が立証されますからねこれ」

「……嫌だった?」

「い、や、じゃ、ない、です、けど」


 煮え切らない俺の態度に美咲がふっと鼻で笑った。

「むっつりスケベ」

「あン?」

「ヘタレ童貞。早漏ちんちん」

「や、やってねえし!?」

「あまりに早すぎて、私も計画のことを忘れて素で驚いちゃったじゃないですか。この包茎童貞パイセン」

「俺のちんちん知らねえだろ!?」

「え、見せないでくださいよ。訴えますよ」

「見せねえよ!?」


 マジでなんなんだよお前はよ。


「あっはは。君ら仲良いねー」

「まあ先輩は私にゾッコンですし」

「はあああ!?」

「こないだ言ってたじゃないですか。私のこと好きって」

「い、言ってはないですうう!?」


 我ながら何してんだ。小学生か俺は。


「まあまあ、この子の言う通り、無理にするもんじゃないからね。わたしも諦めるよ。そのコーヒーはとりあえずお詫び」

「それはまあ、いただきますが」


 俺は古宮さんの淹れてくれたコーヒーを口に運んだ。


「お、旨い」

「でしょー。割と自信あるんだー。セックスと同じくらいはー」

「セッ……!」


 俺は取り乱しそうなところを咳払いで誤魔化して、二口目を飲む。本当に美味しい。自分が家で飲むコーヒーよりも段違いの旨さだ。豆や淹れ方によって美味しさは違うとは聞くけれど、このレベルで美味しいと感じるコーヒーを他人の家で飲むのは初めてだった。


「今回は美咲ちゃんのプランもあったし、君もそういうの嫌いじゃなさそうとは聞いてたし? ちょーっと無理はしちゃったけどさ。気が変わったらいつでも言ってね。筆おろし、付き合うよ!」

「古宮さん、そういうキャラだったんですね」


 バイトの時は全然そんな素振りは見せてなかった。生徒にも好かれる、優しく低姿勢のお姉さんって感じだったが。


「古宮先輩、中学の時からイケイケでしたからね。クラスの男子の多くが餌食となっていました」

「もー、そういうこと話さないでよ美咲ちゃん」

「人間不信になるよ、俺」

「いいですね。負の感情は創作の大きなスパイスです」

「お前はもう黙って」


 俺と美咲は美味しいコーヒーをしっかり──おかわりを二杯もいただいてしまった──とご馳走になって、二人揃って古宮さんのアパートを後にした。


「全く。先輩も本当にヘタレですね。せっかくの美人の年上女子が迫って来てるんだから、身を任せたら良いのに」

「俺はそういうの嫌なの」

「じゃあどういうのが良いんです?」


 古宮さんの家からの帰り道、美咲はそう言って俺の顔を覗き込んだ。俺はその真っ直ぐな目線に耐えきれず、横を向いた。


「どういうもこういうもない」

「好きな子がいるのでー、でしたっけ?」

「……ッ! ほっとけ!」


 俺は横目で美咲の顔を見る。美咲はおかしそうにくつくつと笑っている。


「ま、ヘタレの先輩にはこの手のあれはちょっと厳しすぎるみたいですね。わかりました。今度はもっと手加減しますから」

「手加減とかそういうんじゃなくて、やめて?」

「嫌です」


 美咲はニヤリとした顔を俺に向ける。

 俺を揶揄うその笑顔は、いつにもまして楽しそうだった。

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