第10話ハーブティ
レックスは震え続けるアガサの背をなでながら、不思議な気持ちだった。
もちろん、足を滑らせて落下したのはショックだろう。怖くて当然だ。
だが、らしくない。
レックスの知っているアガサは、多少ずぼらではあるが、しっかりとした大人の女性だ。何かあったとしても、すぐに冷静さを取り戻すイメージがある。
むろん、レックスはアガサと暮らし始めてそれほど長くないのだから、すべてを知っているわけではない。
──顔が真っ青だ。
単純に死を意識して怖いというレベルではなさそうだ。
もっと魂に刻まれた、恐怖に違いない。
レックスはアガサの震えが止まるまで、背をなで続けていた。
アガサの震えが落ち着くと、レックスはそっとアガサの体を離した。
「落ち着いた?」
アガサはこくんと頷く。
「だったら、少し休憩しようか?」
レックスは言いながら持ってきたかばんから、水筒とコップ、それと布の包みをとりだした。そして水筒の中身をカップに注いで、アガサに渡そうとした。
「何?」
「そうか。アガサには見えないか。ごめん。俺、夜目が効くから気づかなかった。明かりをつけてもらえる?」
「……うん」
アガサが呪文を唱えると、辺りは昼間のように明るくなった。
「お茶を持ってきてくれたの?」
「ああ。アガサの好きなハーブティだ。あと、これ」
レックスは言いながら、布の包みを開く。素朴なクッキーが入っていた。
「ドロップクッキーを焼いたんだ」
本当は焼きたてを食べる予定だったが、突然の外出になったので、慌てて持ってきたのだと、レックスは説明した。
「形はいまいちだけど、味はおいしいと思う」
ドロップクッキーは、スプーンですくって、形をつくるため、型で抜いたクッキーのような均一さはない。
レックスは、アガサにクッキーを一枚渡した。
アガサはおずおずとそれを口に持っていく。
「……おいしい」
「うん」
レックスが頷くとアガサは微かに笑い、コップを口にする。さわやかな香りに思わず目を細めた。
「いい香り」
「そうだね」
呟くように話すアガサに、レックスは相槌をうつ。
ぽっかり空いた穴の底で、二人の咀嚼音だけが静かに響いた。
甘いクッキーとハーブティのおかげか、アガサの顔色がよくなっていく。
「美味しかったわ。そして、助けてくれてありがとう」
食べ終わったアガサは、レックスに頭を下げた。
「気にしなくていい。君にもらった恩はこれでもまだ返せてないから」
レックスは苦笑する。
アガサはレックスの命を救っただけでなく、レックスに生きるための理由を作ってくれているのだ。アガサ本人は気づいていないだろうけれど。
「私、魔法使いとしては半人前なの」
ぽつりとアガサが呟く。
「アガサ?」
レックスから見たら、アガサは立派な魔法使いだ。質の良い薬を作り、そして、魔法を扱う。瀕死のレックスの命を救ったことからも、医師としての力もある。魔法使いという種族について、レックスはあまり知らないが、アガサは優秀な人物に思える。
「魔法使いは、魔法使いの試験に合格すると、一人前になれるの」
アガサは説明を始めた。
魔法使い達は、十五歳から資格試験を受ける。その試験に合格するということは、いわゆる『成人』の条件なのらしい。
「最終試験は、空を飛んで、時間内に目的地に達することなの」
そこまで優秀な成績だったアガサは、その年で注目もされていた。アガサ自身、何の疑いも持っていなかったらしい。
「あの日、ほうきで空を飛んでいたら、大群の鳥の群れに遭遇したの。普通なら、近づく前に気づくはずなのに、まるで突然現れたかのように私は思えた」
通常なら、上空か下に避けるのだが、アガサはパニックに陥り、転落し、大怪我をした。生きていたのが奇跡だったほどの怪我だった。
「それ以来、空が飛べなくなったわ。高いところも苦手になってしまったの。魔法使いにとって、『空を飛ぶ』ことは、初歩の初歩。いくらほかのことが出来たとしても、一人前にはなれない。だから私は半人前のままなのよ」
アガサは苦笑する。
魔法使いの試験に合格しなければ、その名が必要な要職にはつけない。だから自分は、国を出たのだと、アガサは話す。
レックスからしてみれば、『飛べる』『飛べない』は大した問題ではないように思えるが、魔法使い達にとってはそうではないのだろう。アガサがどこか人を寄せ付けない雰囲気があるのも、国を捨てざるを得なかった心情のせいかもしれない。
「だとしたら俺も今は文字通り、半分しか人でいられないから、獣人としては半人前なのかもな。同じだね」
「……ありがとう」
レックスの言葉に、アガサは微笑んだ。
強ばっていた表情がようやく和らいだようだった。
思わず、レックスの胸がどきんと音を立てた。
改めて、アガサの顔立ちが美しいことを意識する。
「どうしたの?」
急に黙り込んだレックスを不思議そうにアガサは覗き込んだ。
「えっと、どうやって上に登ろうか」
レックスは慌てて上を見た。少々わざとらしかったが、アガサは不思議に思わなかったようだ。
実際、上に行けなければ帰れない。だが、跳躍で戻れる高さではなく、壁を上るにしても、厄介だ。
「大丈夫よ」
アガサは呪文をとなえた。すると、穴の上からスルスルと、植物の蔓がおりてくる。かなり太い蔓で、人間の重みに耐えられそうだ。
そんな蔓植物が上にはなかったように思うが、アガサの魔法なのだろう。
「これを使えば、上に出られるわ」
「……すごい」
「飛ぶ以外のことなら、たいていできるのよ」
アガサは口の端を上げる。
その顔に怯えの色はなく、すっかりいつものアガサに戻っていた。
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