第6話 塩漬け肉とゴロゴロ野菜のシチュー 上
鍋の中身は、シチューだった。鍋肌は、わずかだけれどぬくもりが残っている。
──そういえば、母さんもこうしていたわ。
アガサが故国マリナにいた頃の遠い過去。アガサの両親は十歳の時に亡くなっているから今ではおぼろげになりつつある記憶である。
母が生きていた頃、今日みたいな雪の降る日には、温かいシチューをよく作ってくれた。外は凍えるほど寒くても、体も心も温めてくれる幸せな思い出だ。
「どうして、鍋を布でくるんでいるの?」
幼いアガサは、食事の後、丁寧に鍋をくるんでいる母に尋ねる。
「こうするとね、さめにくくなるの」
母は、にっこりと微笑んだ。
「今日はお父さんが帰ってくるの、遅くなりそうだから」
外はしんしんと雪が降っている。
今日は父の帰りが遅くなるので、アガサは母と二人で食べた。どうやら、父は日付が変わるころに帰ってくるらしい。
「温める魔法は使わないの?」
魔法使いならば、アガサでさえ使える簡単な呪文で、一瞬で温めることが出来る。さめたところで、まったく問題はないようにアガサには思えた。
「そうね。でも、家に帰ってきて、冷え切った鍋を見ると、きっと寂しいと思うの」
温かいまではいかないまでも、冷たい鍋が出迎えるのは寂しいだろうと母は言う。
それに、少しでもぬくもりが残って入れば、魔力も少なくて済む。仕事で疲れて帰ってくる父への、母の愛情だったのだろうと、今のアガサにはわかるが当時はよくわからなかった。
「それにね、ゆっくりさめた煮込み料理は、とってもおいしいのよ」
「え? じゃあ、私も父さんと食べる!」
今でも十分おいしいけれど、もっとおいしくなるときいたら、幼いアガサは興味津々になった。
「大丈夫よ。明日の朝になったら、もっとおいしくなるから、アガサは安心して、もうおやすみなさい」
「えー!」
不満たらたらのアガサは、母親に無理やり寝かしつけられた。
絶対に、父親と食べようと思っていたアガサだったが、ベッドの上で待っていたせいか、アガサは父が帰る前に寝てしまった。
翌日に食べたシチューは、確かにおいしくなっていたけれど、父が食べた味はどんなだったか、アガサは何度も父に質問し、両親に呆れられたという思い出だ。
アガサがいつ食べるか、食べないのかわからない料理を、レックスがこうして用意してくれたことに、アガサの胸は温かくなった。
シチューには、大きめの野菜と塩漬け肉が入っていた。丁寧に作られたのだろう。滋味深い味がする。
「……おいしい」
もう何年もアガサは一人暮らしだ。他人が作ってくれたシチューを食べるなんて、いつぶりなのか、もう思い出せない。
ここ数日、ろくなものを食べていなかったこともあって、アガサはあっというまに鍋を平らげた。
「お礼を言わなきゃ」
もちろん、レックスは『恩返し』のつもりなのかもしれないけれど、これだけ家を綺麗にしてもらって、おいしい料理まで作ってもらったのだから、礼をしないといけない。
アガサは片付けが終わると、レックスが使っているはずの客間の扉をノックした。
「レックス?」
声をかけたが、返事はない。
まさか、こんな夜中に出ていくということはないだろうが、寝ているのだろうか。
アガサは、ちょっとためらったが、そっと扉を開いた。中は真っ暗で、明かりは灯っていない。
廊下から光がさしこむと床のラグの上に横たわっている銀の狼の姿があった。
「あ──」
怪我が治れば、狼の姿になることはないとなんとなく思っていたが、どうやらそれは間違っていたようだ。
「やっぱり、きれいだわ」
光に反射する銀の毛並みは、まるで、神の使いのようで、神々しい。
「寝ているの?」
小声で尋ねるが、返事はない。静かな呼吸音だけが暗がりの中で聞こえている。
「掃除や料理をしてくれて、ありがとう」
アガサは狼の体に毛布をかけた。
「よく見ると、ほんとうにふかふかね」
アガサはその毛にふれる。やわらかい毛で、温かくて気持ちがいい。
「狼さんが、あんなにおいしいものを作れるなんて、思っていなかったわ」
アガサは微笑み、狼の体を抱きしめた。そのぬくもりがぬいぐるみではなく生き物である証拠で、不思議な安心感をアガサは感じた。
「行くとこがないなら、完全に治るまで、私と暮らさない?」
狼は寝息を立てているだけで、応えない。
そのぬくもりと感触を楽しんでいるうちに、アガサはいつの間にか眠ってしまった。
朝になって、アガサが目を覚ますと、なぜか自分のベッドに寝ていた。
「レックス?」
アガサは跳ね起きて、レックスがいた客間にむかった。
客間には誰もおらず、がらんとしていた。人の気配はどこにもない。
「まさか──」
窓を開けると、外は晴れて、雪が溶け始めている。
──出て行ったのね。
アガサは大きく息を吐いた。
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