第5話 温かな鍋
作業場に置かれた大きな鍋に入った、緑色の液体がふつふつと沸騰している。それをぐるぐるとただかき混ぜるのだが、粘性の高い液体のため、なかなかの重労働だ。おそらく世間一般の魔法使が薬を作るイメージはこれが一番近いだろう。
かなり長い間混ぜていたアガサは、仕上げに輝く光の結晶である月の雫を投入する。
ひとまぜすると、液体が光を放ちはじめた。
「ふう」
アガサは一息ついて、火を落とした。発光状態は、液体が冷めるまで続く。
発光が終われば、育毛剤の完成だ。
「はぁ。これでやっと一息つけるわ」
アガサがこの時期にしか育毛剤を作らないのは、材料がこの時期にしか手に入らないというだけではない。とにかく手間暇がかかるというのもある。
ほぼ十日間、ずっと作業を続けなければならず、休む時間はわずかしかとれない。眠る時間はもちろん、食事の暇もないのだ。もはや時間の感覚も失っており、窓をしっかり閉めているので今が昼なのか夜なのかわからない。
「さてと、ひと眠りするかな」
発光状態は半日ほど続くので、それまですることはない。
アガサは、作業部屋に置いてある簡易ベッドに横たわった。疲れ切っていて、寝室に行くのもおっくうだ。
固い簡易ベッドは普段なら眠れないほど固いものだが、今ならどんな柔らかな寝床よりも魅惑的だった。ひょっとしたら、今なら床で寝ても眠れるだろう。
目を閉じかけたアガサは、コトコトという音が台所の方角からしていることに気づいた。
「あ……そうか」
仕事に夢中で忘れていたが、今は、客人がいる。
──まだ出て行ってなかったのだわ。そういえば、食事とかはどうしているのかしら?
好きにしろと言ったのだから、自力でなんとかしているのだろうが、さすがに他人を勝手にさせすぎのようにも思える。だが、今更だ。
──別に盗られて困るようなものもないしね。
アガサはそう結論付けて、そのまま眠りに落ちた。
アガサが目を覚ますと、大鍋の液体の発光現象は終わっていた。
そっと窓を開けてみると、外は暗く、しんしんと雪が降り続いている。
出来上がった薬剤を、丁寧に瓶につめ、それを保管用の箱に並べていると、アガサの腹が音をならした。
「んーさすがに、おなかが空いたな。でもまずは、お風呂に入らないと」
いくら冬だからといって、ずっと風呂に入っていない状態はまずい。
アガサは作業部屋を片付けると、廊下へ出た。アガサがパチンと指を鳴らすと、廊下の壁にかけられているランプに火が灯る。板張りの廊下が浮かび上がった。
──ん?
一瞬、違和感を覚えたが、いつもと同じ風景だ。
アガサは首を傾げたものの、何が違うのか思い至らず、風呂場へと向かった。
この家は水道があって、蛇口をひねれば水が出る。風呂は、薪を使う形式だ。もっともアガサなら、魔法で溜めた水をお湯にすることができる。
──ああ、お風呂に入ったのね。
風呂場のすぐそばにある、薪置き場の薪が減っているのに、アガサは気づいた。客人は自力で風呂をわかして入ったのだろう。
──たくましいのね。
アガサは感心しながら、水を張るため、風呂場に入った。
──あっ。
風呂場の壁がいつもより明るい。
──掃除、してくれたんだ。
ここのところ、薄汚れてきたのは気づいていたのだけれど、春になったら掃除しようと思っていたところだ。
決して耐えがたいほど汚かったわけではないが、こうして綺麗にしてもらえると、少し恥ずかしくなってくる。
よく見れば、脱衣場の横にある洗濯もの置き場も、整然としていた。どうやら洗濯もしてもらったらしい。
──マメな男ね。
恩を返したいと言っていたが、こういう形で返してもらえるとは、アガサは考えてもみなかった。
──ありがたいわ。
お湯を張り、湯舟につかると、体の疲れがほどけてくるようだ。
いつもより綺麗なせいか、より気持ちがいい。
髪や体を洗い、汚れを落とすと、随分とすっきりした。
清潔な布で水分をふきとると、服を着て、魔法で髪を乾かす。
「ふぅ。すっきりしたぁ」
アガサは大きく伸びをした。ここ数日、風呂に入ることもなかったから、生き返った心地がする。
再び廊下に出たアガサは、廊下もとてもきれいになっていることに気づいた。
──さっきの違和感は、このせいだったのね。
隅々まで床が綺麗になっているだけでなく、ランプのシェードひとつひとつのほこりも払われている。実に丁寧な仕事だ。
アガサは感動を覚えながら台所の扉を開く。
仕事の合間に軽く何かを食べるために散らかし放題だったそこは、信じられないほど美しく片付けられていた。水場は綺麗に磨き上げられ、食器は棚に整然と並べられている。
──あら?
拭きあげられたテーブルの上に、布にくるまれた塊が置かれている。
──何かしら。
布をほどくと、温かいぬくもりが残っている鍋が入っていた。
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