第7話塩漬け肉とゴロゴロ野菜のシチュー 下

 雪解けが始まり、風景は色を取り戻しつつある。まだ暖かいとは言い難いが、雪が融ける程度には気温が上がったのだろう。

 この家の敷地を出てしまえば、たとえ戻ってくるつもりであっても、戻れない。

 この森で魔法使いに会ったことは覚えていても、この家の場所、アガサの名前などは忘れてしまうのだ。つまり、二度と会うことはない。

──長くなると辛くなるから、きっとこれでよかったのよ。

 アガサは苦笑いを浮かべ、自分に言い聞かせる。

 レックスの命を救ったのは、ちょっとした気まぐれで、礼が欲しいわけでも、寂しさを紛らわすためでもなかった。だからそのことに恩を感じて、レックスが家事をしてくれるとは考えてもみなかった。だから、なんとなく、明日も同じ毎日が続くような気がしていたのだ。

──ありがとう。とても助かったわ。

 せめて起きているレックスにお礼を言いたかったが、それはもうかなわない。こうして、不意打ちのように出ていかれるのはどこかむなしいが、出ていくレックスを見送るのもつらかったかもしれない。結果としては同じことだ。どうせアガサは一人で生きて行かなければいけないのだから。

──さて。そろそろ薪をとりにいかないといけないわ。

 去った人のことを考えても仕方がない。アガサにはアガサの生活があるのだ。ここで一人で生きていくと決めた日から、覚悟しているのだから。

 薪のストックは、家の敷地内にある小屋にある。ここでうだうだしていても、アガサ以外がとってきてくれるものでもない。

 アガサは服を着替え、玄関の扉を開けた。

「寒っ」

 ひんやりとした外気に思わず震える。雪が融けてきたとはいえ、季節はまだ冬だ。それでも、木々の芽が膨らみ始めている。

「春がくるのね」

 アガサは呟き、小屋の方へ向かう。その時、自分以外の足音がすることに気づいた。

「え?」

 目をやると、門の方から、剣を携えた男があった。もう二度と戻ってくることがないはずの男の姿に、アガサは目をしばたたかせる。

「やあ、アガサ。ただいま」

「レックス?」

 アガサは驚きのあまりに、自分の声が震えていることに気づかない。

 ありえないことだ。

 魔法使いでなければ、ひとたびこの家を出たなら、本人の意思に関係なく絶対に戻ってこられるはずがない。それなのに、どうして、この男は帰ってきたのか、そして、アガサの名を覚えていたのだろう。

「荷物を取りに行っていたんだ」

 にっこりとレックスは微笑む。見れば、剣のほかに、かばんを携えていた。

「どうして、ここに?」

 アガサは問う。声はまだ震えたままだ。

「まだ恩を返していないし、それにアガサが一緒に暮らそうって言ったじゃないか」

 レックスは怪訝な顔を浮かべる。

「え?」

「抱き着いて、添い寝してくるし」

 驚くアガサに、レックスは茶化すようにたたみかける。どうやら、アガサが狼のレックスに抱き着いたまま寝てしまったことを言っているようだ。

「そ、そんなつもりじゃなくて」

 アガサは慌てて首を振る。

「私が聞きたいのは、よくこの家に戻ってこれたってことで」

 忘却の枷がこの男にはどうして効かないのか。普通ならば、道がわからなくなって、戻れないはずだ。

「俺は狼だから、鼻がいいんだ。道に迷うことはない」

 レックスは得意げだ。

「鼻がいい?」

 においは、忘却の枷の影響は受けないのだろうか? それに、どうしてアガサの名を覚えていたのだろう。

「ああ。自分に染み付いたにおいだ。間違えようがない」

 レックスは方側の口の端をあげ、にやりと笑う。

「……なっ」

 昨晩、アガサがレックスに抱きついていたことをほのめかされ、アガサは顔が熱くなるのを意識した。

 だが、レックスの言う通り、肌に染み付いたにおいを辿れば、いかに忘却の枷といえども、忘れることはできないのかもしれない。ただ、そこまで自分のにおいと言われると、臭いと言われているようで、アガサとしては複雑だ。

「中に入ってもいい?」

 レックスはアガサに問う。その表情は平気そうに見えて、すがっているようにもみえる。

 ひょっとすると、レックスにはもう帰る場所がないのかもしれない。

「では、あなたがここを覚えている間は、ここにいてもいいわ。ええと、それより、薪を取ってくるの、手伝って」

「ああ」

 レックスがほっとしたように微笑むのを気づかないふりをしながら、アガサは小屋へ向かう。

 柔らかい日差しが二人を包む──春はすぐそこまできていた。

 


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