6章

 堤井はその日を、思っていたより穏やかな気持ちで迎えた。三年の先輩たちの卒業式。堤井たち二年生の出席は強制ではないが、式が終わった後にはどうせ部で集まることになる。だったら式の方もせっかくだし見ておくか。そう思って講堂の後ろの方、在校生用の椅子に堤井は座っていた。

 高校の卒業式は、中学のそれよりもシンプルなものだった。ほとんどの卒業生はただ座っているだけ。その名称の通り、「卒業証書を授与するためだけの式」といった趣だ。来年の今頃にはこうやって堤井も卒業する。上手く想像できないが、一年なんてあっという間に過ぎてしまうものだ。三年になれば実感も湧くのだろうか。それとも、実感なんてないまま卒業していくのだろうか。

 各クラスの代表が順番に壇に上がって証書を受け取る。最後になる三年六組の代表は、堤井のよく知る人物だった。自分の名が呼ばれたわけでもないのに体に緊張が走る。

 新川一音。彼が演台に向かって歩くのを、堤井は固唾を飲んで見つめた。出席番号一番というのが似つかわしいような、そうでないような。名前なんて、特に苗字なんて大した意味はない。だというのに理由を探してしまうのは、彼が新川一音その人だからだ。堤井には、彼の何もかもが意味を持っているように見えた。重症もいいところである。

 彼の胸元には、他の卒業生たちと同じく白い花が飾られていた。彼は本当に卒業してしまうのだ。一音と堤井を辛うじて繋いでいた縁も、今日で完全に切れる。卒業という節目が、二人の離別を確かなものにする。今の彼との距離は、動画内の彼との距離よりも遥かに遠く感じられた。

 一音は綺麗にお辞儀をして、証書を手に壇から降りる。彼はこちらを見はしない。視線を揺らがせることなく、真っ直ぐに前を見据えている。もう声をかけることも叶わないけれど、最後にその姿を見れて良かった。巡り巡って浮かぶ気持ちはそれだけだった。死んで欲しいも生きて欲しいも、中心にあるのは彼が好きという事実なのだ。散々振り回された彼への感情に、堤井はそう折り合いを付けた。

 校長の式辞や来賓の祝辞が読まれ、式は進んでいく。在校生代表の生徒が、先輩への感謝を綴った送辞を述べた。「先輩は私たちに沢山のことを教えてくれました」。温度感の違いを無視すれば、堤井の想いも同じ言葉で締めくくれてしまうのが変だった。

 彼はあれでいて、普通の尊敬できる先輩でもあったのだ。確かに情緒をめちゃくちゃにされはした。だが一音に人生をめちゃくちゃにされたとは微塵も思わない。彼と出会わなければ、堤井は遅かれ早かれピアノを諦めていただろう。だから感謝している。出会ってくれて、ありがとう。そんな単純な想いを込めて、堤井は送辞と続く答辞に拍手を送った。


 あとは卒業の歌をうたって、式は終わり。感傷に浸り始めたその時、司会の言葉に堤井は耳を疑った。

「式歌を斉唱します。オルガン伴奏――三年六組、新川一音」

 突如投げ込まれた爆弾に頭が真っ白になる。ピアノでもなくオルガンの伴奏を、一音が。ここにきて何故、とぐるぐる考えている内に、彼は悠々とオルガンへ向かって歩みを進める。

 脳内は完全にパニックだった。本気で弾くつもりなのか、どういう流れでそんなことになったのか。堤井は今すぐ講堂から逃げ出したくなった。だって、どんな気持ちで聴けばいいのか分からない。大好きで、だけど殺したはずの新川一音のオルガン。それがこんな形で蘇るだなんて何の仕打ちなのだろう。彼は一体何を考えている?

 演奏台に続く短い階段を前に、一音は立ち止まった。そしてしなやかに腰を折り、靴を脱ぐ。鍵盤に汚れや傷を付けないためだろう。その足を覆うものが靴下だけになると、今まで響いていた足音は消えた。まるで重力を持たないかのように軽やかな足取り。一段上がるごとに現実味を失っていく彼の背中に、これは幻覚なのではないかと勘繰ってしまいそうになった。しかし幻覚にしても堤井の想像できる範疇を超えているし、何より趣味が悪い。

 階段を上りきった一音が振り向く。彼の瞳は一直線に、堤井を刺していた。その目線を受けて、この余興は紛れもなく堤井に向けたものなのだと知る。目が合った瞬間に彼の口角が上がる。よく観察しなければ認識できないほどの微小な変化だ。それを読み取れたのは、恐らくこの場で堤井だけだっただろう。自惚れかもしれないが、きっとそうだ。

 後ろ向きに長椅子へ腰を下ろし、鍵盤を踏まないように脚を振り上げて旋回する。流れるような所作が見蕩れるぐらいに華麗で美しい。

「卒業生、起立」

 教頭の指示で卒業生全員が立ち上がる。いよいよ演奏が始まってしまう。


 最初の音が響き渡り、堤井は目を見開いた。

 それはとても伴奏と呼べるものではなかった。戸惑っているのは堤井だけではない。これから伴奏に乗せて歌う卒業生たちも、歌の入りを見失っている。そんなんだから歌い出しはバラバラだった。楽譜通り、練習通りに弾いていればこんなことは起きない。一音は本番になって、アドリブをかましているのだ。

 斉唱は台無しである。しかし批判することはできなかった。

 なぜなら新川一音のオルガンはそれ以上に圧巻で、まともに斉唱しても敵わないぐらい、素晴らしいものだったからだ。今までに感じたことのない高揚感が全身を震わせる。音の振動が、直に堤井に伝わる。初めて聴いた本来の一音の音楽。焦がれ続けたそれに、やっと出逢えた。

 堤井は彼のオルガンが復活するのを許せなかった。堤井のためにオルガンを弾かせるなんて自分の信条に反するし、出戻りするなんて理想の彼が一貫性を失うようで受け容れられなかった。故に意固地になって、堤井は一音のオルガンを拒み続けた。

 だけどそれは、聴いたら許してしまうと分かっていたからだったのかもしれない。許せないのではなく、許したくないだけ。許したくないのに無理やり呑ませてくる一音の力が、堤井は怖かった。その才によって堤井の価値観を曲げられるのが恐ろしかった。

 一音はそんな堤井の前に、堤井が作り上げた理想の、その上を叩き出してきた。こんなものをぶつけられて許さないなんて無理だ。

 どれだけ曲がっても折れても一貫していなくても、一音のオルガンは至高である。それを堤井に理解させるために、彼は卒業式の場を利用したのだ。なんという自分勝手さだろう! 本当にどうしようもない人だ。

 けれど一番どうしようもないのは、それで許してしまう自分だった。最初から堤井には一音を許さないなんて選択肢はなかった。選ぶのは常に一音で、堤井はそれに従うのみである。それに大体、堤井はずっと彼の傍若無人な振る舞いを許してきた。なのにオルガンだけが例外なわけがあろうか? あるわけない。

 今まで堤井が「一音のオルガンを捨てること」を選んだように感じていたのは、一音がそう堤井に委ねたからだった。一音が堤井に望まれたいと思ってそのために行動したならば、堤井に勝ち目なんか存在しない。この演奏は、堤井にその事実を突き付けるためのものだ。

 また同時に、これは彼自身の鎮魂歌のようにも思われた。堤井に望ませることを最後に、彼は今度こそ完全にオルガンを辞める気だ。そのぐらい魂を削って、一音はこの曲を弾いている。

 なぜ辞めるのか。彼の意図に気が付くと、仄暗い悦びが堤井の胸を充たした。ならば堤井は見届けなければならない。一音が悔いなく逝けるように、しかとその死に様を目に焼き付ける。瞬き一つするのも躊躇われた。

 指揮と一緒に歌が止まり、後奏が始まる。やがてそれも講堂内に大きな余韻を残して終わった。

 一音が椅子から降り、こちらを振り返る。視線が交じり合う、永遠にも感じる数瞬。その間、堤井は彼の方から目を逸らすまで眼差しを捧げ続けた。命を燃やし尽くした彼は、痛いほどに輝いていて、眩しかった。


 式後、第二音楽室は送別会で賑わっていた。寄せ書きを贈って、みんなで写真を撮る。そういう高校生らしいやり取りにも、この二年間で随分慣れた気がする。

 どれもこれも、合唱部に入ったせいだった。合唱部に入ったきっかけが一音なのだから、一音のせいだと言い換えてもいい。あれだけ彼に掻き乱されて残ったものが、このありきたりな青春である。

 堤井は確実に、一音に救われていたのだ。結果論でしかないし、彼も意図したわけではないのだろう。竜巻に飛ばされた先が良かったというだけのレアケースだ。でも救われてしまったから、有難いと言えてしまう。入学当初には想像もできなかった騒がしい景色。それを前にして堤井は、この歪な感謝が彼に届くようにと祈った。

 この場に集まった卒業生は正見と並本と樹原の三人、そして石爪だった。最後だからと、並本が強引に彼を連れて来たらしい。初めは気まずそうにしていた彼も、懐かしい部室の空気に緊張が解れたのだろうか。ひとしきり同級生同士で会話してから、石爪は遠慮がちに身を屈めて堤井の前に来た。

「堤井くん、久しぶり」

「石爪、先輩。お久しぶりです」

 部長、と言いかけて一瞬口を噤みながら応える。どう接するべきか悩んでいると、石爪は彼が部長だった頃のように優しく笑った。

「コンクール見に行ったよ。立派だった。これなら安心して、部長を任せられる」

「先輩。……ありがとうございました。それと、すみませんでした」

 あれから一年以上が過ぎている。ずっと言いそびれていたことが、ようやく口を衝く。もう遅いとは分かりつつも、これだけは伝えたかった。

「そんなの、こちらこそだよ。堤井くんが謝ることない」

「でも俺が冷静だったら、もっと穏便に済ますことだってできたはずなので」

 これに関しては堤井に全ての非がある。けれど彼は首を横に振った。

「無理だったと思うけどなぁ。とりあえず、こうして合唱部が存続してるなら俺はそれで十分。これでおあいこってことにしとこう」

 無理だったというのは、堤井が冷静でいることがだろうか。それとも、穏便に済むことか。どっちにせよ亀裂を大きくしたのは堤井なのに、おあいこで収めてしまうなんて優しすぎる。腑に落ちないまま黙っていると、彼は近くにいた正見にも声をかけた。

「正見もありがとうな。大変だっただろ、急に部長丸投げして」

「そうよ。遺言だからって有無を言わさず部長にされて、本当に何が何だかって感じだったもの」

「だよな、ごめん。でも正見が一番ちゃんと部をまとめてくれるって思ってさ」

 恨み節たっぷりな正見の言葉に対し、宥めるような口振りで石爪が言う。

「そう言われちゃうと仕方ないわよね。それにしても堤井くんがちゃんと引き継いでくれて良かった。新川くんが辞めたら堤井くんも辞めるんじゃないかって、ちょっと思ってたから」

「なんですかその偏見。それを言うなら田中の方でしょう」

 田中といい正見といい、彼らは堤井と一音をなんだと思っているのだろう。自分はそんなに一音が全てのように見えているのか。そこまでじゃないと否定したいが、もう自分でも、自分がどこまで一音に心を捧げているのか分からない。

「どっちもどっちだって。その田中くんはどうしたんだ?なんかやたら嘆いてたのを見たよ」

「一音先輩に第二ボタン貰いにいって、玉砕したそうです」

 石爪に一音の話をするのは気が引けたが、差し支えない程度に事実だけを汲んで、田中が嘆いている訳を伝える。

「あいつ、勇気あるな……」

 彼は一周まわって感心したように呟いた。堤井も石爪の意見に同意だった。絶対に振り向いてもらえないと分かってても追いかけ続ける、その姿勢だけは凄いと思う。報われないのが居た堪れないが、曲がらずそこにある彼の片想いは、それなりに輝いて見えた。

「堤井くんも行って来たら?もう帰ってるかな」

 堤井と一音の確執を知らない正見は、何の気なしに笑って言う。その辺の話題を軽はずみに持ち出さないで欲しいというのが本音だが、わざわざ咎めることでもない。堤井は極力内心を悟られないように、必要以上に苦い顔をしてみせる。

「居たとしても行きません」

「素直じゃないな、堤井くんは! 少しは田中くんを見習えよ」

「あんなん見習ってどうするんです」

 ついには石爪にまでそんなことを言われる始末で、収拾がつかなくなる。堤井の抱えている感情を知ってて言うのは、正見とは違ってただの嫌がらせじゃないか。けれど堤井は彼に負い目があるため、あまり強く拒否はできない。ストレスで胃に穴が開きそうだ。

 その時窓際に集まっていた一年の女子たちが、正見を呼んで手を振った。

「正見先輩〜! こっちで一緒に写真撮ってください!」

「うん、今行く!」

 正見はそれに明るく応じる。そして堤井たちにじゃあね、とだけ言って、一年の方に混ざっていった。

「ああいうの羨ましいよ。俺は今の二年しか関わりある後輩いないし」

 後輩に囲まれて写真を撮る正見を見て、石爪はそう零した。堤井が彼を退部に追い込まなければ、彼だってあんな風に慕われていたはずだ。石爪が作った部なのに、今では彼が一番アウェイだなんてやり切れない。だから堤井は、自分が言う資格はないと知りながら、それでも彼に言った。

「そうでしたね。……だけど俺はやっぱりあなたが部長だって、今でも思ってますよ」

「え〜俺には素直なんだ、堤井くん。第二ボタン要るか?」

 堤井の言葉を受け、へらへらと口元を緩めて茶化してくる。その口調が心なしか一音に似ている気がするのが最悪だ。そもそも堤井は素直だ。第二ボタンなんか、一音のも石爪のも要らない。堤井はこれまで彼らに色んなものを与えられてきた。時には奪ってしまったこともある。それなのに今更形あるものなんて欲しがれないし、欲しくもなかった。

「要らないです。妙なからかい方しないでくれますか」

「ごめんごめん。せっかく仲直りできたんだし、怒らないでよ」

「怒ってはいません」

 仲直り、と内心で反芻する。これは仲直りできたことになるのか。一方的に怒って許されてしまったという感覚が強いが、彼がそう言うのなら、今は甘んじて受け止めるべきかもしれない。

「そう? なら良かった」

 堤井も心からそう思う。良かった、彼とのわだかまりが解けて。今後、堤井と石爪の人生が交わることはないだろう。だが彼の心にも堤井の心にも、遺恨を残したくはなかった。いつか高校の合唱部のことを思い出した時、互いに互いの道で笑えるように。何もかもが帳消しにはならないけれど、最後のページだけでも綺麗でありたいのだ。

「――これ、どうぞ。持ち主は居ないので、捨ててもらっても構いません」

 今日ここに石爪が顔を出してくれるとは思わなかったから、寄せ書きの色紙なんかは無い。代わりといっては何だが、堤井は四枚の紙を彼に手渡した。今その存在を思い出して、傍の棚から取り出したものだ。

「なになに? ……ああ、この字」

 紙に書かれた文字を見た刹那、石爪は泣きそうな顔を歪めた。でもすぐに笑って、紙束をそっと胸にあてる。

 これを渡すことが彼の救いになるとは限らない。けれどこの遺物は、堤井ではなく彼が持っておくべきだと思った。

「捨てたりしないよ。大事にできるかは、分からないけど」

 そう言いつつも、紙面を撫でる石爪の手付きは優しい。そのことが堤井にとっては、まるで自分のことのように嬉しかった。


「卒業しちゃったな。先輩たち」

「そうだな」

 センチメンタルに浸った田中の声に、堤井はそれだけ言って頷く。

 送別会は小一時間ほどでお開きとなった。とうに昼を過ぎていたが、日が傾くには早い微妙な時間だ。堤井と田中は最後まで部室に残り、片付けを済ませてようやく帰る所だった。

「お前は良かったの? 最後に一音さんと話さなくて」

 下駄箱で靴を履き替えながら、彼はこちらを見ずに尋ねた。どんな神経で言ってるんだと思うが、彼なりに堤井を気遣っているつもりなのだろうか。

 しかし会ったとして、何を話せばいいのか検討もつかない。それに堤井には、あの式での演奏が全てだ。思い残すことは一つもなかった。

「いいよ。もう話すことなんて……あ」

 ポケットの中でちゃり、と金属が触れ合う音がした。反射的に声を上げると、それを聞いた田中が首を傾げる。

「どうした?」

「ピアノの鍵、閉めるの忘れてた」

 音を立てたのはピアノの蓋を閉める鍵だった。持ってるだけならまだいいが、肝心である閉めた記憶がない。いつも通りの部活じゃなかったせいで失念していた。

 あの第二音楽室自体ほぼ使われていないため、閉めなくても大した問題にはならないだろう。だが一応は学校の備品だ。失くなっても困るし、きちんと閉めて、鍵は職員室に返すのがひとまずのルールであった。

「おいおい、しっかりしろよ部長! 先が思いやられるな」

 揶揄するように田中が言った。自分でもそう思っているから言わないで欲しい。このぐらいのミスはいずれ起こすだろうが、三年が卒業した日にやるのは流石に少し落ち込んでしまう。

「ごめん。閉めてくるから、先帰ってて」

 ため息をついて、もう一度ローファーから上靴に履き替える。田中はそんな堤井に「お疲れ」と手を振り、校舎の外へ出ていった。


 鍵を手に、階段を上る。前にもこんなことがあったような気がするけれど、あれはいつだったか。三階へと続く踊り場で、堤井はふと立ち止まった。

 ピアノの音だ。幻聴かとも思ったが、はっきり聴こえる。こんな展開、出来すぎている。けれど聴き間違えようもない。これは彼のピアノだ。

 その音を聴いて、思い残すことがまだ一つあったことに気付く。そう分かった途端、堤井は駆け出していた。走る心臓の鼓動がうるさいのに、頭の中はやけに冴え、彼が弾くピアノの音色のみが響く。

 ひたすらに脚を動かしつつ一心に耳を傾けていると、段々これは自分のピアノなのではないかと錯覚しそうになった。いつの間に堤井のピアノは彼に似てきていたのだろう。それとも、彼のピアノが堤井に似たのだろうか。

 音楽室に辿り着く。息も整えず、勢いよく扉を開ける。早くしないと彼が消えてしまいそうで怖かった。

「一音先輩!」

 ろくに確認もしないまま、堤井はその名前を呼んだ。彼の手が止まる。これは一音のピアノに出会った日の再演だ。振り返った彼は、満足気に微笑んでいた。

「ちゃんと見てた?」

 開口一番、文脈をすっ飛ばした質問をされて戸惑う。だがすぐにあのオルガン演奏のことを言っているのだと分かり、正しく返答する。

「見てましたよ。なんなんですかあれ! 絶対譜面通りじゃないですよね、伴奏をなんだと思ってるんですか」

 先程まで彼がピアノで弾いていたのは、卒業式で伴奏していた曲と同じものだ。しかし実際のオルガン伴奏はその原型をほとんど留めていなかった。本来歌が担当する旋律も演奏に織り込んで、オルガンの音色のみで曲を完結させていた。そんなのは伴奏とは言わない。

 彼が〝伴奏〟をしなかった理由を、堤井は知っている。だが形式上だけでも、と思って苦言を呈した。

「でも、最高だったでしょ?」

「……最高でした」

 そう聞かれたら頷くしかない。彼のオルガンは理想より理想だったのだから。

「知らなかったかもしれないけど、お前ごときにおれのオルガンを棄てる権利なんか無いんだよ」

 それを聞いて思わず笑い出しそうになってしまった。ああ、やっぱり俺は、この人のことがどうしようもなく好きだ。

 それでこそ天才オルガニストである新川一音、堤井が望んだ彼だった。その輝きが怒りを持って、帰ってきてくれた。そして燃え尽きて終わった。

 一つ一つ、彼の意図を紐解いていく。

「俺が卒業式を見に行くって確証はなかったはずなのに、どうしてオルガンを弾こうと思ったんですか?」

「賭けだよ。お前が来なかったら普通に伴奏をして、ついでにオルガン界に復活してやろうと思ってた。けどお前はちゃんと来たから、おれの思い通り」

 一音が口にしたもしもの想定は、堤井が考え得る中での最悪だった。彼もそんな不完全な復活は望んでいないのだろう。だが堤井が看取れなければ、そうなる可能性も十分にあったのだ。

 堤井が卒業式に来なかったら、新川一音は終われなかった。堤井が聴いていて初めて、あの演奏は鎮魂歌の体をなしたのである。

 一音は終わりたがっていた。誰にも受け容れてもらえない孤独から敗走するのではなく、理想の音楽を完結させることによって。その背を押したのが、堤井への怒りと情けだ。

 彼のオルガンを望まなかった堤井を否定し、肯定するという矛盾。それを解消するために、彼はオルガンと共に心中したのだった。

「じゃあ、あなたは賭けに勝ったわけですね。それも二回とも」

 一回目は堤井が卒業式に来るかどうか。そして二回目は、今この状況だ。

「うん。お前が間抜けで良かった! ピアノの鍵閉めを忘れるなんて、芸術点が高くていいね」

「馬鹿にしすぎでしょう。でも俺にとっても、好都合でした」

「だろうね。だってこっちも終わらせなきゃ、中途半端だから。そんなの堤井らしくない」

 こっち、と言いながら一音は鍵盤を一つ鳴らした。耳に馴染んだピアノの音色が柔らかく響く。

 堤井は譜面台に乗る楽譜を静かに閉じた。それからゆっくりとピアノの蓋を下げ、鍵穴に持っていた鍵を挿す。細い銀の棒がゆっくりと回って、かちり、という音と共に蓋が封された。

 これが堤井のやり残したことだ。身を切る思いで、彼に引導を渡す。

「あんたのピアノは、俺が代わります。あなたはオルガンと一緒に死んでください」

 一音のオルガンは終わった。でもそれだけでは彼は死にきれない。その未練の象徴たるピアノを断ち切ってやらなければ、彼の言う通り中途半端だ。中途半端にピアノだけ生かすなんて、堤井らしくない。殺すなら徹底的に、根も葉も残らないように燃やし尽くしたいというのが堤井の望みである。

 つまり彼は、最後になって堤井の望みを全て叶えてくれようとしているのだ。一音は堤井のために、オルガンを終わらせ、ピアノを捨てる。

「あーあ、やっと言ってくれた! お前が我慢したりしなかったら、もっと早くに叶えてやったのに」

 脱力したように一音が言う。晴れやかな彼の表情を見て、堤井の中に苦い感情が渦巻いた。

「言いたくなかったんです。俺はあなたに自由でいて欲しかった」

 一音が誰かのために縛られる、そうなるのが堤井は嫌だった。堤井の願いのために、彼を捻じ曲げたくなかった。

 しかしどうだろう? 誰かのために何かをする、それは本当に、誰かのためでしかないのだろうか。

「自由だよ。おれはおれの心に従って、お前のために死んでやるんだから」

「……分かってます。というか今、分かりました」

 相手のことを自分のことのように思うこと。それが「誰かのため」すら「自分のため」にする唯一の方法だった。

 堤井と一音は、とっくに互いが自分の一部になっていたのだ。自分の一部が望むなら、それを叶えるのは自分のためだと言ったって何らおかしくはない。

 一音の幸福が堤井の幸福で、また逆も然り! そんなことあるはずなかったのに、二人は混ざり合って、自他の境界線は消えてしまった。

「おれもさ、他人のために生きるとかまっぴらごめんなの。でも身内になっちゃったら仕方ないよね。かわいい後輩の願いを叶えたいって思うのは、先輩として健全な願いでしょ?」

「だからって『死んでやる』に行き着くのは、不健全だと思いますよ」

「それはお前の願いが悪いからじゃん。文句言わないでよ」

 一音はピアノの蓋の上で頬杖をつきながら、不機嫌そうに言った。悪いと思ってるなら叶えなきゃいいのに、彼も大概、堤井に毒されている。

「文句じゃありません。……死んだように生きてください。でもきっといつか、幸せになって」

 無茶なことを言っている自覚はある。でもこれが堤井の本当だった。死んで欲しいし、幸せに生きて欲しい。その二つには表も裏もなかった。

 心は一つじゃなくてもいい、そう教えてくれたのは一音だ。そこに気付くまでに、こんなにも多くの時間を費やしてしまった。

「おれからオルガンもピアノも奪っといて、よく言えるよね」

「あなたがそう望んだからですよ。じゃなきゃ、俺には奪えもしません」

 呆れる一音に、堤井は開き直って答えた。堤井は差し出されたものを食べただけだ。なのに全部こちらのせいにされては困ってしまう。

「まぁそうか。お前はおれより弱いもんね」

「ええ、今は」

「今は? 一生かかったって、お前はおれに勝てないよ」

 惚れ惚れするぐらい自信家な発言だ。堤井は一音のそういうところが好きだった。自分の才能に誇りを持っていて、何にも穢されない強い人。

 新川一音は自分の憧れだ。そんな彼に勝とうだなんて烏滸がましい。一音が堤井なんかに負けるわけがない。だけど。

「いいえ、俺は絶対にあなたを超えます。その時に後悔すればいいんですよ。あの時オルガンを辞めなきゃ良かったって!」

 はっきりと言い切ると、何だか清々しい気分になった。一音のオルガンは一貫していなくたって至高だった。しかし彼が作り出した理想は、堤井の理想とは違う。堤井は堤井の理想で、彼を超えたい。

「言ったね。じゃあ死ぬ気で生き延びろよ。おれも死に損にはなりたくないし」

「もちろんです。あなたの死体を養分にして、ピアノを弾き続けてやりますよ」

「気持ち悪。でもそれなら、心置きなく逝けるね。別に死なないのに変だな」

 堤井の言葉に一瞬顔を引き攣らせたものの、彼の表情は次第に喜びへと変わった。一音が辞めても、堤井の演奏の中に彼の音が残る。そのことが嬉しいのだろう。

 だったら尚更、堤井はピアノを辞めるわけにはいかない。でもそうしたら堤井も、一音のためにピアノを弾くことになるのだろうか。今までただ自分のためだけに生きてきた堤井が、一音という他人のために?

 けれど、もうそれで良かった。一音は堤井のために死ぬ。堤井は一音のために生きる。こうして二人で、一人の奏者としての生死を補い合うのだ。実際には死ぬも何もないが、自分達は音楽が全てだったから、こんな表現になってしまう。

「でも死なないからこそ、こういう分かりやすい儀式が必要だよね。また何かの拍子に生き返っちゃわないように、これも捨てちゃおっか」

 そう言って一音は、足元から黒い革靴を手に持ち上げた。

「その靴ってもしかして」

「オルガンシューズ。久しぶりに履こうとしたら入らなかったんだよね」

 見た目はほとんど普通の革靴と変わらないが、よく観察すると靴底が起毛されて柔らかい生地になっているのが分かる。足鍵盤を傷付けないための仕様だ。この靴が履けなかったから、一音は式では靴下のまま演奏したのだろう。

「意外と足のサイズって変わるものですね」

「三年も経ってるんだもん、当たり前だよ」

 改めて三年と聞くと、その長さに驚愕する。ピアノで鍵盤に触れていたとはいえ、それだけのブランクがあったのに一音はあの凄まじい演奏をやってのけたのだ。彼が一度もオルガンを辞めず走り続けていとしたら、一体どれほど素晴らしい演奏になっただろう。

 サイズの合わなくなった靴が、戻らない時を物語る。魔法の靴じゃないのだから、そこに意味を持たせるなんて馬鹿らしい。けれど考えずにはいられなかった。でも、もう時間切れなのだ。

 一音は迷いなく、オルガンシューズをゴミ箱に放り入れた。音楽室のゴミ箱は凡そ空で、僅かに印刷ミスされた楽譜が丸めて入っているのみだ。そこにとても似つかわしくない上質な靴が、鈍い音を立てて落ちる。

 靴の捨て方に特別な指定はないはずなので、こうして捨てるのは正解ではある。分別としては、この靴もただの可燃ごみなのだ。その現実が堤井にはひどく虚しいことのように感じられた。

 呆然とそれを眺める堤井と裏腹に、一音は軽やかに言った。

「これでおれは、普通の男の子に戻ります」

「……男の子って呼べるのは、高校生までじゃないですか」

 色々と言いたいことはあるのに、口から出たのは下らない皮肉だけだった。一音は肩を竦めてから、わざとらしく顎に手を当てて、考えるふりをしてみせる。

「じゃあ何、普通の成人男性?」

「急にときめかない響きになりますね」

 綺麗なオルガンシューズも麗しい彼も、役目を終えれば瓦石に等しい。だったら最初から才能なんて与えられない方が幸せだったのだろうか? 

 一音は二度と、普通の男の子には戻れない。彼の少年時代はオルガンに食い潰されてしまった。それを不幸だと決めつけたくはないが、最善だと言うには救いのない話ではないか。

 そう思って俄に落ち込みかけた時、一音の浩然とした声が耳に届く。

「ときめかなくったって、これも幸福でしょ。お前が手放した普通の幸福を、おれが代わりにやるだけ」

「俺が、手放した」

 意味を図りかねて、彼の言葉を繰り返す。すると彼は神妙な面持ちで頷いた。

「そう。堤井がこれから生きていくのは才能の世界。生きてるだけじゃ、すぐに死ぬ世界だ。運良く才能を認められたって、今度は一生孤独と向き合うことになる。理想に辿り着けるのは幸福だけど、理想で居続けるのは苦しいことなんだよ。おれは奏者として死んだけど、お前は理想を追うことで、人間として死ぬかもしれない」

 死ぬかもしれない。そう口にした一音の表情に、堤井は後悔の色を見た。彼も同じだったのだな、と案に相違して淡白な感想を抱く。

 一音は自分が堤井を死地に追いやったと考えているのだ。自分と同じ道を辿らせることへの罪悪感。堤井のものと鏡写しの感情が、彼の心の内に存在する。

「なんだ、そんなことですか」

「そんなこと? お前は本当の孤独がなんなのか、知ってるの。知らないでしょ」

「知りませんが、覚悟はしています。死ぬ気で生き延びるって決めたので」

 この先どれだけ苦しむことになるかなど知りようがない。でもそうして生きていくと決めたのは堤井だ。一音に背負わされた翼を使って飛ぶこと選んだのは、他でもない自分である。

 だがそんな堤井の決意表明に、一音は更に苦々しく顔を顰めた。

「死ぬ気で、なんて本当に死にそうな時には言えるものじゃないよ。今は覚悟してるからって、数年後にも同じ言葉が吐けると思うな」

「一音先輩は、俺が孤独になるって、そう思ってるんですか?」

 堤井が尋ねると、彼は寸時口を噤んでから吐き出すように答える。

「……思ってるよ。お前はお前が思ってる以上に強い。おれが直々にピアノを教えたんだ、ちゃんと理想に辿り着ける。だから孤独にも成れるだろうよ」

 それを聞いて確信する。一音は堤井に、死んで欲しかったのだろう。彼と別れた日、彼は悪口と称して「堤井が羨ましかった」のだと言った。あれは満更ただの皮肉ではなかったのだ。彼は本気で堤井を羨ましいと、ずるいと感じていた。

 だから一音は、堤井に同じ孤独を味わって欲しいと思ったに違いなかった。そして同じぐらい、そんなもの味わうことなく生きて欲しいと。つまり彼も堤井と同じだったわけだ。その二つの感情が共存することを堤井は知っている。おかげで彼の感情を悟っても、さほど傷付きはしなかった。

 したがって堤井は、こう言ってやれる。互いに倒錯した想いを抱いているからこそ最適解を出せる。

「それならあんたが、俺のことを見ていてください。俺が理想に辿り着く瞬間を。そうしたら俺は、死んだとしても孤独にはなりませんから」

 一音の瞳が、零れ落ちそうなぐらいに見開かれた。泳ぐ彼の目線を、堤井はしっかりと捕える。断じて逃がすつもりはなかった。

「何それ。そんな大事な部分、人に託すなよ」

「一音先輩だって俺に賭けたでしょう。おあいこです」

「そうなんだけどさぁ。依存って怖いね……」

 しみじみと彼が言う。何を今更、と堤井は思った。この世界で生きていくためには、少なからず何かに依存しなくてはならない。そして依存先を増やすことが健全に生きる方法なのだろう。

 だが自己中心的な自分たちは何にも寄りかからず、誰かのせいで自我を曲げることがないように、独りで生きようとした。その限界の果てに二人は巡り合ったのだ。そして「あなたのせい」ならそれで良いと、思ってしまった。

 どうしようもない愛だった。制御できない災害すらも受け容れてしまうような、そんな。

「それに、言っときますけど! 普通の幸福だって難しいんですからね。凡人として生きるなら、まずはもう少し真面目になることです。遅刻とか有り得ませんよ」

「ああ……うん」

 突然始まった説教に、一音は面食らったように返事をした。

 これから生きる世界が苦しいのは、彼だって一緒だ。生きてるだけで許される代わりに、能力ではなく人との関わり合いで居場所を得なくてはならない凡人の世界。

「人の名前も、ちゃんと覚えてください」

「うん、頑張る」

「誰もあなたのことなんか知りませんから。あなたがどんなに凄いオルガニストでも、一般人にとっちゃ無価値です」

「うん。……いや、ひどくない? 誰のために価値捨てたと思ってるわけ」

 一音がオルガニストとして磨いてきたものは、そっちの世界では何の武器にもならない。そう教えるために不服そうな彼を無視して、わざと厳しい言葉を並べ立てる。

「だって心配で。今までみたいに天才だからって調子乗ってたら、痛い目見ますよ。本当に分かって、るんですか」

「分かってるって……えっ何、泣いてるの?」

「へ、」

 言われてみると、いつの間にか自分の頬が濡れていたことに気付く。慌てて拭うも、堰を切ったように涙は止まらない。

「……っすみませ、なん、で……すぐに、とめますから、」

「…………堤井」

 無価値なんかじゃなかった。新川一音は、堤井の憧れの人だった。

 それなのにどうして、彼が普通の取るに足りない人間みたいに生きていかなくちゃいけないのだろう? 一音が天才だったこと、それを知る人間が今、果たしてどれだけいる? 世界の大多数は知らないままだろう。数少ない彼のオルガンを知る者だって、いずれは忘れてこの世を去る。

 そんな当たり前のことが、息をする度に胸を刺した。新川一音が何者でもなくなっていくのが耐え難くて、ぼろぼろと涙が溢れる。それと一緒になって、言えずにいた本音が口から流れ出した。

「俺、あなたにずっと、オルガンを弾いてて欲しかった……! それが無理なら……、せめてもっと早く、あなたに出会いたかったんです」

 既に消えた遠い光を標にするのではなく、死に際の瞬きに縋るのでもなく。今を輝くあなたの姿を、追いかけ続けていたかった。

 何もかも終わってから出会った堤井には、叶わないことだった。

 堤井に負けず切実な声で、一音が言う。

「おれもだよ。もっと早く会えてたら、って思う」

「なんで……人間なんですか、なんで人間としてじゃなきゃ、幸せになれないんですか」

「そうやって生まれちゃったからね。おれたちは、楽器じゃないから」

 音楽家じゃなくて、音になりたかった。何でもできるくせに何もかもが不完全な人間の体。この体では届かない場所まで手を伸ばせたら、ただ理想の音を享受することだけを幸福と呼べたのに。

「――でも、人間じゃなきゃ出会えもしなかったよ。遅くても、会えて良かったでしょ?」

 滲んだ視界の中で、彼が笑うのが分かった。春の日差しを受けたその微笑みは、今までに見た何より貴いものだった。

 これも人間じゃないと得られなかったものの一つだ。この一つさえあれば、堤井は自分と彼が人間に生まれたことに感謝できる。

「……はい。っ、出会ってくれて、ありがとうございました」

「苦しゅうないね。おれも楽しかったよ」

 一音にピアノを教わった日々が、走馬灯のように流れる。思い出を呼び起こしてしまうと、彼と過ごせなかったこの一年が今更に惜しくなった。

 また涙が溢れそうになるのを、堤井の頬に伸ばされた彼の指が止める。もうその手に灯る体温を気持ち悪いとは思わなかった。

 長くて短い高校の二年間を捧げた一音への執着に、終止符を打つ時が来たのだ。

 涙を拭いきって、彼を真っ直ぐに見据える。そしてこれから去りゆく彼に、別れの言葉を告げた。

「ご卒業、おめでとうございます。一音先輩」

「うん。バイバイ、堤井」

 そう言って一音は、沢山の音の記憶が籠ったこの部屋を出ていく。堤井はその足音が聴こえなくなるまで、いつまでも耳を澄ましていた。







 靴を履き替えて正面玄関を出たところで、一音はその足を止めた。出てすぐの大きな桜の木の下に、見慣れた後ろ姿を目にしたからだ。

 一音のことを待っていたのだろう。彼は自分を見るなり、静かに問いかけた。

「堤井くんと話してたのか?」

「……護。ま、そんなところだよ」

 石爪と話すのは、堤井と話すのと同じぐらい久々のことだった。むしろそれ以上だ。彼が部を辞めて以来、一年半近くも二人の時間は止まっていた。止まった針を動かすのが彼の方だったというのは予想外だが、一音も彼と話したいと思っていたから好都合である。

「なぁ一音。お前はもう完全に、音楽をやるつもりはないのか」

「ないよ。オルガンもピアノも、歌だってやらない。お前は許せないかもしれないけど、こればっかりは呑んでもらうしかないね」

 彼が一音のオルガンに未練を持っていることは知っている。そのせいで堤井と一悶着あり、合唱部を辞めるに至ったのだろうことも。出した結論は違えど、石爪の未練だって堤井のそれと根深さは変わらない。

 一音のオルガンの復活を望んでいた彼と、終わらせることを望んだ堤井。一音は堤井の手を取ってしまったが、石爪の気持ちを忘れたわけではなかった。

 しかし彼は、一音の言葉を打ち消すように言う。

「いや、許すよ。それがお前のためになるなら」

「ある意味では、おれのためだね。あいつはもうおれみたいなもんだから」

 その二つを分ける必要性を失ったから、一音はオルガンに見切りをつけられたのだ。自分の演奏を受け継いだ堤井がピアノを弾き続けるなら、それは自分の音が生き続けるのと変わらない。信頼とも依存とも呼べる強固な繋がりをもって、一音は堤井に、己の命と同じオルガンを差し出した。

 だがそんな二人のみに通用するコンテクストを、石爪が知るはずもない。訝しげに首を傾げて、言葉の意味を探ろうとする。

「あいつって、堤井くんのことか。彼のために音楽を辞めるのか?」

「うん、堤井の願いを叶えてやりたいから辞める」

「堤井くんの願いって……」

「おれに死んでて欲しいんだと」

 一音がそう答えると、石爪はがくんと大袈裟に項垂れた。

「だよな。あれ本気だったんだな。そんでお前もそれ、聞いてやるんだ。……なんでだよ」

 あれ、というのが何を指しているのか分からないが、「なんで」という問いには即答できる。自分達のような、身勝手な人間が持つ動機など一つだ。

「そんなの決まってるでしょ。――好きだから。だからおれは、あいつのために死んでいてやるんだ」

 改めて言葉にすると、その単純さに笑いが込み上げてくる。一音も堤井も、〝好き〟の奴隷だった。その支配下にあって、でも好きだから幸福で。そうして行き着く先はろくでもないのかもしれないが、分かっていても止められないのが愛なのだ。

 石爪はしばらく考えて一音の答えを咀嚼してから、けれど呑み込めずに大きくため息をついた。

「あーそうかよ。やっぱお前たちってお似合いだわ。その理屈、俺にはまっったく意味がわかんない!」

「やっぱ、って何。おれ、あいつとお前が何話してたのか結局知らないんだけど」

 この様子だと、堤井も似たようなことを石爪に言ったのだろうか? どうもかなり踏み込んだやり取りが、一音を抜きに交わされていたようだ。なんだか釈然としなくて問い詰めるも、彼は飄々として躱す。

「知らなくていいよ。お前には関係ない」

「関係ないわけがないでしょ。お前も堤井も、おれのことが好きなんだから」

「どっから来るんだその自信。そうだけど、終わったことだからな」

 肯きながらも一線を引く彼に、それ以上は一音自身でも触れられないのだと知る。終わったことだと口にした石爪の目は、恋に敗れた者のそれに似た諦念を宿していた。その対象は一音だろうに、一音がいくら慰めを与えても無意味だと分かってしまうからもどかしい。

 話題を変えようと、一音は彼の手にあるものに目を移した。

「あっそ。てか、その紙は? ずっと持ってて邪魔じゃないの」

「これは……」

 石爪が抱えた、数枚の紙束を覗き込む。彼は特に抵抗することもなく、一音にその内容を見せてくれた。

「楽譜?……おれのだ。こんなの残ってたんだね。で、なんでお前が持ってるわけ」

 それは一年半前、合唱コンクールで一音が伴奏をした曲の楽譜だった。楽譜自体は当時の合唱部員なら全員持っているが、随所に記された演奏指示の筆跡は紛れもなく自分のものである。

 なぜそんなものを石爪が持っているのか。音楽室に置きっぱなしにしていたのを、わざわざ発掘してきたのだろうか? 特段演奏に関わること以外は書いていない、何の変哲もない楽譜だ。自筆の作曲譜面とかならまだしも、伴奏しただけのものを取っておく理由が分からなかった。

「堤井くんに渡されたんだよ。持ち主は居ないから捨ててもいいってさ」

 なんとなく話が読めた。堤井がそうした理由も、きっと一音の予想と大きくは外れてはいないだろう。このお節介野郎、後輩のくせに余計な気を回しやがって。彼がまだ居るはずの、特別棟の音楽室がある方角を睨みつける。しかし普通教室棟の壁に遮られて音楽室の窓さえ見えない。

 もう文句のひとつも直接言えはしないのだ。その事実を突き付けられたようで、ぐっと喉の奥が詰まる。後悔はなかった。だが彼と過ごせなかった一年間が味気なかったのと同じく、これから進む未来が精彩を欠いてしまうだろうことも想像に容易い。そのぐらい、堤井と居た時間は特別だった。

 喪失感を振り切って石爪に向き直り、一音はなんでもないみたいに言う。

「持ち主、今目の前にいるよ」

「返して欲しいか?」

「別に。欲しいならお前が持ってれば」

 一音は楽譜そのものに思い入れはない。けれど石爪にとってはそうでもないのだ。だったらそれは、彼が持っている方が良いだろうと思った。

「そうするよ。……お前はほんとに、合唱部のことを好きになってくれてたんだな。これを見るまで、正直信じてなかった」

 喜びとも悲しみともつかない表情で、石爪は呟いた。

 これだ。このことを教えるために、堤井は彼に一音の楽譜を渡したのだろう。

 石爪は自分が合唱部に誘ったせいで、一音がオルガンを辞めたのだと思っている。指一本でオルガンにしがみついていた当時の一音に、最後のとどめを刺してしまったのだと。

 確かに彼の誘いは、一音がオルガンを辞める一つのきっかけにはなった。孤独だった自分に与えられた居場所。その存在は一音を戦場から引き摺り下ろすには十分すぎる理由だった。

 それが無ければ一音は、今でもオルガンを続けていただろう。公の場で弾くことはできなくとも、あの小さな教会で一人で弾くぐらいなら可能だった。一音も実際、そうしたかったのかもしれない。全体の一になるより、独りでも全てで在り続けたかったのかもしれない。あの時救いだと思って石爪の手を取ったことは、堕落へと進む悪手だったという見方もできる。

 しかしだからといって、一音は彼を恨んじゃいなかった。それを端的に示すのが、今彼の手にある楽譜だ。

「気付くの遅いよ。ひどい音だったけど、ちゃんと好きだったのに」

「だったら、もうちょっと態度に出してくれよな。無理強いしてたんじゃないかって不安だった」

 石爪が呆れ混じりに言うのを聞いて、若干の申し訳なさが募る。彼も一音が合唱部を好いていることは承知していたはずだ。ただそれにしては怠惰な一音の振る舞いに、「本当は合唱部に居たくないのではないか」という疑念を捨て切れなかったに違いなかった。

 彼がどれだけ自問自答したのか。それを考えると、ちゃんと言葉なり態度なりで好きだと伝えるべきだったと反省する。――でも。

「でも、どのみちお前は後悔してたよね。おれが合唱を好きでも、嫌いでも」

 そう問うと、彼の顔色はいよいよ苦悶の一色に変わった。

 結局救われていようがいまいが、彼は一音に合唱ではなくオルガンをやっていて欲しかったのだ。養鶏場から鶏が逃げ出して喜ぶやつがどこにいる? それによって鶏が救われたとしても、養鶏農家からしたら食料を一羽失っただけである。

 新川一音はオルガンを弾くために生まれてきた人間だった。食べられるために生まれてきた鶏と同じで、一音がその宿命から逃れることを望む者は居ない。居たとしたらそれは、変人にカテゴライズされる者だ。鶏肉を可哀想だと思うタイプのやつ。否定はしないが、一音の価値観とは明確に異なっている。一音の中では、鶏肉は食べられるべきで、新川一音はオルガンを弾くべきであった。

 だから石爪が後悔していることを、一音は責めない。だが責めなかったからといって、それで彼の罪悪感が消えるわけじゃないというのが難点だ。現に彼は、一音が合唱に救われた事実を祝えない、自身の醜さに苛まれ続けている。

「そうなんだろうな。……今でも、俺は後悔してるから」

 苦しげな放たれたその言葉が、緩やかな春風に交ざって溶けない。けれど、こうして口に出させたことに意味があった。一音は彼の後悔も受け止めたい。それが一音の責任だと、何に変えても果たすべき義務だと思った。

 しかし石爪は続けて言った。

「だけど、ありがとうな。合唱部のことを好きになってくれて。最後にそれだけ言いたかったんだ」

 諦めたように、でも愛おしそうに言う彼に、一音は頭を抱えたくなった。

「うーん。着地点がそこなのが、いかにもお前って感じだよね」

「なんか、すごい馬鹿にされてる気がする。俺そんな変なこといったか?」

「変ではないよ、多分。おれたちがそういうの下手なだけ」

 はぁ、と石爪は何も分かっていなさそうな声を漏らし、首を捻る。その認識の違いを埋めるのに必要な時間を思うと、気が遠くなりそうだ。

 何もかも思い通りじゃなかったのに「ありがとう」とは、一音や堤井なら言えない。なんだったら言わないのが礼儀だとすら考えている節がある。

 他人のために自分を押し殺す、その優しさは彼の強さだ。一音たちが持ち得ない種類の武器である。けれど、こんな時まで他人の気持ちを慮る必要はないと思った。

「どういたしまして、って言いたいところだけどさ。まだ感謝するには早いかな」

「どうして。感謝するのに早いも何もないだろ」

「違うよ。最後にするには早いんじゃない? って意味」

 このまま終わらせてはいけない。こんなに優しい彼が報われないなんて世界はどうかしている。彼に報いなかったのは自分だというのに、本気で一音はそう信じていた。

「えっと、どういうことだ?」

 戸惑う石爪に、一音は言い放つ。

「おれ、お前と同じ大学なんだよね。偶然!」

 彼は一瞬フリーズして、それからさっと顔を青ざめさせた。

「まだ受かってるかは分からないけど。ろくに受験勉強してこなかったしね」

 気にせず言葉を連ねる。その毎に彼の表情は分かりやすく絶望していくから、不謹慎にも「可哀想」より「面白い」が勝ってしまう。

「嘘だろ……? 俺が、どんな気持ちで……」

「嘘じゃないよ。おれが幸せなキャンパスライフ送るとこを、見ててもらう」

 彼は嫌がるだろうが、そうするしか彼に報いる手立ては思い付かなかった。ちなみに大学が同じだったのは本当に偶然である。もし違っていたら手詰まりだったので、運に恵まれたと言う他ない。そしてだからこそ、これは縁だと思えたのだ。

「正気か? 何の嫌がらせなんだよ。頼むから、幸せになるなら俺の見てないところでなってくれ」

「護がそこまで言うって中々だね。これは骨が折れるな」

「骨なんか折らなくていいから。俺の前から消えてくれるだけでいいんだ」

「お前、実はおれのこと嫌いだったりする?」

 あんまりの言い草に、ほんの少し心配になって尋ねる。だとしたら引き際はわきまえるべきだった。

 しかし彼に限ってそんなことはないはずだ。傲慢であるが、この点においては確信があった。思った通り、石爪は奥歯に物が挟まったような顔をしながらも首を横に振る。

「嫌いじゃないよ、嫌いじゃないけどさ」

「良かった、なら問題ないよね」

「何も良くない……。お前こそ、俺のこと嫌じゃないのかよ。お前のこと後悔してるって言っただろ」

 なるほど、彼が一番引っかかっているのはそこらしかった。これだけ一音を拒否していて尚、気遣いを忘れられない彼の性分が気の毒になる。

 一音が彼の側に居ようとすることは、彼に忍耐を強いることだった。誤って逃がしてしまった鶏が幸せになるところなんて見てて辛いだけだ。鶏に共感すればする程、その辛苦は増すだろう。幸せを否定したくはないけれど、認めることもできない。二つの感情の間で挟まれるのはきっとしんどい。早く離れてやった方が彼のためだ。そう分かっているけれど。

「さぁね。……今は分からなくてもいいよ。でも分かるまで、一緒にいて」

 分かるまで、どれだけ時間がかかるか知れない。だがここで離れて誤魔化せば、石爪の後悔は一生残ってしまう。一音はそれが嫌だった。多少荒療治でも、彼に付いた傷は全て治したい。

 彼の優しさを間違いにはしたくないのだ。あの日一音が彼の手を取ったことは過ちなんかじゃなかった。彼にそう信じて欲しいし、一音も信じたい。そのためには、後悔するのが馬鹿らしいぐらいの幸福を積み上げなければ。だから一緒にいる。優しすぎる彼は、このぐらい強引じゃなきゃ救えない。

 石爪は一音の言葉に頷かなかった。そんな彼の手を無理やり掴んで引っ張ってやる。返事の代わりに、その胸に咲く白い花が小さく揺れた。







 彼との別れから十五年の月日が流れた。堤井も三十代を迎えて、もう二年目になる。

 その間、様々なことがあって、沢山の壁にぶつかってきた。音大に合格したはいいものの、やっぱり天才たちの中で戦うのは容易じゃない。堤井と同じような人たちが転げ落ちていく様も頻繁に目にした。

 何度も挫折しそうになった。けれどその度に、一音の姿が脳裏に浮かぶ。堤井に音を託して死んだ彼。

 堤井は彼のピアノも愛していた。あのオルガンの音色に対する燃え盛るような激情ではないけれど、静かに、緩やかな熱度で慈しんでいた。そんな音を殺しただけの価値が、今の自分の演奏にあるだろうか? そう自分に問うと、立ち止まっている暇などないと思えた。

 新川一音という光が、そしてそれを失ったことが、今でも堤井を奮い立たせている。彼のことを思えばどんな困難も乗り越えていけた。 

 自分一人のためだったら、とっくに息切れしてしまっていただろう。理想の音にはまだ遠い。しかし着実に、堤井は一音の背に近付いている。彼のピアノに、果ては彼のオルガンにすら代わる音へ辿り着く日は必ず来る。

 またその境地へ近付く程に、彼が陥った孤独の何たるかも分かり始めてきた。けれどそれだって彼が見てくれていると思えば怖くなかった。世界中から理解されなくなっても、彼との繋がりが決して堤井を独りにしない。例え彼と二度と会うことがなくてもだ。


 そうして走り続けていた末に何の因果か、堤井は今この幸浜音楽ホールの舞台上に立っている。

 最初ここでのコンサートの話が来た時は、引き受けるかどうか迷った。というのも、大学を出てから堤井は海外を主な拠点としてピアノを弾いていたからだ。それに高校が潰れたことも知らなかったし、距離的にも気持ち的にも急すぎて追いつけなかった。だが暫く帰国していなかったのもあり、これも縁と割り切って結局は引き受けたのである。

 堤井が日本に戻ったのは八月の末、この国の夏を象徴するような蒸し暑い時節であった。コンサートまでの数日は、他に予定も入れていない。帰国の目的は仕事だったが、蓋を開けてみれば八割方夏休みの帰省のようなものだ。

 何年ぶりに実家に帰っても、家族と話す以外にやることはなく暇だった。となると、することは自ずと決まる。堤井は二階の角にあたる、防音加工がされた練習室のドアを開けた。

 入るとすぐに、部屋の半分を占めるグランドピアノが出迎えてくれる。その上蓋には埃ひとつ積もっていなくて、自分が居ない間も母なり誰かが管理してくれていたことが分かる。

 しかし鍵盤を鳴らしてみると、調子の外れた間抜けな音が響いた。掃除はできても調律までは手が回らなかったのだろう。大して帰ってきもしないのにいちいち業者に頼むのも馬鹿らしいし、仕方のないことだ。

 ただこの音じゃまともに練習はできないので、適当にコンサートに関係のない曲を弾き指を鈍らせないように動かすに留めた。楽器は弾く人が居なければ駄目になるのだ。


 それから三日後のコンサート当日、堤井は朝早くからホールへと向かった。そして変わり果てた母校の姿に呆然とした。ほとんど幻を見ているかの如くだ。突然並行世界に放り込まれたみたいで気味が悪い。

 遠く離れた海外からインターネットで調べて、どんな風に変わったかは堤井も見て知っていた。公式ホームページにアップされたホールの画像は、どれもその建物の外観や内装のみが切り取られている。そのため幾ら目を凝らしても昔の校舎との共通項は見出せず、新しくて綺麗なホールだなという感想しか抱けなかった。

 しかしいざ足を運んでみると、とてつもない違和感に襲われた。変わらず懐かしい街並みの中に現れた、記憶にはない異物。まだ汚れの少ない白い外壁が、夏の強い光線を一身に受けてきらめく。入口前の広場には小さな噴水があって、脇に立つ真新しい時計塔が銀色の光を放っていた。そのどれもが、堤井の知らないものだった。

 案内を受けてホール内に入ってもその違和感は消えることなく、むしろ増していく一方である。唯一堤井の記憶にも残っているのがステージ上のパイプオルガンで、それが堤井には遺跡のように物寂しく映った。

 きっとこうして凱旋するのは、堤井ではなく一音のはずだった。このオルガンが今も彼を待っているような気がしてならない。それとも彼の奏者としての魂は、あの日からずっとここに眠っているのだろうか。だったらこの建造物は、新川一音の墓場だ。

 そこに未熟なままで彼の代わりとして戻ってきてしまったのは、幾分か不本意な面もある。でも墓参りぐらいなら許されるだろうということで、一旦は自分を落ち着かせた。


 軽く指鳴らしをしてからリハーサルを始める。実家のピアノとは違い調律の具合もまずまずで、これなら再調律は要らなさそうだ。一通りプログラムの曲目をさらっていき、感覚を確かめる。オルガンほどじゃないが、ピアノも弦の張力や会場の大きさによって音に違いが出る。たったこれだけの違いを掴むのでも大変なのに、加えて様々な音色を組み合わせて調和させるなんてとんでもない。

 プロになってから改めて、堤井は一音の凄さを痛感させられた気がする。音楽の道に深く潜ってもまだ色褪せない彼の影が、恐ろしく眩い。こうして音に向き合うことは、再び彼を知っていく巡礼の旅のようでもあった。


「お疲れ様です! 凄いですね、もうリハーサルから本番って感じで。僕感動しちゃいました」

 リハーサルを終えた堤井にそう話しかけてきたのは、この会場のスタッフだ。自分より幾つか年下の彼は気さくで、美容師さながらによく喋る人だった。

「どうも、ありがとうございます。音量とか問題ありませんでしたか?」

「完璧でしたよ! といっても素人の僕の感想なんかアテにならないでしょうけどね。調律師さんとかと違って、ただのスタッフですから」

「実際聴きに来てくださるお客さんだって、ピアノを聴き慣れている人ばかりじゃありませんよ。だからそういう方の意見も参考になります」

 特に今日のコンサートは地域的な催しの一環であって、普段クラシックに親しんでいないような人も訪れるだろうことは予想できた。そんな人たちを突き放すような演奏をする気はないし、堤井の実力では出来もしない。

 堤井の答えに、スタッフは意外そうな顔で数回頷く。

「へぇ、そんなものですか。もっとこう、狭い世界でやってるのかと思ってました」

「間違いではないですがね。実際、かなり排他的な奏者も居ますし」

「あ、やっぱりそうです? 結構人によるんだなぁ」

 排他的なのが悪いという訳でもないが、聴く人が居てこその音楽である。昔似たようなことを一音にも言われた。独りよがりになるな、居場所あってこその音楽だ、と。あれは他を退けて孤独になった、一音自身の経験からくる反省だったのかもしれない。

「堤井さんは幸浜高校の卒業生なんですよね。懐かしいですか、この場所」

 話は演奏のことから、学校及びホールのことへと移った。

「どうでしょうね。あの時のまま残ってるのは、それこそオルガンぐらいなので」

「そうか……そう思うと、寂しいですね」

「ええ。でもまぁ、オルガンだけでも残ってて良かったですよ」

 同情して肩を落とす彼に、堤井は極力明るく言った。正直、寂しい理由があるとすればこのオルガンが残っていることだ。これが無ければ、堤井はここが母校の跡地であることすら忘れられる。そうしたら不要な情を挟まず、演奏だけに集中できただろう。

 演奏台を見上げる堤井にならって、彼もそちらに目を向ける。そして彼は、無邪気にこう尋ねた。

「そういや堤井さんって、オルガンは弾かないんですか? 同じ鍵盤だし、全然弾けそうですよね」

 その質問に一瞬顔を顰めたのは許してほしい。何せそれは、堤井に対してはするには一番の愚問だったから。

 気持ちはさておき、練習すれば弾けるんだろうとは思う。何も無いところから始めるより、ピアノの素養がある堤井の方が上達は早いはずだ。だが堤井がオルガンに触れることは、きっと生涯有り得ない。

「弾きませんよ。あれは、俺の領域じゃない」

 この楽器は一音のものだ。堤井が見ている世界の中で、オルガンを弾くのは新川一音ただ一人でいい。


 本番まであと一時間。用意された楽屋で休んでいたところ、急にドアが叩かれた。

「堤井、来てやったぞ!」

「もっとマシな訪問の仕方できないのか、田中」

 堤井が開けるのも待たずに乱入してきたのは、数少ない高校時代からの友人である彼だった。襟付きのシャツにチノパンという出で立ちで、普段よりラフさが抑えられた服装になっている。そういう気遣いができるのならこっちがドアを開けるのも待ってもらいたい。

「私もいるよ。久しぶりだね、はいこれ差し入れ」

「正見先輩。ありがとうございます」

 田中の後ろから正見が顔を出す。どこぞのお菓子が入っているらしい紙袋を差し出されたので、ありがたく受け取ってお礼を言う。

「本番前の忙しい時間にごめんね? でもせっかくだし、会って話したかったんだ」

「俺もです。こいつはともかく、先輩たちには中々会えてなかったので」

 正見に会うのはおよそ七年ぶりぐらいだった。その時は彼女の結婚式で、式中のピアノ演奏を頼まれて弾いたのだ。式でも時の流れをしみじみ感じたものだが、気付けばまた倍の時間が経っている。他の合唱部員も、あそこで会ったきりだ。

 懐かしい思いに浸っていると、「ともかく」と言われた田中が不満そうな声を上げた。

「えー、俺だって会うのは久々だよ」

「お前とは割としょっちゅう会ってるだろ」

 帰国した時には大抵会っているし、彼と会う方が実家に帰る回数よりも多いまである。少し前に堤井が海外で初めて開いたソロコンサートにもわざわざ来てくれて、流石に申し訳なくなって家に泊めたのが記憶に新しい。旅費も出そうとしたのだが、それは受け取ってもらえなかった。

「本気で言ってんのか? 最後にお前と会ったの、三年前だぞ」

「そうだったか?」

「そうだよ。時差ボケひでーな」

 やれやれと呆れ顔で言われて、何も返せなくなる。まさか三年も経っているなんて思わなかった。年々短くなる時間の感覚が怖い。世間からずれた仕事をしている弊害もあるのだろうか。

「それにしても、まさかここでコンサートすることになるなんてびっくりよね。堤井くん、本当にピアニストになったんだ」

 正見が感慨深げに口にする。それに対して堤井が応えるより早く、田中が胸を張って言った。

「あったり前ですよ。堤井は昔から、ピアノが上手いんだから」

「なんでお前が自慢げなんだよ」

「いいじゃん、俺の堤井だろ」

 笑いながら、堤井の肩に手をかける。冗談めかしてはいるが、目の奥が笑っていないように見えてどうにも居心地が悪い。

「お前のになった覚えはないけど?」

 軽くいなして払いのけるも、内心は平静とは程遠い。高二の秋、一音に関する追及を受けたあの日から、彼はその執着じみた感情を隠さなくなった。そしてその想いに触れる度に堤井は肝を冷やしている。

「まぁ、我らが合唱部の部長ではあるわよね。私も誇らしいよ」

「先輩にそう言って貰えるのは嬉しいです」

 正見がそう回収し、空気が戻ったことに安堵する。彼女が一緒にいて良かったと心底感謝した。

「俺は!? なんで俺にだけ塩対応なんだよ!」

「古参贔屓はしない主義なんだ。悪いな」

 騒ぐ田中をあしらうと、彼は思わせぶりに目を細めた。

「……お前プロになってから変わったよな。自信ついたっつーか」

「嘘でも自信持たなきゃ、聴きに来てくれた人たちに失礼だろ」

「うんうん、だな。そっちのがいいよ。てかまじでお前一音さんに似てきてね?」

「誰がだ、ふざけんな」

 ピアノが一音に似ているのはもう否定できないが、言動を指して似てるとされるのは我慢ならない。ついでにそれで田中が嬉しそうなのが嫌悪感に拍車をかけた。

「ごめんって。やっぱ変わってねぇわ、一音さんのことになるとすーぐムキになるんだもんな」

「お前も大概変わってないだろうが。未だに……」

「未だに?」

 お前は俺のことを許さずにいるのか。そう聞こうとして言葉に詰まる。正見の手前で聞くことじゃないと思ったのもあるが、単純に聞くのが怖かった。

「なんでもない。田中、今日演奏中に寝たら出禁だからな」

「流石に寝たりしねーよ。ちゃんと見てる」

 雑な誤魔化しには効果がなかったらしいことが、彼の言葉選びから読めた。だから堤井は居直って尋ねた。

「俺が死ぬまで?」

「うん、お前が死ぬまで。――あ、樹原先輩も会場着いたってよ! 俺エントランスまで迎えに行ってきますね」

 通知音が鳴ったスマホを片手に、彼はバタバタと楽屋を出ていってしまった。残された正見と目を合わせ、肩をすくめる。

「……騒がしい奴ですね」

「あはは、たまには優しくしてあげてね? 彼、すっごく堤井くんのピアノが好きなんだよ」

「知ってますよ。なので、ピアノで返してるつもりです」

 田中が今でも堤井と離れきれずにいるのは、堤井のピアノを監視するためだった。「死ぬまでピアノを続ける」という呪いから堤井が逃れていないかを、彼は見張っているのだ。またそれが好きだという想い故であることも知っているから、堤井はただピアノを弾いて応じる。

「そう、じゃあ余計なお世話だったかな。ちなみにさっきも言ったけど、私も君のピアノが好きだし誇らしいよ。ピアニストになってくれてありがとう、堤井くん」

「そんな、お礼を言われるようなことじゃないですよ」

 慌てて首を横に振ると、彼女の瞳が僅かに曇った。それから苦笑いをして言う。

「こっちが一方的に感謝してるだけ。私、新川くんのこと嫌いだったから」

 思いがけないあけすけな言葉に面食らう。だが正見の声が落ち着いているせいか、不思議と一音を貶されたことへの怒りは湧かなかった。

「えっと……それでどうして、俺に感謝するんです?」

「なんだろ、努力が才能に勝った気がするからかな。だって今、天才だった新川くんは音楽を辞めて、堤井くんは続けてるでしょ。それが現実なんだって思うと、ちょっとだけ報われる気がするのよね」

「報われ、ますかね」

 堤井にとってそれは虚しいことだった。最後に努力が勝つというのは、美しいことにも思える。けれど結果が蔑ろにされたら努力だって意味を持たないだろう。

 それに一音は努力に負けて音楽を辞めたのではなかった。一音が辞めたって、堤井はまだ彼の才能に勝っていない。

「私は、の話ね。堤井くんにとってはそうじゃないことも分かってるよ。……ねぇ、卒業式でのこと覚えてる?」

「忘れるわけないでしょう。まだ昨日のことみたいに覚えてますよ」

 正見が言う卒業式とは、無論堤井の代のことではなく彼女らの代のことだ。

 あの卒業式で初めて聴いた、彼の本当のオルガン。何度脳内で思い返したか分からない。もはや自分の卒業式の方が記憶が曖昧で、そちらは覚えておく価値のないものとして脳内から淘汰されている。

「私も同じだよ、絶対に忘れられない。あの伴奏は最悪だったもの」

 かなり堤井の感想とは乖離があるが、彼女の気持ちも理解はできた。人生に一度の卒業式を彼の独壇場にされたのだから無理もない。ソロとしては最高だったが、伴奏としては言い逃れのしようもなく最悪だった。

「あれを歌う前、私泣きかけてたんだ。高校生活楽しかったし、最後だって考えるとどうしてもね。でもあんなん聴かされちゃ、泣くに泣けなかった」

「なんか、すみません」

 彼があんな暴挙に出たのは、半分堤井のためである。だからその責任も半分は堤井にあった。

 けれど事情を知らない正見は、堤井の謝罪を真に受けずに笑って処理する。

「何それ、堤井くんが謝ることじゃないでしょ。だけど、嫌でも納得させられた。私たち卒業生全員の思い出とか感傷よりも、新川一音の演奏の方が価値がある。才能って、理不尽なものだね」

 理不尽。それが一番彼にしっくりくる言葉かもしれない、と堤井は思った。世界における一音の価値と、自分たちの価値は等しくない。そう分かってしまえば、どんなに頭では拒否したって彼の才能を認めて、享受せざるを得なくなる。

「全くです。俺はあの人のこと、竜巻か何かだと思ってますよ」

「竜巻かぁ、言えてるかもね。そんなのと一緒にいて、君はしんどくなかったの?」

「しんどかったですけど。でもそれに一番振り回されてたのは、あの人自身な気がするんですよね」

 堤井を含む一音の周囲の人間は、彼の持つ才能にひどく翻弄された。彼のオルガンを生かそうとしたり殺そうとしたり、方向性に違いはあれど各々に乱れていた。

 そしてそれは、一音もそうだったのではないだろうか? あの才能は彼にとっても理不尽で、その人生を大きく狂わせたのではなかったか。オルガンに出会いさえしなければ、才能を開花させなければ、彼は「普通の幸せ」を得るまでにあそこまで苦しまなかっただろう。

 才能という竜巻の最たる被害者は、その中心にいた一音本人だったのだ。

「だったら巻き込まれて、行くところまで行ってあげてもいいかなって。どうせ死ぬなら、自分と自分の好きな人のために死にたいでしょう?」

 だから堤井はピアノを弾く。そして最後には彼と同じ孤独に落ちてやる。しかしはその時にはもう、二人は孤独じゃない。落ちた先で手を繋ぐ、そこを目指す旅に孤独も何もあるものか。これが自分なりの、彼への報いだ。

 彼女は否定も肯定もしなかった。ただ堤井の目に何かを認め、ゆっくりとその視線を逸らした。


 スタッフに着いてステージ裏に向かう通路脇には、色とりどりのフラワースタンドが立ち並んでいた。

 中でも白の百合やダリアをメインにまとめられたスタンドの前で、堤井はふと足を止める。看板には幸浜高校合唱部の名が記されていて、けれど立ち止まったのはそれが理由ではない。堤井の目を奪ったのは、純白の花々の下で、異常に鮮やかに咲く黄色だった。

「どうしました? あっ、一輪落ちちゃってますね。――あれ、でもひまわりなんて、どのスタンドにもないような……」

 どこから落ちたんでしょうね、とスタッフの言う声が遠のく。ひまわりを拾い上げ、つぶさに花弁の一枚一枚を見つめる。あの悪質な呪いを彼は覚えていたのだ。こんなことしなくたって堤井は彼のことを忘れやしないのに、本当に寂しがりな人である。

 そっと元の位置に花を戻すと、スタッフが困惑したように堤井に尋ねてくる。

「そこに置いてていいんですか!? 地べたは良くないんじゃ、」

「いいんですよ。これはここが正位置なんです」

「はぁ……、そうなんですか……?」

 納得いかなそうに首を捻る彼を放って、堤井はステージへと進んだ。暗い舞台袖を横切り、輝く照明の前に出る。客席とパイプオルガンとに挟まれて、両の目線を受けながらしっかりと足を踏みしめて立つ。彼が見ている限り、堤井は恐れ多くも太陽を目指せるのだ。

 一礼をして、ピアノの椅子へと腰掛ける。今ここにいる堤井を形作っているのは一音の存在だ。彼が手放した奏者としての幸福を、その生を堤井は担っている。

 彼の息を継ぐように大きく息を吸って、堤井は演奏を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

息を継ぐもの 春りんご @harumaki_apple

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ