5章
春が来て、堤井は二年に上がった。あんなことがあってからも、自分は変わらず生活を送れている。毎日ご飯を食べて、学校に行って、ピアノの練習をして、十二時を過ぎる前には寝る。
堤井にはこれが健全なのかそうでないかの見分けがつかなかった。泣いたり自暴自棄になったりできた方がまだ健全だとも考えられるし、日常生活に異常が出ていない今の方が良いとも感じる。
こんなに堤井が平然としていられたのは、とにかく実感が湧かないせいだった。なにせ一音は死んだわけじゃない。同じ校舎の三年の教室に行けば、彼はちゃんとそこに居るはずだ。どんなに劇的な別れでも、心臓を止めることまでは不可能なのだ。
二度と話すことないだろうが、廊下などですれ違う可能性は幾らでもある。だから堤井はしばらくの間、学校を歩くのが怖かった。極力誰とも目が合わないように、間違っても一音を見つけてしまわないように気を張りつめていた。
だがいくら気をつけても、絶対に姿を見ないというのは難しい。目を瞑って歩けるなら話は別だけれど、そんなの無理なことだ。いずれは会うことになる。堤井はそう覚悟していた。
でも、会えなかった。一音の側でも堤井と会わないように動いていたのだろうか。ともかく不気味なぐらい完璧に、彼は堤井の世界から姿を消してみせたのだった。
合唱部の部員たちは最初、一音が部活に来ないのはいつものサボりだと思っていた。ただひと月経っても一向に彼が来る様子はない。次第にそのことが知れると、流石に部内でちょっとした騒ぎになった。
しかしその騒ぎも長くは続かなかった。タイミングもあったのだろう。新しく部員が入ってきて、その対応に追われる日々。そんな中で居ない人間に対して割く意識など、どうしたって薄れる。
元々一音は居ないことが多かった。だから彼が居なくても大して困らないし、目の前には分かりやすい「新入部員の指導」という課題が存在する。そのせいか石爪が辞めてしまった時のように問い詰められることもなく、合唱部の伴奏は堤井に引き継がれた。
合唱部にとっての一音の不在は堤井が埋める。では堤井にとっての彼の不在は、何が埋めるのだろう?
時間が経って冷静になってみれば、この展開は堤井の望み通りでもあった。彼のオルガンがグロテスクに復活することもなければ、合唱部を辞めた為、ピアノを続けることも恐らくない。実質的に堤井は、彼を過去のものにできていた。最善と言っていい結末である。
堤井は一度も間違えずにここまで来た。埋まらない穴が開いたこと以外、どこにも後悔するべき点などなかった。そもそもこの穴は一音のオルガンと出会ったその時からあったものだ。あとはこの喪失感に慣れて、前に進むだけだった。
ところがそう上手くはいかなかった。有り体に言うなら、堤井はスランプに陥ってしまったのだ。その兆候は夏の末、ちょうど二年目の合唱コンクールを終えて一息ついた頃に表れ始めた。
「誠二くん大丈夫? だいぶ疲れてるみたいだけど」
「……そう見えますか」
ここのところ堤井は、毎回学校からピアノ教室に直行し、一心不乱に練習を重ねていた。
そんな堤井を見かねたのだろう。先生はとうとう、遠慮気味にそう口にした。疲れてる、だなんてオブラートな言い方だ。以前より明らかに堤井は下手になっている。
演奏法を試行錯誤する中で、一時的に下手になるというのは頻繁に起こることである。そういう時先生は、堤井の模索を認めながらもきっちり、迷走していることを説いてくれる。道を正すためなら多少厳しい言葉を投げることも厭わない。
だからこんな風に心配されるのは初めてだった。そのぐらい今の堤井の演奏は、目も当てられないものなのだ。
「あんまり根を詰めると良くないよ。少し休もう」
「でも、コンクール近いですし」
合唱部のコンクールは終わったので、このコンクールというのはピアノの方だ。十一月に地区大会が行われる、バッハの名を冠したピアノコンクール。申し込みの締切日は来月に入ってすぐだった。
それなのに課題曲が思うように弾けない。課題曲にはいくつか選択肢があって、堤井はバッハのプレリュードとフーガを弾く予定にしていた。
これらは十九世紀のピアニストであり指揮者のハンス・フォン・ビューローが「ピアノ音楽の旧約聖書」とも呼んだ、《平均律クラヴィーア曲集》に収録されている一曲だ。旧約聖書というぐらいだから、それがピアニストにとって重要なものだというのは自明だろう。
また、毎年音大ピアノ科入試の課題曲として必須になる曲でもある。これが弾けなければ音大ピアノ科に進むことはできない。
それが弾けなかった。この曲集はポリフォニーをベースに作られている。つまり堤井は、ポリフォニーが弾けなくなっていたのだ。
堤井の中でポリフォニーは、新川一音と強く結び付いていた。弾くたび嫌でもちらつく彼の面影が、演奏の邪魔をする。しばらくポリフォニーを弾いていなかったから気付かなかった。知らぬ間にかかっていた呪いが、今になって堤井を苦しめだす。これまで普通に日常生活を送れていたのは、ただの嵐の前の静けさだった。
でも嬉しくもあった。この傷跡は彼がいた証明だ。堤井の世界から消えてしまった一音は、確かに存在したのだと信じさせてくれる痛み。
「何も平均律に拘る必要はないし、今回は別の曲にしてみたら?音大対策は来年でも間に合うよ」
「ありがとうございます。……でも、この曲が弾きたいんです。弾かなきゃ」
これと向き合うことが、そのまま新川一音の呪いと向き合うことになる。逃げてはならない。逃げられる道もない。
「そっか。じゃあ気が済むまでやらないとね」
「はい、ご迷惑お掛けします」
「誠二くんは頑固だなぁ。人は見かけによらないって実感するよ」
「俺そんなにですか」
できるだけ柔軟に生きたいと考えていたが、他人からは頑固に見えているのか。なんだか少し心外だ。けれど先生は、そんな堤井を微笑ましげに眺めた。
「昔からそうだよ。だから君のこと、応援したくなるんだ」
そう言ってどこか眩しそうに目を細める。そこにあるのは、堤井への期待だった。それが今は、途方もなく重荷に感じられた。
「……頑張ります」
「うん、頑張って。今の演奏じゃ絶対入賞は無理だからね」
「急に現実叩き付けないでくださいよ」
「ははは!まぁ、そんなに思い詰めずにいこうよ。ここで落ちても人生は終わらないからさ」
楽観的に笑う先生は、堤井が堕ちた地獄を知らない。ここで落ちても人生は終わらないが、一音の呪いを解いてポリフォニーを弾けるようにならなくては、ピアニストとしての道は絶たれる。それは死と同じだ。
諦めるとしたら今だった。これまで掠めもしなかった〝ピアノを辞める〟という選択肢が、突如として頭をもたげてくる。そのぐらい、堤井はもう疲れ果ててしまっていたのだ。
この音楽室で練習をする時は常に一音が隣に居た、なんてことはない。むしろ居ない時の方が多かった。にも関わらず、堤井はその多くの一人だった時間を思い出せない。
覚えているのは、堤井の演奏の粗を嫌味っぽく指摘する声と、退屈そうに、でも楽しそうに時おり指でリズムをとったりする彼の姿だけだ。部活終わりの音楽室は、すっかり彼との思い出を凝縮したものになっていた。
そんなんだから、ここで独りピアノを練習するのはあれっきり止めてしまった。思い出の濁流に呑み込まれては、きっともう二度と立ち直れない。
でも、もうそれで良かった。どうせ忘れられやしないのだ。ならその思い出にとことんまで抗わずにいてやろう。そう思って堤井は、とうとう防波堤をぶち壊した。
鍵盤をひと押しするだけで、過去から来る波が堤井を襲った。それでいい。流されて死のうが構わない。一度たがが外れてしまうと、驚くほど容易く堤井の指は回った。弾ける。あんなに弾けなかったポリフォニーが、思い出される彼の姿を受け容れるだけで簡単に弾けた。
けれどこの音は、彼と居た頃に戻ったものに過ぎなかった。今の自分の音よりは良いだろうが、過去以上の音にもなりはしない。停滞だ。当然の報いだった。過去に流されて、未来が見れるものか。あの日、一音の過去を映す動画の中に理想を見てしまってから、この停滞は決まっていたのだ。
まだ教えて欲しいことが沢山あった。もっと一音という人間のことが知りたかった。そうやってずっと一緒に居れたなら、いつかは死んで欲しいなんて気持ちも消えたかもしれない。想像もつかないけれど、それでもいつかは。二人で春を迎えられる日が来たのかもしれない。
今では有り得ない幻想が、有り得ていた頃のピアノの音色と共に溜まっていく。彼は堤井の楽譜をめくってくれはしない。あの時止めなかった堤井を責めるみたいに、堤井の人生をせき止め続ける。
その圧力に抗いながら、無我夢中でピアノを弾いた。他の何も見えない、音だけの世界。
だから堤井は、何者かが音楽室に入ってくるのに気付かなかった。気配が隣まで来てやっと、その存在を認識したのだ。
そんなはずがないと分かっている。しかし縋るように、堤井は彼の名を呼んでしまった。
「……っ! 一音、先輩?」
「一音さんじゃなくて悪かったな」
そこに居たのは一音ではなく、田中だった。
「……田中か、悪い。なんか忘れ物?」
「いやぁそろそろ来年歌う曲決めなきゃじゃん。だから曲集探してんだけど、あれどこにある?」
「曲集なら確か、正見部長がそこの棚に入れてるはず」
堤井が黒板の隣にある棚を指さすと、田中はごそごそとその中を漁った。数ある楽譜の束や音楽教本の中から一冊を取り出す。
「お〜あったあった、サンキュ。でも部長はもうお前だろ」
「ああ……そうだったな。まだ慣れないわ」
先日のコンクールで、三年生は部活を引退した。石爪から正見に引き継がれた部長の座は、現在は堤井に与えられている。しかし堤井は部長という柄じゃない。それを自覚しているため、未だに自分ではなく正見のことを部長と呼んでしまうのだった。なんなら彼女よりもう一代前の石爪のことも、部長と呼ばないと違和感があるぐらいだ。
「なんか堤井、最近調子悪い?」
本心から気遣っているのだろう声で、田中は言った。その優しさについ本音が溢れる。
「別に、ちょっとピアノ上手くいってないだけ」
「そうなん? お前のピアノ良いと思うけどな。ちょっと一音さんのピアノに似てる気するし!」
「……どこがだよ?」
無邪気に言う彼に、なぜだか無性に腹が立った。こいつに堤井の演奏の何が分かるというのだろう。励ましのつもりだとしても的外れがすぎる。堤井と一音が似ているのなら、月とすっぽんだってそっくりだということになる。
「どこがって、なんとなく?あるだろこう、雰囲気みたいな」
「俺はあんな化け物じゃねぇよ」
「こっちからしたら一緒だよ」
その呟きからは、いつものようなおどけた響きが消え失せていた。深い断絶が見え隠れするそれに、堤井は言葉を失う。
田中はピアノにもたれかかり、真っすぐに堤井の目を見て言った。
「なぁ、お前それ以上何が欲しいんだ? 才能があってみんなに認められて、もう十分だろ」
本気で言っているのだとしたら、いよいよ田中のセンスを疑う発言だった。彼は堤井を買い被っている。堤井は彼が羨むほどのものなど、何一つも持ってはいない。
「勘違いだよ。才能なんか俺にはない」
「あるんだって。謙遜ならやめろよ」
「謙遜じゃない! 何も知らないくせに、適当なこと言ってんなよ」
大声で言い返しながら、堤井は泣きたい気持ちになった。素直に賞賛を受け入れられない自分がもどかしい。こんなのは田中への八つ当たりだ。
「ああ知らないよ!」
同じぐらい泣きそうな声で田中が叫ぶ。それから心を落ち着けるようにひとつ深呼吸をして、彼は続けた。
「……知るわけないだろ。俺はお前みたいにはなれないし、お前は俺に何も教えてくれないんだもん。いっつも二人だけの世界みたいな感じでさ」
「何の話、」
「お前と一音さん。知ってるか?俺、未だにあの人に名前呼ばれたことすらないんだぜ」
自嘲気味に笑う彼に、堤井はただ戸惑うことしかできなかった。それだけ、彼が見る景色と堤井から見える景色はかけ離れていた。
「でもな、別に良かったんだよ。一音さんの隣に相応しいのは堤井みたいなやつなんだろうなって思ってたから。勝手だけど、お前なら許せるって思ってた」
「嘘だ、相応しいとか……あの人は本物の天才で、俺とは別世界の人間なんだ」
そのはずだ。堤井の居るべき世界は田中と同じ側であって、一音が居る方じゃない。急に梯子を外されたような気分だった。
堤井はこれまで凡人として努力を重ねてきた。けれど田中は、堤井を天才の世界へと放り投げようとしている。堤井はその世界で息ができないぐらい弱いという事実が、彼には見えていないのだ。
「じゃあなんで、一音さんはお前だけに構うんだよ?」
「それは俺がピアノの指南を頼んだからだ。それだけだよ」
「違う。それだけで動いてくれるほど、あの人は優しくない。堤井も分かってんだろ」
だったらなんだと言うのだろう。仮に堤井が一音の特別だったとして、彼は堤井がなんと言えば満足なのだろうか。
二人の間を沈黙が流れる。その沈黙は、何も語りはしない。音楽ならば休符も意味を持つ。言葉であっても、役者ならこの長ったらしい間にも意味を持たせられるかもしれない。しかし堤井は役者ではなく、田中はどちらでもなかった。
一音との意思疎通において、言葉は飾りのようなものだった。音を聴けば、それとなく彼自身を理解できたからだ。
そうか、と内心で頷く。堤井はいつからか、一音との方が分かり合えるようになっていたのだ。
数十秒続いた沈黙が、ついに田中によって破られる。
「なぁ堤井。俺は、お前に憧れてたのかもしれない」
「いきなり何だよ」
ややあって彼が口にしたのは、純粋な好意だった。妬み嫉みではない熱っぽい眼差しに狼狽える。それを見て田中は、可笑しそうに小さく笑った。
「いいから黙って聞いとけよ。お前はさ、小学校の時から色んな賞取って、卒業式でも伴奏とかしてたよな。別にファンとかじゃないけど、すげぇなって尊敬してたんだ。だから高校になってもピアノ続けてるって知って、結構嬉しかった。お前が変わらずにいてくれたことが。――俺にはそんなことできないから」
「こんなの、時間さえかければ誰でもできる」
「そうかもな。でもその時間をかけるってのができないやつもいるし、時間をかけてもできないやつだって多分いるよ。少なくとも、俺にはできなかった」
彼の悟ったような目付きを見れば、もう否定する気も失せた。ひとまずそういうことにしておいて、話の続きを促す。
「でだ。そんなお前が合唱部に入ってくれたのはいいけど、なんか知らん間に一音さんと仲良くなってると。そりゃ複雑だったわ。でも推しと推しがくっ付いたみたいなもんだしなって納得してたわけ」
「……ごめん、どこに納得する要素があるんだ?」
思わず口を挟む。すると田中は信じられないといった顔付きで堤井を見返してきた。
「いやいやめっちゃ納得だろ!? 推し同士が仲良しだとオタクは助かるんだよ!」
「その推しってのやめろよ」
「なんだよ照れてんの?」
「照れてないし、気持ち悪い」
「え〜ひっど。……まぁとりあえず、それで俺は納得してたんだよ。だけど段々、俺の知らないことが増えてきて。石爪部長が辞めた時も、一音さんが辞めた時もだ。俺はなんにも知らなくて、見てるだけだった」
確かにそうだ。堤井は田中に何かを相談したりはしなかった。蔑ろにしていたわけじゃない。ただ彼には関係ないことだと、そう決めつけていた。
田中がその時どんな気持ちで居たのか、堤井は知ろうともしなかった。堤井が一音のオルガンに翻弄されている間、彼はずっと疎外感を覚えていたのだ。
「前に、『一音先輩が二度とオルガンを弾かなかったとしても最高だって言えるか』って聞いたよな。アレも、例えばの話とかじゃなくて本当のことだったんだろ?」
「……そうだよ。一音先輩は、もうオルガンを弾かない」
口にした言葉が自分自身を突き刺す。罪悪感で死んでしまいそうだった。いつか石爪が堤井にそのことを教えてくれた時があった。あの時の彼も、こんな感情だったのだろうか。
「責めるつもりはねぇよ。オルガン弾かなくてもいいって言ったのは本当だし、お前と一音さんの話に俺が割り込むなんておかしいってのは分かってるしな」
堤井が言い返す間もなく、彼はまくし立てる。
「でも、もし俺が知ってたら。お前が少しでも俺に相談してくれてたら、一音さんは今もピアノを続けてたんじゃないかって。そう思ったらやり切れなくて、お前のこと、許せなくなっちゃった」
「なっちゃった、って」
そんな軽く言うことじゃないだろう。責めるつもりはないって言ったのはどこのどいつだ。責める気しかなさそうな、取り繕わない彼の言葉にショックを通り越して呆れてしまう。
絶句する堤井に構いもせず、彼はふいに堤井の肩を掴んだ。そして、祈るように囁く。
「だからさ。お前だけは、死ぬまでピアノ続けろよ」
なんという因果応報だ、と思った。
一音がオルガンを辞めたことを許せなかった堤井は、同じ呪いによってピアノに人生を絡め取られるのだ。
掴まれた肩が痛い。この重さだ。これは堤井が一音に向けた憧れと執着そのものだった。それがそっくりそのまま、自分に返ってくる。
「田中、」
名前を呼ぶと、彼はぱっと手を放した。そして何でもなかったように屈託のない笑顔を見せる。
「なんちゃって! 今週中には何曲か歌えそうなやつ選抜しとくよ。じゃあ、また明日」
当初探していた曲集を手に掲げ、音楽室を後にする。その背を堤井はただ黙って眺めた。
死ぬまでピアノを弾き続ける。脳内で反芻すると、その呪いの甘さに気付いた。なんなら本望とも言える。それが彼と、彼のオルガンが好きだった者たちへの贖罪になるのなら、幾らでも弾いてやろう。
ピアノを辞める時こそが、堤井が死ぬ時である。凡人が言うには憚られるほど重くて、己の首を絞めるような台詞。新川一音が言えなかったそれを、堤井は言いたかった。
――だってピアノが好きだから。どんなに苦しくても、その気持ちが翳ることは決してない。
これまで藻掻き続けたせいで、凡人として生きる足場は崩れてしまった。じゃあもう、翼がなくたって飛ぶしかない。それがこの道を選んだ堤井の宿命だ。
一音のオルガンを殺した罰が、図らずも堤井の背中を押す。死ぬまで弾かなければならない理由。それを手に入れたから、堤井はここから飛び立てる。
そしてコンクールの日がやって来た。なんとか出場しても恥ずかしくない具合まで調子を取り戻せたわけだ。だからといって勝てる保証はないけれど、この場に来れたことがまず堤井には奇跡だった。
この地区大会を通過するためには、定められた受賞ラインを超え、優秀賞を獲得する必要がある。受賞ラインとは、審査員が各出場者の演奏に付けたスコアの平均点だ。その平均点を超えさえすれば、何人でも優秀賞に選ばれる可能性は存在する。
堤井が参加する高校生部門の出場者は五人と、そこまで多くはなかった。平均点での戦いにおいて、少人数だというのは良し悪しだ。レベルの高い奏者と当たる確率は下がるものの、誰か一人だけが突出したスコアを出した場合は、その他全員が落とされることも有り得る。
結論を言うと、堤井は無事に地区大会を通過した。優秀賞を貰ったのは堤井ともう一人、飛び級で高校生部門を受けた中学生だった。簡単に年上を蹴散らすその実力は、まさしく天才と呼ぶに相応しい。天才という生き物は何もこの世に新川一音だけじゃないのだ。堤井が戦うピアノの世界にだって、奴らはいる。
そんな化け物たちの中で、いつまで息が持つかは分からない。それでも、凡人だからと言い訳するのはもう辞めた。身に余るほどの期待と罰が堤井の羽だ。新川一音との出会いで辛うじて得た、唯一のものだ。たとえ墜落しようとも、堤井はこれと心中してみせる。
新川一音は選ばない。
物心ついた時から、一音の世界は二重だった。言葉通りの意味だ。世界が二つ重なって見える状態。一音は生まれつき、軽度の斜視による複視を発症していた。
斜視とは、左右の目線がそれぞれ違う方向に向くことをいう。これは片目が正常な位置より内側や外側、あるいは上下に逸れることによって起こる。
一音の目はその中でも外斜視と呼ばれるもので、左目がほんの僅かに外側へとずれていた。そのずれと同時に生じたのが複視という、一つのものが二つにダブって見える疾患だった。これが一音に二重の世界を見せたのである。
先天的な斜視の場合、複視が起こることは少ない。というのは、複視を消すために網膜からの刺激を受けるのを拒絶する「抑制」という働きが脳で起きるからだ。だがこの抑制が効かない場合もゼロではない。一音の脳ではたまたま抑制機能が働かず、常に複視でものを見ることになった。
生まれてからずっとその視界だったため、一音はこれが異常だとは思いもしなかった。だから大抵の人には世界が一つに見えているのだと知った時は衝撃だった。ずれていようがいまいが、人間には二つの目がある。それなのに一つの景色しか見えないなんて、一音からすればそっちの方が不思議に思えた。
今思えば不便だっただろう。しかし当時の一音は不便とは露知らず、当たり前のようにそれを受け入れて過ごしていた。目が見えないわけでもないし、片目を瞑ればブレもなくなる。さほど生活に支障は出なかったのだ。
本人がそんな調子だから、両親もしばらく一音の目に異常があるとは気付かなかった。だがある日、彼らが気付くきっかけとなる出来事が起こる。それは幼稚園の運動遊び中のことだった。
一音の通っていた園には、幼稚園にしては割としっかりとした体育館があり、遊びというよりは授業めいたものが週に何度か行われていた。
年長の秋頃だっただろうか。バランス感覚を鍛えるため、平均台の上を歩いてみるというものがあった。歩くだけならそこまで難しいものではない。幼児でも簡単にこなせることだろう。
ただ複視の一音には困難だった。なにせ足場が二重に見えてしまうのだ。その状態で細い平均台の上を踏み外さないように歩くのはかなり難易度が高い。
最初はブレないように、片目を閉じて歩いた。けれど平均台の真ん中辺りに差し掛かった時、ちょっとぐらついた拍子に目を開けてしまった。あっという間に自分の立つ足場が二つに分離し、受身をとる余裕もなく一音は頭から地面に落ちた。
幼児が使う平均台なんて大した高さはない。そのため大事には至らなかったのだが、落ち方が単にバランスを崩したにしてはおかしいと見られたらしい。それから先生や親に詳しく落ちた経緯を喋らされて、眼科を検診することになった。そこでやっと、一音が斜視であることが発覚したのだった。
症状がひどくなければ、斜視でも手術を行わないことはある。しかし一音は複視も発症していたため、手術を受けることを勧められた。言われるままに手術を受け、数日経つと複視は消えた。
複視ではない視界を得て一音はなんとなく、「世界が一つになってしまった」と思った。それが悲しかったのか嬉しかったのかは、もうあまり覚えていない。便利になったのは確かだけれど、今までの二重の世界だって一音は嫌いじゃなかった。一人で二つの視点が得られるなんて、何だか得した気分だったからだ。
手術を終えた今でも、上を見たりする時なんかは複視になることがたまにある。完全な治癒というのはなかなか難しいのだ。でもこのぐらいが丁度いいのかもしれない。時々帰ってくる、一音の統一されない世界。
それが関係しているのかは不明だが、一音は何か一つを選択するのが昔から苦手だった。そして選ばなくても生きていけるぐらい多方面の才能が、新川一音という人間には与えられていた。
ところで一音の両親は二人とも音楽家だった。父はホルン奏者で、母はピアニスト。どちらの家系も代々何かしらの楽器をやっている、典型的な音楽一家だ。そのお陰で一音の身近には常に音楽があった。しかしそういった環境に置かれても、一音は不思議と音楽をやりたいとは考えなかった。
意外なことに両親も一音に音楽をやらせようとはせず、のびのびと自分を育てた。一音がやりたいと言えば喜んでやらせただろうが、無理強いはしないという方針だったようだ。
それでも父や母が出演する演奏会はよく聴きにいった。一音もオーケストラを聴くのは好きだった。だったら楽器をやりたくなってもいいのではないか?そう自分でも思ったけれど、何故かどの楽器もぴんと来なかった。
いま思い返してみると、それも「選びたくない」の延長だった。オーケストラは好きだ。だけどそれの一部になる自分がどうしても想像つかない。一音は全部をやりたかったのだ。一人でオーケストラを奏でてみたかった。
だがそんなのは不可能である。自分はどう足掻いても一人しかいない。そのことに歯がゆさを覚えながらも、一音の中での音楽は、誰かが演奏するのをただ聴くものとなった。
音楽をしなくても人生は楽しい。音楽一家に生まれた一音にも、音楽以外にできることは沢山ある。
例えば運動が得意だった。走るのも泳ぐのも、球技だって人並み以上にできた。見るだけで動きは真似できたし、足の指まで一本ずつ分けて動かせるような器用さもある。一音は運動神経が全体的に良かった。だから小学生の時は外で遊んでばかりで、音楽のことなど全く眼中になかった。
ずっとそうやって音楽とは適度な距離を保っていくのだろう。一音はそう思っていた。
そんな時、転機が訪れた。小学校を卒業し、中学に上がるまでの春休み。両親に連れられて行ったショッピングセンターで、一音はその音に出会った。圧倒的な大音量かつ多様な音色。それがたった一つの楽器から出ているなんて信じられなかった。
――パイプオルガン。美しく巨大な楽器の王。これこそが一音がやるべき楽器だと確信した。運命と言っても過言ではない。一音はこの楽器に一目惚れしたのだった。
そこから一音はパイプオルガンを習わせてもらえるよう、両親に頼み込んだ。ピアノ教室はどこの街にも必ずと言っていいほどあるだろうが、オルガンの教室というのは少ない。けれど運良く、近くの教会がオルガンの生徒を募集していた。
パイプオルガンを弾くためには足鍵盤の構造上、ある程度の身長が必要になる。そのため生徒の対象は中学生以上とされることが多い。この春から中学生の一音にはぴったりのタイミングだ。すぐさま募集に申し込んで、一音はオルガンを習い始めた。
やってみると、パイプオルガンの全てが身体に馴染むようだった。血筋による音感も、指先にまで渡る優れた運動神経も、このために用意されていたのだと感じた。
一曲を弾けるようになるまでに一週間もかからなかった。一ヶ月もすれば、二年ぐらい練習してようやく弾けるような難曲すらも弾きこなせた。
どう弾けば美しく響かせられるのか、教えられなくても手に取るように分かる。まさに一心同体。天才オルガニスト新川一音は、こうして誕生した。
一年が過ぎて、一音の演奏は練習の域を超えた。本物の芸術として聴くに値する所まで上り詰めたのである。そうなると、一音は更にオルガンへと没頭した。この頃からだ。一音の脳内に、神の輪郭が見え始めたのは。
一音にとっての神とは、全知全能で森羅万象を創造するようなものとは違う。言うならば理想の自分、こうでありたいと望む理想像だ。
誰にだって、自分自身に誓うということがあるだろう。簡単なものであれば、「挨拶はちゃんとする」とかそういうやつだ。誰に言われたからとかでも、しなきゃ罰せられるとかでもない。ただ自分がそうありたいから守るだけの誓い。その宛先が自身の神である、そういう解釈を一音はしている。
というか、信仰の原点はこれなのだと思う。しかし自分自身に誓うのでは怠けてとても守れない人が、己を律するために神をつくり、天罰をつくる。それはそれで間違いじゃない。既存の宗教に属することで自分の信じる誓いを守れるのならいい事だ。
だが一つ困ることがある。誓いの形は個人や時代によってそれぞれだということだ。必ずしも信仰する宗教の、その全ての教義に共感できるとは限らない。
だから一音は、第一に自身の理想像を信じる。誓うも罰するも自分自身。理想の自分が神だと言うとあたかも自分が神であるに聞こえるかもしれないが、内容的には理想の自分に恥じないような行動を心掛ける、というだけの話だ。
その前提で、一音が神を体現できる瞬間があった。それがオルガンを弾いている瞬間だ。オルガンを弾く間の新川一音は、理想以外の何物でもなかった。
奏者の一音が王なら、鳴るパイプ群は民。そして奏でられる音は国だ。王は国の象徴であるが、国そのものではない。国は王が見せたい理想だ。一音という王が演奏をして、民であるパイプが鳴り、音という理想の国が出来上がる。この音が一音の神だった。オルガンという楽器の力を借りて、一音は理想の神に逢える。
中学二年生になると、オルガンの教師である牧師から留学の誘いがあった。海外で学びたいという気持ちはそこまでなかった。学ばなくてもオルガンは一音の身に付いている。でも色んなオルガンを弾いてみたい、その一心で一音は迷うことなく了承した。
もちろん両親にも許可をとった。もっと言うと、両親も一音の留学に着いてくることになった。元より彼らはコンサートなどであちこちを転々としている。フットワークが軽い人たちなのだ。そうして一音は一家総出で、ドイツへと渡った。
まずは牧師から紹介された教会へ足を運んだ。石造りの荘厳な建物は、異国の空気を強く感じさせる。
中に入ると、正面の壁に立ちはだかるようにして建てられた、大きなパイプオルガンに迎えられた。そのパイプ数の多いことといったら、今まで弾いていたオルガンとは桁違いだ。鍵盤も三段に分かれていて、ストップの種類も豊富である。
これからこのオルガンを弾けるのだと思うと、夢のようだった。まだ知らない沢山の音が一音を待っている。ドイツに来るのに少しは心細さもあったけれど、オルガンを前にすればそんな感情は吹き飛んでしまった。
牧師は一音のことを歓迎してくれた。ただ子ども扱いされているのは彼の態度から察せられて、それだけはちょっと不愉快だった。でも仕方ない。十四歳なんて名実ともに子どもだ。ついでに一音はあまり身長も高くなかったし、西洋人と比べれば顔付きも幼く見えるだろう。
しかしそんな態度も、一音の演奏を聴けば一瞬で取り払われた。一音のオルガンは音楽の国ドイツでも認められたのだ。
この教会では土日の大きな礼拝に加えて、平日も一日に二回、昼と夕方に礼拝が行なわれる。教会オルガニストになると、この礼拝の伴奏を務めることになる。一音も教会オルガニストではないものの、それに師事するものとして、礼拝の伴奏を任せて貰えることがあった。
誰もが最初は演奏台に上がる一音を訝しげに見つめていた。でも音を聴けば全員が呆気にとられたような顔をして黙る。賛美歌なんだから黙ってないで歌えよ、なんて思いながらも少し気分が良かった。
夜になるとオルガンを自由に使わせて貰えて、思う存分演奏ができた。色んなストップを試して、理想の音を探る。この時間が一番幸せだった。
パイプオルガンの音は、離れた客席等で聴くのと演奏台で聴くのとでは全く違って聴こえる。客席で聴いても大迫力だが、演奏台に降ってくる音圧はそれの倍凄まじい。耳が潰れるかと思う程のそれは、どこか人智を超えた響きをもたらしてくれる。これは奏者の特権だ。
それだけに、一度演奏を始めると周りが見えなくなることもしばしばだった。時間を忘れて日付を超えそうになるまで弾いていた時は、さすがに牧師に止められた。もし止められなかったら、そのまま朝まで弾いていたかもしれない。それぐらいの引力が、オルガンという楽器にはある。一音はその引力の虜だった。
願わくば、オルガンを演奏しているその瞬間に死にたい。そんなことを本気で思った。しかしそう思えたのも、ここの辺りが最後だった気がする。なぜなら日を増すごとに、死が他人事ではなくなっていったからだ。
その訳はさておき、一音の演奏は完璧でありながら型破りでもあった。演奏技巧は卓越しているが、曲の解釈は時々によって変化する、いわゆるヴィルトゥオーソ的な奏者だ。なまじ即興力に長けているために楽譜通りに弾かない、また弾かなくても成立させられるぐらいの実力と大胆さを持っていることが一音の演奏の特徴といえた。
これが教会の伴奏者としてはあまり良くなかった。
教会の伴奏で最も重んじられるのは、神を賛美する気持ち。そしてそれを正しく神へ届けることだ。これは自己表現を主とする芸術とは異なる考え方である。
一音はこの考え方への理解がいまひとつだった。無茶苦茶でも、その一時にしかない最高の音楽を捧げた方が神も喜ぶんじゃないの? と軽く考えていたせいだ。今でも一理あると思っているが、時と場を弁えるべきなのは間違いない。
初めて出演を許された、教会の定期演奏会。そこで一音は、少しばかりやらかしてしまった。またこれがきっかけで、オルガニスト新川一音の転落が始まることになる。
一音がそこで演奏したのは《幻想曲とフーガ ト短調》(BWV542)、《パッサカリアとフーガ》に並ぶバッハのオルガン曲として名高いものだ。
一音は数ある曲の形式の中でもポリフォニーが一番得意だった。フーガとはポリフォニーの一種で、複数の旋律で曲を構成する対位法を主体とした楽曲形式のことを指す。
ポリフォニーの難しいところは、複数に分かれる各声部をそれぞれ独立させて弾かなければならない点だ。多くの曲は右手が旋律、左手が伴奏という形をとる。
しかしポリフォニーは、右手も左手も旋律なのだ。オルガンだったら足も旋律になる。右手、左手、足、どれも主役の音であるため、どれか一つに集中してしまうと途端に崩れてしまう。言ってしまえば全身のマルチタスクだ。これが苦手な鍵盤奏者は多い。
だが一音はこの全てが主役になる音が好きだ。一つを選ぶことのない多重の音楽。かつて見ていた二重の世界が、一音の音楽の原点だった。
弾いている間の感覚をどう表現しよう。台風の目というのが適当かもしれない。荒れ狂う音の中心で、異様に凪いだ感覚で鍵盤を操る。周囲は暴風で、それより外は何も見えないし聴こえない。
もしこの楽譜が永遠に続いていたとしたら、一音は弾き続けてそのうち死んだだろう。でも曲は終わる。音が止んでしまったことに名残惜しさを覚えつつ、観衆の方を振り向く。
するとどうしたことだろう、誰とも目が合わない。確かに視線は感じるのに、そちらに目を向けるとすぐに逸らされる。何も分からないままに一音は演奏台を降りた。演奏は至上のものだったはずだ。一音の中で一番の出来、一番理想に近付けた演奏だった。
それが駄目だったのだと、この時はまだ気付けずにいた。彼らは一音の演奏の中に、異質の神を見出してしまったのだ。
定期演奏会に出てからというものの、一音は一躍オルガン界の有名人となった。受け容れられるかは別として、新川一音のオルガンは申し分なく素晴らしかったからだ。「東洋の若き天才」なんてコテコテの枕詞とともに、一音の名前は広がった。
容姿も相俟って、野次馬根性で一音を見に来る人も少なからずいた。そういうのは大体顔がにやけていたり、うっとりしていたりするから分かりやすい。一音はアイドルじゃないのだからそんな目で見られても困る。
でもそういった人たちも、演奏が終わった瞬間からは一切目が合わなくなる。見てはいけないものを見た、と言わんばかりにみんなが一音を遠巻きにする。
演奏を聴きにくる人は増える。目を合わせてくれない人も増える。そんな状況で一音にできるのはただ演奏に集中すること、それのみだった。そっちがそのつもりなら一音だってお前らなど見ない。ひたすら観衆に背を向け、オルガンに向き合う。
他人なんか必要なかった。誰からも受け容れられなかったとしても、一音は一人でオーケストラを奏でられる。一人で全ての音を担う、それが新川一音というオルガニストなのだ。
そして一音は独りになった。
そうやっているうちに、当然の結果というか、ちゃんと体調を崩した。自分は図太い質だと思っていたが、案外そうでもなかったみたいだ。オルガニストとしての自分は孤独に耐えられても、ただの人間としての自分がそうはいかない。まともに眠れない日々が続き、食事を摂れる回数が減った。
道で会う人や店員の視線が怖くなった。この人たちは一音のオルガンを聴いてもなお、目を合わせてくれるだろうか?そんな不安が常に付き纏った。
極限状態でまたオルガンを弾く。音で溢れる一人ぼっちの世界。ここには自分の音しかない。どれだけ多様な音色が出ようとも、沢山の声部が重なり合っていたとしても、全部、自分。
唐突に恐ろしくなって、一音は演奏の手を止めた。何が起きたのかと動揺する観衆に見向きもせず、演奏台から逃げ出す。そうしないと本当に死んでしまう気がした。
この期に及んで、一音は死ぬのが怖かったのだ。人間としてあまりに正しい生存本能が、自分を殺しきれなかった。不甲斐なさに涙が溢れる。その温度がやけに熱くて、一音が生きていることを証明するようだった。それが悔しくて、また一粒、涙が頬を伝った。
それから程なくして、一音は日本に帰国した。両親は何も聞かずにいてくれた。でもどこか残念そうな顔をしていたのは、一音の勘違いではないと思う。ようやく楽器を始めた一人息子がこんなことになっては、相当やり切れない気持ちだっただろう。仕方のないことだ。
帰ってからも、元いた教会の小さなパイプオルガンで演奏は続けた。オルガンと一音は一心同体なのだ。そう簡単に離れられるものじゃない。
けれどポリフォニーは二度と弾けなかった。それを弾いたら、また一人に戻ってしまう。この時点で一音のオルガンは実質終わったようなものだった。
教会にはどこから住所を聞きつけたのか、一音宛のファンレターがそこそこの数届いた。どの手紙にも、一音のオルガンが好きで、また聴きたいというようなことが書かれていた。だけどそれは何の慰めにもならない。直接そう言ってくれた人など一人も居なかった。今戻ってもきっと同じだ。内心でいくら一音のオルガンが好きでも、どうせまた目を逸らす。
邪道を堂々と認める勇気もないくせに、それでも聴きたいと願う彼らの厚かましさが理解できなかった。一音が命を燃やしてオルガンを弾くのを、安全域から喜んで見るだけの意気地無しども。どうしてそんな奴らのために、一音が復活すると思うのだろう。
誰も受け容れてはくれないのにそんなことしたくない。そう思うのは我儘なのだろうか。天才なら、何でも求められるまま自分のできる全てを捧げなきゃいけないのだろうか。例えその果てに死んでしまっても、それが天才に生まれた宿命だと?
その死に報いてくれる人が一人でも居るならいい。絶対に目を離さず、一音がオルガンと共に終わるところを看取ってくれるのなら。そうしたら死ぬのも怖くなかった。そうしたら、彼らの望み通り一音は命を燃やして、音色を提供し続けただろう。
欲しがるのなら、火の中にでも手を伸ばせばよかったのだ。一音にそれを求めるからには、そっちも死ぬ覚悟をしてもらわなくちゃフェアじゃない。
だがそんな人は居なかった。だから一音は第一線から退いた。それが現実だ。虚しくて、手紙は全て棄ててやった。燃やさなかっただけ感謝して欲しい。
多分、一音も少しは彼らの期待に応えたかった。それが才を持って生まれた義務だと、それを全うできる自分の才能を、誇らしく思うこともあった。でも結局一音は義務を果たせなかったから、手紙を燃やさないことで痛み分けとしたかったのだ。
やがて一音は何事もなく中学を卒業する。ずるずると生き長らえて、人生は続く。そして春、この幸浜高校へと進学したのだった。
彼と初めて会話をしたのは、入学からおよそ一ヶ月経った頃だった。
幸浜高校では週に一度、講堂の清掃を生徒が行っている。各クラス数名が順番に担当するのだが、今回の担当が一音のクラスだった。名前順で前から指名されたせいで、一音もその数名の内に入ってしまったのである。
一音はできるだけ講堂に入りたくはなかった。何と言ってもここにはパイプオルガンがある。入学式でその姿を目にした時は、軽く目眩がした。一音がこの学校を選んだのは全くの偶然で、パイプオルガンがあることなど知らなかったのだ。ここまで来ると、運命というか因縁を感じてしまう。オルガンから逃げることなどできない。まるでそう示唆されているようでならなかった。
入学式の時は大勢の新入生で埋め尽くされていたが、掃除の時間ともなればがらんとしている。その中に佇むオルガンはやっぱり綺麗で、思わず弾いてみたいという衝動に駆られた。自然とストップの数を数えてしまうのは職業病のようなものだ。
「新川、何ぼーっとしてるんだ?」
ぼんやり眺めていると、同じく清掃に来たクラスメイトに話しかけられた。手に二本の箒を抱えて、その片方をこちらへ差し出している。受け取りながら彼の苗字を思い出そうとしてみたが、どうしても出てこない。
「ありがと。お前、誰だっけ」
「誰、って嘘だろ? 同じクラスだよな!? それに出席番号前後じゃん! お前が一番、俺が二番! それで覚えてないとかないだろ」
彼は驚いた顔で矢継ぎ早にそう言った。ついでに声量が大きくて、その音に引き摺られるあまり内容が全然入ってこない。
「で、誰なの」
「……石爪だよ。本気で覚えてないんだな。俺そこまで影薄い?」
「ううん、うるさい」
一音が正直に言うと、あからさまに石爪はしょんぼりした顔になった。その様子はでかい犬とかに似ていた。因みに一音は特に犬派ではない。
「お前って結構口悪いのな。顔は良いのに」
あーでも王子様って感じの顔でもないしな、とかなんとか呟いて、勝手に納得して頷く。それから彼は一音が見ていたオルガンに目を向けた。
「これオルガンだろ? 入学式で先生が弾いてたよな。――あれ、鳴らない」
手を伸ばし、鍵盤を一つ押す。ゴト、と鍵盤が沈む音だけが僅かに響いた。
「馬鹿。電源押さないと鳴らないよ」
「えっ、これってそういうデジタルなやつなのか」
「今のオルガンは大抵そうでしょ。今どき人力で風を送るオルガンの方が珍しいよ」
「へ〜そんなもんなのか。ていうか、やけに詳しいんだな。もしかして弾けたりする?」
「……弾ける、けど」
目を輝かせる彼に、一音は言うんじゃなかったと後悔した。これでもし弾いてみてとか言われたら大分まずい。
けれど続けて彼が聞いてきたのは、その斜め上だった。
「じゃあさ、ピアノとかも弾ける?」
「ピアノは弾いたことない。でも多分、弾けると思う」
「まじか! なぁ新川、合唱部入らないか?」
唐突な勧誘だ。勢いのよさだけは満点である。ただ引っかかることが一つ。
「この学校に合唱部なんかないよね」
「ないよ! だから作るんだ。ただ伴奏できるやつがいなくてさ。お前が入ってくれたら凄い助かるんだけど、どうだ?」
「入らないよ」
「なんで!」
逆になんで入ると思ったのか聞きたい。その熱意は一体どこから来るんだ。なんて呆れる程なのに、彼の曇りなき眼を見てると若干絆されそうになってしまう。
「なんでって……。そもそも、合唱の何がそんなに好きなわけ」
わざわざ新しく部を作るだなんて相当だ。合唱は部活でもなければやる機会が少ないということを鑑みても、よっぽどである。その想いだけでも聞いてやろうと思って、一音は石爪に尋ねた。
「難しいこと聞くな。う〜んそうだな、通じるとこ?」
「通じる」
「そ。いい感じにハモれた時に、雲間から光が差したりするとこれが最高なんだ。たまたまなんだけど、なんか神様とかに通じてんなって思う」
分からないでもないのが戴けない。感覚的なものだが、だからこそよく伝わる。彼が言っているのは、オルガンで良い和音が響いた時のそれとほぼ一緒だ。でも敢えて一音は否定するような口をきいた。
「そのぐらい、オルガンだってできるよ」
「そうなのか? あ〜確かに、こんだけデカい楽器なら通じそうな気もする。でも一人だろ?」
「……だから?」
一人、という言葉に心臓が跳ねるのが分かった。それは知り合って間もない人間に触れられるにはデリケートすぎる部分だった。
石爪は言葉を選びつつも、朗々とした声で話す。穏やかに話している分には、聞き取りやすい良い声だ。
「祈るのって多分、天国に行きたいからじゃなくて生きたいからじゃん。通じてるんだって感覚が欲しいだけで、連れて行かれたいわけじゃない。けどその時一人だったら、周りに見える人が一人もいなかったら、そのまま死んじゃいそうだ」
死ぬなんて大げさな、とは言えなかった。実際一音はそれで死にかけている。一音が黙りこくっていると、彼は照れくさそうに笑った。
「なーんて、一人じゃ寂しいってだけなんだけどな! 俺はオルガンとか弾けないから、一人ではハモれないし」
「一人って、寂しいの」
一人が怖いというなら分かるが、寂しいと考えたことはなかった。一音の質問に失言をしたと思ったのか、彼は慌てて弁明する。
「あ、ごめん失礼だったか? お前は一人でオルガンやってたんだもんな。それは凄いと思うよ。俺はみんなと歌うのが好きってだけ」
「いや……おれも、寂しかったのかも?」
「ふぅん? じゃあ尚更、一緒に合唱やろうよ。みんなで音楽ってのも中々悪くないぜ」
みんなで音楽。ずっと一人で全ての音を奏でてきた一音には無い選択肢だった。差し伸べられた手に気持ちが揺らぐ。この手を取れば一音は、オルガンが一生弾けなくなるかもしれなかった。
だって何かの一部になるだなんてそんなの、温すぎて抜け出せない。一音は命を燃やしながらオルガンを弾いてきた。そうでなきゃ本物の芸術は、一音の理想は見れなかったからだ。
けれど理想など見れなくとも何ら問題はないのだ。オルガンと出会う前の一音だって、確かに幸福に生きていた。
そのことに気付いたが最後だった。救われてしまう。生きてるだけで良かったのだと、知ってしまう。
「でも、実はピアノ弾けないかもよ。同じ鍵盤でも全然違うかもしれない」
「大丈夫だよ、その時はその時で。合唱の良いところは一人が潰れてもなんとかなるってところなんだ。最悪アカペラでも良いわけで」
最後の悪あがきをする一音に、彼は優しく微笑む。たったそれだけのことが、ひどく恐ろしい。
「じゃあずっとアカペラで歌ってれば」
「確かに! じゃないんだよ。楽曲の幅が狭まるだろ。発声練習だってピアノがあった方が良い」
「そうなんだ」
気のない返事を続ける。もうとっくに心は落ちてるのに、肝心なところで手を伸ばしきれない。
「……やっぱ興味無いか? 合唱」
そうやって渋るふりをしていると、石爪の方が諦め半分の声で言った。ああ、そうだ。こいつは優しい人間だから、一音が手を伸ばさない限り、強引に落としてくれることはない。
ここで縋らなきゃ、自分は、
「待って。……入ってあげてもいいよ、合唱部」
――生涯一人ぼっちだ。
寂しい!それだけだったのだ。一人で全てに成れたって駄目だ。誰かと一緒に居たい。見ていてほしいし、見させてほしい。自分がこんなに寂しがりだったことに驚く。
だがそれよりもっと驚いた顔をして、彼は喜びの声を上げた。
「本当に!?」
「本当。よろしくね、護」
「ああ、よろしくな!」
一音の手を握ってぶんぶんと振り回す。そこではた、と不思議そうに首を傾げた。
「あれ、俺下の名前言ったっけ」
「同じクラスなんだから知ってるよ」
「いやさっきと話違くないか。誰? とか言ってたじゃん」
「下の名前だけ知ってるんだよ。よく周りから呼ばれてるじゃない」
一音が知らなかったのは苗字だけだ。ただ、ほぼ初対面で名前を呼ぶのは違うと思ったから誰?と聞いたに過ぎない。結局一度も、その苗字を呼びはしなかったけれど。
「確かに俺のことみんな名前で呼ぶけど! 苗字だって呼ばれてるだろ。授業中、先生とかに」
「授業中は寝てるから知らない」
「ええ……、まぁいいや。改めてよろしくな、一音?」
ぎこちなく自分の名を呼ぶ彼の声が、一音の心を満たしていく。
「うん。苦しゅうないね」
誰かが言う。一音がオルガンを辞めたのは、自分のせいだと。
それも辞めた一因ではあったのかもしれない。しかし一番大きな要因は、やっぱり一音自身だった。
一人の人間としての幸福を捨てられず、オルガンを弾くだけの生き物になれなかったから。一音はオルガニストじゃなくて、〝オルガンそのもの〟になりたかったのではないかと思う。もしそうなれたら、一人ぼっちが寂しいなどとは思わなかっただろう。
でも一音は人間だった。幾ら天才であろうとも、人間だったのだ。
その日から二度と、一音はオルガンを弾かなくなった。
オルガンを辞めて、合唱部に入って。一音は徐々に全体の一部としての、凡人としての生き方を学んでいった。
合唱部の歌は正直ひどい出来だった。これなら礼拝に来た、寄せ集めの参拝者たちの賛美歌の方がマシなレベルだ。大体、数が足りていない。一人が下手でも人数が集まればなんとかなりそうなのに、それすらできないのだから救いようがない。
でもそれが愛おしかった。オルガンのパイプのようには操れない、不完全な人の声。操れないからこそ一音が演奏を止めても止まらないでいてくれる、意思をもった管たち。
一音の理想の音楽とは程遠いのに、一人じゃない合唱は楽しかった。
部に入ってから約一年、そんな生温いハッピーライフが浸透し、ようやく一音はその振る舞いに慣れ始めた。
その矢先である。一人の人間によって、一音の平穏な日常はぶち壊された。
堤井誠二。こいつと出会いさえしなければ、一音はそのまま余生を満喫できたはずだったのだ。
初めから奴のことは気に食わなかった。ついに得た一音の安寧の場所を荒らしかねない、ピアノができるという新入生。よりにもよってだ。勘弁してほしいと思った。
でも彼の様子を見る限り、あまり入部する気はないように見えた。きっと体験入部が終わったら辞めるつもりなのだろう。だから油断していた。
まさか彼が一音のピアノを聴いて、ピアノを教えてほしいと言い出すなんて、誰が想像できる? 一音にはできなかった。なんだこいつ、意味わかんない。それが一音の最初に覚えた感想だった。
困惑したまま理由を尋ねる一音に、彼は「自分より上手いから」だと言ってのけた。その異様に澄んだ瞳が、彼の内面を物語る。
こいつの判断基準は全てピアノなのだ。その能力が自分より勝っていると分かれば、無条件で平伏する。謙虚に見えて、ちょっと引くぐらいの実力至上主義者だ。ピアノが上手ければどんな嫌な奴でも認めるし、逆に上手くなければその人間に興味すら持たないのではないか。自覚はなさげだが、そういった歪さが彼にはあった。
しかしその歪んだ真っ直ぐさが、何よりも彼を輝かせる本質だった。そうして押されるままに、一音はこいつを受け容れてしまった。
堤井のピアノは、一音の音楽の逆だった。
上手さという点で見るなら、ひとまず聴けないものではない、ぐらいだろうか。ピアノの良し悪しをどこで量るかは知らないが、及第点は優に超していると思う。
その上で一音と逆だというのは、彼のピアノは〝選びきる〟音だったからだ。
堤井の演奏の良いところは、ひとつひとつの音が粒立っているところだった。徹底的に音を選び抜いて純化する。彼はそれが上手い。選ばない一音の演奏とは全く反対のアプローチだ。これを殺さずに一音が得意とする選ばない音の奏法を習得すれば、彼は化けるかもしれない。
だがそれを教える前に、彼がどういうピアニストを目指すのかを知る必要があった。今の彼の魅力を潰さずに逆のものを取り入れていくのは至難の業である。
だから一音は、堤井にどういうピアニストになりたいのかと問いかけた。彼は悩んだ末に、ピアノそのものが好きだから分からないと言った。
好き。そう口にする堤井の声は、彼のピアノの音色と同様にひたすら澄みきっていた。もはや暴力的なまでの純粋さだ。
芸術なんざを好んでやる者には大きく分けて二つのパターンが存在する。
一つは芸術そのものが好きというパターン。
もう一つは、芸術をやって得られる承認欲求を満たすためというパターンだ。
この二つは大抵の場合は共存している。芸術そのものが好きだから認められなくても平気、という人も多少の承認欲求は必ずある。逆も然りだ。承認欲求を満たすために芸術をやっているのだとしても、好きでなければ続けられない。
共存する双方の感情のうち、どちらにより偏っているのか。それが芸術家の方針を分ける、ざっくりとした分類だ。
一概には言えないが、天才と呼ばれるような者たちは前者に偏ることが多い。好きこそ物の上手なれ、的なことである。加えて後者には、最初は好きだから始めたけれど才能がなくて承認欲求に走った、というケースが非常に多い。純粋に好きで居続けるためには、結局それだけの才能が必要になってくるのだ。
しかし時々、才能もないのに好きを貫ける変なやつがいる。それが堤井だ。堤井の行動原理は「好きだから」でしかない。
彼が好きなものがピアノで良かったと思う。もしこれが武器だったりしたら悲劇だ。彼がこんなに自分本位に好きを貫けるのは、彼が選んだのがピアノだったからであり、また才能がないからでもあった。
矛盾するようだがそうなのだ。彼は、その愛でるものが花で、人に害をなす力を持たないから無視されているだけの化け物だった。それが凡人のふりをして人里に紛れ込んでいる。笑えないジョークだ。
いや、実際に無害ではあるのだ。堤井はその才能のなさ故に、角がだんだん取れていったのだと思う。弱いものがこの世で生きていくための進化だ。けれど元の性質は一音と変わらない。ただ己の理想のみを追い求め、そのためなら何もかも踏み付けてしまえる自分勝手な人間。
彼は弱いから自分勝手でも生き残っている。でもこのまま弱いままであれば、ピアニストとして大成することは出来ないだろう。
一音は彼の夢を、彼の「好き」を守ってやりたくなった。自分と似て勝手で、自分と違って弱い彼。その行く末を照らしたい。彼が理想に辿り着けるように。そして辿り着いた時、一人ぼっちにならないように。
失敗した一音に、果たしてそんなことができるだろうか。だが乗りかかった船だ。そうして彼にピアノを教える日々が始まった。
堤井は一音をよく慕っていた。自分でもあまり良い先輩ではないと思うのだが、彼には関係ないらしかった。文句は言っても、基本的に一音がやることには必ず従う。無茶ぶりも何だかんだ全て許してくれる。
それはひとえに、一音が彼よりピアノが上手いからだ。加えてあいつは一音の顔に弱い。
惚れたもん負け、みたいな言葉が脳裏に浮かぶ。ある意味で堤井は一音に惚れ込んでいた。彼が自分に振り回される様は見ていて面白くて、若干からかい過ぎたのは否めない。にしても悪趣味な奴だ。よりによって一音に惚れてしまうだなんて。
そんな関係が変化したのはやはり、一音がオルガンを辞めたことを知られた時だろう。その時から彼の眼差しには、憧れだけでなく執着が混じるようになった。最初は拗らせちゃって可哀想だなとしか思っていなかった。だが次第に、これは笑えないやつだと気付く。
決定的だったのは、合唱コンクールの伴奏をめぐる件だ。
例の日、一音を訪ねて来たのは父方の弟夫婦だった。悪い人ではないのだが少し強引なところがあって、一音は彼らが得意ではなかった。そんな夫婦が主催する、パーティーでの演奏依頼。彼らも音楽に関わる職業に携わっており、そこに集まる人々もまた音楽関係者だ。その中の主賓が、一音のオルガンを聴きたがっていると。そういう話だった。
本来なら両親を交えて話をするところを、一音に直接声を掛けたのには理由があった。というのも恐らく、両親は一音のために一も二もなく断っただろうからだ。そのことを分かっているから、彼らはわざわざ学校まで押しかけて来たのだろう。
一音も、今までだったら間違いなく断っていた。それなのに迷いが生じたのは他でもない、堤井のせいだった。
堤井がピアノに一直線に向かうのを見て当てられたせいか、もしくは彼が熱烈に一音のオルガンに焦がれていたせいか。どちらにしても、一音はオルガンを再び演奏したくなっていたのだ。
一音のオルガンをもう一度聴きたいのは、何も堤井だけじゃない。一音自身だってそうだ。あれこそ自分の理想だったのだから当然だろう。
しかしそうしたら、また一音は一人の世界に舞い戻ってしまうのかもしれなかった。そう思うと、どうしても足がすくんだ。何故ならそれは自殺しに行くようなものだからだ。一音のファンだと言うパーティーの主賓、その周囲に集まる身内に近しい者たち。そこでもし受け容れられなかったら、一音はきっともう駄目になる。
でも、それでもいいから、オルガンが弾きたい。
だから一音は堤井に選択を委ねた。彼は人格より才能を上に置いてしまうような奴だ。〝天才オルガニストである新川一音〟と〝合唱部の伴奏をする一音先輩〟なら、絶対に前者を選ぶという確信があった。
あいつなら一音を、戦場へ突き落としてくれる。そして必ず、一音の死を見届けてくれるはずだと信じていた。
なのにだ。まさか堤井が、あそこまで頑なだなんて予想外だった。
あなたの好きにしてください。散々飢えた目をしておいて、最終的に堤井はそう言った。据え膳を食わないとはまさにこのことだ。一音が無理をするのは嫌だとも言っていただろうか。だが、無理なんかじゃなかったのだ。
彼が望むのなら、一音はまたオルガンを弾けた。一音がもう一度オルガンを弾こうとしたのは、堤井のためでもあり自分のためでもあった。自分や自分の好きな人のために頑張ることに、無理などあるものか。
しかし彼は一音が堤井のために頑張る、その一点に関しては決して許さなかった。
堤井は自分勝手な奴だ。それは間違いじゃないが、堤井は一音にも、というか誰にでも自分勝手でいて欲しいと思っていたのだ。自分の好きに生きて、相手も相手の好きなように生きて、それでもぶつからず一緒にいられる間だけ、一緒に居る。
やっぱり堤井と一音は似ている。何より自己を重んじる、似た者同士。だから何を言っても無駄だと感覚的にわかった。どんなに言葉を重ねても、堤井が一音の「お前のため」を受け取ることはない。
切ないな、と思った。一音は人を振ったことしかないから知らないけれど、振られた時というのはこういう気持ちなのかもしれない。受け取られなかった花束みたいな想いが、じんわりと胸を締めつける。
でもそんな一音に、堤井は「好きだ」と言ってくれた。その時の彼の目を一音は忘れない。ピアノが好きだと語る時と寸分違わぬ、淀みない瞳。
嬉しかった。本当に、溶けそうなくらいに。
オルガンを弾かなくてもいい。彼がそう口にすることの意味の重さを、一音は分かっているつもりだ。あの堤井が、才能よりただの一音を選んだ。これを愛と言わずして何と言おう?求めていた対応とは違ったが、これもまたハッピーエンドである。
全く、ここで終われなかったのが実に悲しい話だ。
彼が一音を好きと言ったのは嘘ではないだろう。ただその気持ちに混ざることなく共存する「死んで欲しい」という彼の二つ目の本心に、一音が後になって気付いてしまっただけだ。
バレンタインの日、一音の手を振り払うように放した彼の顔を見上げた瞬間、その像が二重に見えた。それで知ったのだ。ひたすら純を極めたような彼も、心は一つじゃないのだと。
そう分かった時、一音は傷付くのと同時にほっとした。一音の心もまた、彼と同じく一つではなかったからだ。
一音は堤井にピアノを教えた。それは堤井の夢を叶えてやりたかったのともう一つ、彼に死んで欲しかったからであった。最悪のお揃いだ。今まで隣に居れたのが奇跡だとしか言いようがない。
一音は堤井のことが羨ましかった。その理由は概ね、堤井に悪口として言ったことだ。
恋愛で一番楽しいのは、片想いをしている間だという。芸術もそれに似たようなところがある。完成してしまったら、あとは終わるだけ。
一音のオルガンは早々に完成した。しかし完成した一音の音楽は、その有害性によって世界に受け入れられることはなかった。
もし自分に才能がなかったら。努力によって刃を研ぎ澄ますことのみに生涯を捧げ、その刃を振るうことなく生涯を終えることができたら。
一音のオルガンは最初から鋭く、それを振るうごとに周りを傷付ていった。だから受け入れてもらえなかったのは当然なのである。けれど今でも納得出来ないでいた。
自分の一番愛したものが凶器になったとして、じゃあどうするのが正解だったのだろう? 自分を殺すことが正解だとは思いたくなかった。それを受け流せない人間たちの弱さだって、一音に傷を付けた。彼らが強ければ、一音は刃を折らなくてもよかったのだ。
弱いことを責めたら終わりだと思う。だが彼らの弱さのために己を堕とす、その苦痛すらも否定されたくはない。一音だって人間だ。全人類の弱さを認めてやれるほど強いわけがあるか! そういうのは神の仕事で、一音の義務じゃない。
一音のオルガンが死んだのは、一音が人よりは強く在り、神ほど強くはなれなかったからだった。
対して堤井には才能がない。一音が彼のピアノに手を加えてやらなければ、完成への道はかなり遠くなったことだろう。
彼は一生、理想の音楽へ片想いのまま死んでいける。そんなの許せなかった。片想いは片想いで辛いのかもしれないが、知ったこっちゃない。堤井は一音とよく似た化け物だ。じゃあ同じ道を辿ってもらわなきゃ嘘だろう。
だから一音は彼の音楽を完成させるため、ピアノを教えた。一音が堤井に与えた武器は、その夢を叶えるものであり、尚且つ彼自身を殺すものでもあったわけだ。
――死んで欲しいと思ってる奴の隣には居られない。それは互いにそうだったのだ。
あれから一度も彼とは会っていない。お互いに避け合えば同じ学校でも意外と鉢合わせずにいけるものだった。
でも彼の存在は会わなくても感じられた。今日も音楽室からピアノの音色が聴こえる。姿は見てもいない。けれど確かに彼の音だと分かる。
しばらくは弾いていなかったようだが、少し前からまた音楽室での練習を再開したらしい。おまけに最後に聴いた時より上手くなっている。一皮剥けたというか、どこか吹っ切れたような感じだった。
彼のピアノが好きだ。彼の心をそのまま映したみたいな、不器用で真っ直ぐな音が好きだ。
叶うなら、その成長を見ていたかった気もする。もうあと一ヶ月で、一音は卒業だ。そうなればこうやって陰で聴くこともできなくなる。
彼はこのまま、一音のことを忘れるのだろうか。
堤井は何気に強い奴だ。彼はその選択に一つも後悔などしていないかもしれない。自分のために生き、相手にもそう在れと願っている彼。美しく一貫した、愚直で難儀で可愛い、おれの初めての後輩。
そんな彼にこそ、一音は望まれたかった。
決して相手が自分のために生きることを許さない堤井だから、その信条を曲げて、自分のためにオルガンを弾いてくれと懇願させたかった。一音のオルガンにはそれだけの価値があると証明したかった。
自らオルガンを捨てておいて何を今更、と思われるかもしれないが、自分で捨てるのと他人から要らないと言われるのとでは話が違う。
そうだ。一音は堤井が自分のオルガンを望まなかったことに、実はかなり怒っていたのだ。悲しみが去って、ようやく今そのことを知った。
だっておれは新川一音だ。全人類が求めて然るべき天才オルガニストだ。一音以外に一音のオルガンを棄てていい者などいない。堤井は一音のオルガンの価値を十分に知っている。その上で、敢えて言わせてもらおう。
動画の録音を聴いたぐらいで、新川一音のオルガンを理解できたと思うな。
お前が手放したものの何たるかを、骨の髄まで思い知らせてやる。これは正真正銘、一音の矜恃のためだ。
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