4章

 結果、幸浜高校合唱部は県大会で敗退となった。ほぼ初心者しかいない部で勝ち上がれるほどコンクールは甘くない。そんなことは誰もが分かっていたので、大してショックを受けることもなかった。

 だというのに、部室内は重い空気で満ちていた。理由は簡単である。

 あれから一度も、石爪が部活に来ていないからだ。

 完全に堤井のせいだった。喧嘩のような軽いものであれば、多少気まずくはなれど、部に来なくなるまではいかなかっただろう。けれど堤井が彼にしてしまったのは一方的な断罪だ。

 元より避けられない衝突だったと思う。とはいえ取り返しのつかないことをした、というのもまた事実だった。

 石爪が来なくなってからも、部は一応存続している。毎日集まって彼が作った練習メニューをこなし、彼が選んだ曲を歌う。ただいくらやっても、彼の指導が入ることはない。

 ここまで何ヶ月と部活をしてきたのだ、何をやるべきかは分かる。しかしその進む道が正しいと確信させてくれる指針を、堤井たちは失ってしまった。まるで先生が来ない授業中の教室のように、宙ぶらりんの状態。

 それが動いたのは、コンクールから約一週間後のこと。

 部活が終わって帰ろうとしていた所を、なぜか並本と樹原に捕まえられたのが今である。第二音楽室の奥の教室に連行されるとそこには机が三つ、まるで三者面談かのようにくっ付けられていた。

「堤井くんはそこに座って」

 並本が言うのに従い、大人しく指し示された席に座る。そして並本は堤井の向かいに、樹原は堤井の隣の席に腰掛けた。本格的に三者面談の空気だ。

「昨日護から正式に部を辞めるって連絡が来たよ」

 面談なら先生の席であろう場所に座る彼女が、重々しく口にする。待っていれば石爪が帰ってくるとも思っていなかったが、実際に辞めたと聞かされるとしんどいものがある。

「そこでだ堤井。お前、あいつと何かあったのか?」

「護に聞いても、ふわっとしたことしか答えてくんなくて! じゃあもう堤井くんに聞くしかないでしょ」

 樹原の言葉に重ねて、並本は机に突っ伏しわめくように言う。そういえば彼らは石爪の幼なじみだ。彼らに石爪はなんと説明したのだろう?並本と樹原には悪いが、堤井だって全部を説明できる気はしない。するつもりもない。これ以上自分の醜い感情を晒すのはごめんだ。

「石爪部長は、なんて?」

「堤井との方向性の違い、だと」

 思ったよりもふわっとしていた。これは堤井に説明を求めたくなるのも仕方ない。もっと上手いこと誤魔化せばいいのに、石爪は誠実なんだか不器用なんだか分からない。

「なんなのよ方向性の違いって! テノールくん達はバンドでも組んでたわけ?」

「おい、あんま問い詰めてやるなよ。色々あんだろ、色々」

「色々って何よ」

 堤井を庇う樹原のことを、並本が睨みつける。樹原はそれに気圧されながらも、どういう訳か少し面映ゆそうに頬をかいた。

「ほらその……好きな奴が被ったとか」

「は?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。何を言い出すかと思えばとんでもないことを! それじゃあ堤井と石爪が一音をめぐって争ったみたいじゃないか。いや、あながち間違ってはいないかもしれないけれど。あれをそんな安っぽい言葉でまとめられては困る。

「そうなの?」

「違います!」

 真偽を確かめようと尋ねてくる並本に、慌てて否定する。こんな風に思われるのは石爪だって不本意だろう。

「え〜違うんだ。失恋して護があんなになってんだったらめっちゃ面白いと思ったのに」

「お前性格悪いな」

 しみじみと樹原が言う。並本はどこ吹く風で、にやにやと笑うばかりだ。堤井も彼と同様に「あんなになって」はいるだけに、面白がられてしまうと居た堪れない。石爪が失恋したのだとしたら、堤井も同じだった。あの勝負に勝者はいない。どちらも望む形の一音のオルガンを得られなかった、哀れな敗者である。

「ま、なんでもいいけどさ。でもそれって、そんな拘らないといけないことだったん?」

 軽い口調だった。しかし先程の笑みはどこかへ消えている。その代わりに見えたのは、彼女の静かな怒りだ。

 並本が怒るのはもっともである。石爪が作った部なのに、彼が追われるように出ていくなんておかしい。それに彼女にとって彼は幼なじみなのだ。納得いくはずもないだろう。

「……馬鹿だってことは分かってます」

 本人の与り知らぬところで部外者同士が刺し違えるような、無意味だと思っていたことをついに堤井たちはやってしまった。愚か以外の何物でもない。

「ほんとにね。あたしと智雪だったら、もし好きな人が被ってもこんな風に縁切ったりしない」

「だから別にそういうんじゃ」

「うるさい。譲れないものって意味では一緒でしょ」

 堤井の反論を一蹴し、彼女は大きくため息をついた。

「なんていうかさぁ、その気持ちと比べて、みんなで仲良くいたいって気持ちは勝たなかったの。このまま譲らなかったら今までの関係性崩れちゃうなとか、考えなかったの」

「それは、」

 何も言い返せなかった。そんな自分に堤井は打ちひしがれた。

 いつだって堤井は、自分を曲げようとはしてこなかったのだ。石爪に対して抱く申し訳なさなど、ただ後付けされた感情でしかない。彼の気持ちを分かったふりをしているだけでその実、自分の譲れないもの、一音のオルガンを守るためならいくら石爪が傷付こうが構わなかった。

 そしてそれと同じだけ、石爪に傷付けられても良かった。しかしそうはならなかった。彼は決して堤井を傷付けようとはしなかったからだ。

「俺は堤井の気持ちも分かるぜ? 仲良しとか捨てて、戦わなきゃなんねぇ時があんだよ」

「その戦い方が極端だって言ってんの! こんなん喧嘩ですらないじゃん」

 一拍置いて、彼女は冷静に続けた。

「譲れないものはあると思うよ。でもさ、守るために敵対するもの全部潰していったら、結局何も残らないんだよ」

 ずしんと胸に重りが落ちたようだった。

 全員が全員、自分のために生きられるわけじゃない。他の誰かを傷付けてまで自分のために生きることに、平気でいられる人ばかりじゃなかった。傷付け合うから離れる、ということが何より耐えられない人もいる。それを堤井は知っているようで、知らなかった。

 そんな優しい人に宣戦布告して刃を振りかざしても、刃が返って来ないのは明白だ。だから一方的だったのだ。互いに戦う意思がなければ喧嘩など起きない。

 自分はなんて浅はかで、子どもなんだろう。優しい石爪がここから去ってしまったのに、こんな汚い自分が残る資格などない。

 堤井は覚悟を決めて口を開いた。

「俺、合唱部辞めます」

「あ〜それはやめて。じゃない、辞めないで。ややこしいな」

「え……なんでですか」

 あっさり否定されて拍子抜けしてしまう。必死の覚悟だったのに肩透かしを食らった気分だ。

 そんな堤井を見て、並本は得意げに笑ってみせた。

「護から言われてるんだ。来年までは智雪に部長を頼むけど、その後は堤井くんにお願いしたいって」

「あいつ喜んでたよ。堤井は合唱すげぇ上手くなったってさ」

 ぐっと唇の端を噛む。そうしないと何かが溢れてきてしまいそうで駄目だった。石爪が堤井をそんな風に思っていただなんて知らなかった。誇らしさとやるせなさで胸が詰まる。どうしてこうも彼は優しいのだろう?彼は最後まで部長として、堤井を見てくれていたのだ。

「ここにいても、いいんですか」

 情けなくも声が震えた。けれど彼らは、そんな堤井を笑ったりはしなかった。

「いいよ。てか一音がいるとは言え、あいつにピアノ任せるとまともに練習できないからね」

 それに、と彼女は続ける。

「堤井くんだって、もう合唱が好きなんでしょ?」

 そうだった。ただ一音のピアノに吸い寄せられて部に入って、なんとなく義務感でやってきた合唱。それが今ではちゃんと楽しくて、真剣にやりたいことになっていた。合唱をしなきゃ得られなかったものだってある。だから堤井は、まだこの部にいたかった。

 俯くように頷いた堤井の肩を、樹原が叩く。

 一音もこんな気持ちだったのだろうか。一人でオーケストラができてしまう彼も、一人じゃできない音楽のどこかに惹かれて、ここに居続けているのかもしれない。

 一音はここにいるべきじゃない、と石爪は言った。そして堤井はそれを否定した。しかしあと一年と半年ほどで、彼は高校を卒業する。否応なく、合唱部という居場所を失うことになる。そうなった時、一音はどうするのだろう。音楽を続けるつもりなのか、はたまた辞めてしまうのか。

 彼が望みさえすれば、ピアノでプロになるというのも可能だろう。だが想像してみる。未来の彼がピアニストとして世に出て賞賛されることに、堤井は耐えられるだろうか。彼の天分はオルガンにあるのに、それを知らずして彼のピアノこそが至高と称える人々を、認められるだろうか。

 ――無理だ。そんなこと、考えただけで反吐が出そうになる。歪められた彼の像が持て囃されるだなんて、彼のオルガンが再び蘇るのと同じぐらいグロテスクだ。

 そうなる前に全部奪ってしまえ。脳内でそう囁く声が聞こえる。自分が望む至高の新川一音は過去にしかない。ならばもう、全て終わらせてしまえばいいじゃないか。

 こんなできるはずもないことが頭を過ぎるぐらいには、堤井は一音に狂わされていた。彼が生きている限り、恐らく一生そうなのだろう。

 一音死んだら堤井は多分、ほっとする。そうなれば堤井が彼に干渉する余地は完全になくなるからだ。彼の存在しないこれからに期待せずに済む。

 グロテスクだと断じておきながら、堤井は未だに、彼のオルガンが復活することを諦めきれずにいた。こんなことならゾンビみたいだろうが蘇らせることを選び、さっさと完璧なまでに失望してしまった方が楽だったかもしれない。

 最後のページさえ決まれば、そこから気に入ったページだけを切り取るのは簡単だ。逆に最後が決まっていなければ、その先にもっと素晴らしい人生がある可能性を捨てきれない。全てを愛せる可能性を前に、切り取ることを躊躇ってしまう。

 つまり人生を切り取ることは、その人生が終わって初めてできるようになるのだ。ベートーヴェンやモーツァルトの晩年など知らずとも彼らの遺した作品を賞賛できるように。

 絶対に手の届かない者に対する、身勝手で一方的な愛。堤井は早くそうなりたかった。だからどうにもできない場所に彼を追いやりたかった。だから新川一音に、比喩でもなく死んでほしかった!

 堤井はこれから一生、彼が死ぬまでずっと、この狂気と共に歩き続けることになる。途方もない生き地獄だ。

 それでも絶対、こんな地獄を歩いていると彼にだけは知られないように。これが知られた時がきっと、堤井と一音の本当の終わりだ。


 すっかり日が落ちるのも早くなった。夏は部活が終わってからもまだ明るかったのに、今は六時を回ればもう夜だ。肌寒い風に身を縮こまらせる。

 今日は二学期の終業式だった。そして尚且つクリスマスイブでもある。クラスの何人かは教室に残り、持ち寄ったお菓子で簡易的なパーティーを開いたりなんかしていた。堤井はそれを横目にただ部室に向かっただけだが、浮き足立つ雰囲気は学校のそこかしこから感じられた。

 そう、今日ばかりは宗教とかは関係ないのだ。だから勢いに任せていけると思った。いま堤井がいるのは、学校近くの教会の前。いつか一音にパシられてコンビニに向かう道中見つけた教会だ。堤井はある意味での正しい聖夜の過ごし方を、十六年の人生で初めて実践しようとしていた。

 一度教会のパイプオルガンを聴いてみたかった。一音のオルガンに出会ってから、色んなオルガニストのCDを買ってみたり、コンサートに足を運んだりした。彼の音を上書きするものを捜す、涙ぐましい悪あがきである。これもその一環だ。パイプオルガンはキリスト教と密接に関わりのある楽器だと聞く。ホールなどではない室内で、賛美歌と共に聴く音はきっとまた違うはずだ。今度こそ、一音を超えるものに出会えるかもしれない。

 けれど心のどこかで分かっていた。多分、何を聴いたって一音が作った穴を埋めることはできない。思い出補正に似たようなものもあるのだと思う。一音のオルガンは最高だが、現役トッププロの演奏を超えるかと言われれば微妙なところだろう。なのに堤井が一音のオルガンだけに拘り続けるのは、初めて聴いたのが彼の音だったからだ。最初に見たものを親だと信じ込むような、盲目的で愚かなこと。でも一度そう信じてしまったら、他の何でさえも代わりにはなれない。親は一人だ。それが過去の動画の中にしかいない、肉眼で捉えることが叶わなかったものでも、ただ一つの光だった。

 教会の中に入ると、すぐにオルガンの音に迎えられた。式が始まるまでの間に前奏として弾いているのだ。ガウンを着た教会の人に、初めて礼拝に来たことを告げる。そうすると式次第と貸出用の聖書を手渡されたため、それを持って堤井はできるだけ端の目立たない席に腰を下ろした。

 暗い堂内にキャンドルの光が揺れる。こんなシチュエーションで聴くオルガンの音も結構良いものだ。決してコンサートのような派手な音ではないが、程よい緊張感が厳かな気分にさせてくれる。しかし案の定というか、一音のオルガンの代わりになることはなかった。

 燭火礼拝と呼ばれるこのクリスマスイブに行われる礼拝は、主に聖書朗読や牧師の説教で構成されていた。そこに時おり賛美歌が挟まり、参列者全員で立って歌う。《きよしこの夜》なんかは、テレビなどで聴いて少しは馴染みがある。だがその他の曲は知らないものがほとんどだった。堤井も楽譜を見ながらそれとなく歌うが、合唱部員の歌としては褒められたものじゃなかった。

 合唱の起源は八世紀、《グレゴリオ聖歌》というカトリックで生まれたものらしい。これは単旋律の歌であり、今日の合唱のようなハモリがあるものとは異なる。それから時が経ち、九世紀に「オルガヌム」と呼ばれる多声詠唱法が登場した。このオルガヌムが単声だったグレゴリオ聖歌を発展させていき、現在の多声合唱の形に至るわけだ。

 オルガヌム、の名からも想像できるように、Organum(オルガヌム)とOrgan(オルガン)の語源は同じである。その語源はOrganon(オルガノン)といって、「道具・器官」を意味するギリシア語だ。

 流れとしては、まずふいごを使った機械道具の側面を持つ楽器がオルガンと名付けられ、そのオルガンの多声性を引用して多声詠唱法をオルガヌムとした、と考えられる。

 要するに、語源の近さから見ても合唱とオルガンは似ている。違いと言えば、鍵盤に合わせて鳴るのがパイプなのか、もしくは人体から出る声か、という点のみだ。つまるところ新川一音はずっと同じことをやっているのだった。けれど人の声は、パイプのようには操れない。いくら伴奏が優れた奏者であっても、そこに乗る声が、音の出処である人体が歌に適したものでなければ台無しになる。そしてうちの合唱部は、一音の伴奏を活かせるほど優れた声を持ってはいないのだ。なんならどこの合唱団でも、一音の想定する音を出せはしない。なぜなら人体は楽器ではないからだ。

 彼の完璧な音楽に人の声は不要だった。しかし彼という人間には、共に立つ人間が必要だったのかもしれない。その弱さが悲しかった。不完全な人の声に頼ってしまうほど、彼は弱いのだ。

 こうやって歌っていると増して強く、それを実感してしまう。人間である彼を愛しながら、そこに甘んじる彼を許せない自分が憎い。できることをやらなくても、生きているだけでも、人は許されるべきなのに。

 堤井は一音に生きているだけでいいとは言ってやれなかった。いま彼が生きているのは余生だ。穏やかなその余生を見て愛おしく思うこともある。でもやっぱり認められない。オルガンを辞める時が自分が死ぬ時だと、オルガンと一心同体である彼だけには、そう言って欲しかった。奇しくもそれを全うできるだけの才能を、新川一音は持ってしまったのだから。


 《エサイの根より》という賛美歌を歌ったあと、牧師はこう語った。

「ここに歌われる〝エサイ〟とはダビデ王の父のことです。神はダビデと彼が治めるイスラエル王国に、永遠に続く王座を約束をされました。これがダビデ契約と呼ばれるものです。しかしのちにイスラエル王国は南北に分裂し、北のイスラエルは滅亡、南のユダ国もバビロン帝国によって滅ぼされてしまいます」

 大きなスクリーンに、彼が話す内容がイラストと共に示される。ここが教会でなくて話しているのがガウンを来た牧師でなければ、学校でやる世界史の授業みたいだ。テストに出るということもないので気楽に、話半分に堤井はそれを聞いていた。

「一見、神がダビデに誓った、永遠の王座の約束を反故にしたと思われるかもしれません。ですが神はイエス様をこの世に遣わしてくださいました。イエス様はダビデの子孫であり、イエス様がイスラエルと人類を救う救世主となって約束は果たされたのです。切り倒されたイスラエルという根株から、エサイの根から生い出でた新芽こそが、イエス様でありました。そしてその誕生を祝うため、アドベントでは《エサイの根より》が歌われることが多いのですね」

 切り株から花が咲くことのどこが救いなんだよ、と堤井は思う。イスラエルが一度でも滅んでしまったなら、神は約束を果たせなかったも同然だろう。後からいくら手を差し伸べられたって、全部が元通りというわけにはいかない。折れた木から生えた新しい芽がどれだけ素晴らしいものだとしてもだ。

 人はいつか死ぬし、新陳代謝は個人としても集団としても必要不可欠である。ただ永遠と呼んだ限りはその言葉のまま不変であるべきじゃないか。

 これで約束を守ったことになるのなら、この世界の約束に意味などない。何もかもが中途半端だ。だがこの中途半端さが、寛容さというものだったりするのだろうか。だったら堤井には寛容さが足りていないことになる。そしてそれは多分、本当にそうなのだ。


 礼拝が終わり立ち去ろうとすると、その背中に向かって声が投げられた。

「その制服、幸浜の学生さんですよね」

 四十過ぎぐらいの牧師だ。顔の若々しさに反して頭は白髪混じりで、グレーがかっていた。確かオルガンを演奏していたのが彼だったはずだ。それがなぜ、堤井に話しかけてきたのだろう。やや訝しむように堤井は応える。

「そうですが、何か?」

「いえね。うちのオルガンの生徒だった者に、幸浜高校に進んだ子がいるもので」

 瞬間、息が浅くなるのが分かった。ピアノならまだしもオルガンを習ってる人間などそう多くない。

「それってもしかして」

「新川一音くんというのですが、ご存知ですか?」

「……はい、同じ部の先輩です」

 やはりそうだった。世間は思っていたより狭いらしい。図らずも彼のルーツを探り当ててしまうだなんて、どういう巡り合わせなんだと叫びたくなった。運が良いのか悪いのか、恐らく悪い方な気がする。

「ああ、通りで少し見覚えがあると思ったら! 合唱部の方だったんですね。私もあのコンクールを見に行きました。いい歌でしたね」

「それは、ありがとうございます」

 礼をしながら、彼とオルガンを見比べる。この教会のパイプオルガンはそこまで大きくはない。装飾もシンプルで、どちらかというと素朴な印象を受けるものだった。これを見て堤井はどんな感慨を覚えるべきなのか悩ましい。意外だとも思うし、しっくりくるとも思う。一音に似合わないオルガンなんか存在しないため、逆にその像が不明瞭なのだ。

「一音先輩は、ここに通っていたんですか」

「ええ。といっても、クリスチャンだったわけではありませんが。彼のオルガンを聴いたことは?」

「動画の中だけでなら」

「そうでしたか。学校でも、弾いてはいないのですね」

 彼のやつれた表情から見えるのは、堤井と同じ色だった。あるいは石爪と似た目。失ったものに焦がれ続け、疲れきった目だ。

 そろそろ頃合だろう。新川一音がオルガンを辞めた原因、それを知らなければ折り合いのつけようがない。知ったところで折り合いがつくかと言われれば不確かだが、それでも知らないままよりは遥かに良い。

「あの、無理のない範囲でいいんです。一音先輩に何があったのか、教えて頂けませんか」

 ここで出会ってしまったのも運命だ。そんな思いで目の前の牧師を見つめる。

「……いいでしょう。私もずっと誰かと、彼の話をしたかったんです」

 逡巡の後、彼は神妙に頷いた。窓が風に煽られて微かに音を立てる。これから知る事実は堤井を救うだろうか? それとも更に深い暗闇に落とされるだけだろうか。

 立ち話もなんですから、と言って彼は堤井を椅子に座らせた。小さな間接照明とキャンドルの灯りだけが堂内を照らしている。静かだった。これが日本家屋だったりしたら怪談話でも始まりそうな雰囲気だ。

 そんな中牧師は訥々と、彼の過去を語り出した。

「一音くんは天才的な奏者でした。中学からここでオルガンを学び始めて、一年もしないうちにプロ顔負けになった。元々ピアノもやった事がなかったというのに、異常な速度でオルガンを極めていったんです」

 そこで牧師は顔を曇らせた。その先にある言葉が堤井には分かってしまう。

「でも彼は、辞めてしまった」

「そう。私は昔のつてを頼って、彼をドイツへ留学させました。今思えば、それがいけなかった」

 留学していたらしいことは、石爪からも聞いたことがある。重要なのはこの時に何があったかだ。ドイツ。ピアニストとしても憧れる、音楽の歴史が深い国だ。中学生で留学というのは相当思い切ったことだが、彼の実力なら世界にも通用するだろう。よくあるレベルの違いを思い知ったから、みたいな理由で辞めたりはしないはずだ。

「ヨーロッパに比べれば日本のオルガン文化など些末なものです。一流のオルガン奏者として認められるためには本場での実績が必須になります。そこで受け入れられなければ無価値も同然。だから彼の才能を埋もれさせないために、彼に世界を見て欲しかった。それが一音くんと出会った私の使命なのだと、そう思ったのです」

 確かにオルガンは日本ではあまりメジャーな楽器ではない。音楽をやっている堤井でも、それがどんな楽器なのかは曖昧なイメージしか持っていなかった。対してヨーロッパでのオルガンは、そこらの教会に必ず一台はある、庶民にも馴染み深い楽器という位置付けだ。その分学習環境が整っているだろうことは想像できる。

「オルガンにはある意味での正解があります。長らくキリスト教と共に発展してきた影響もあって、神に捧げる音楽だという意識が色濃く残っている。こんなに自由な楽器なのに、神に対する作法に縛られるなんてもったいない。彼はしきりにそう零していました」

「それは、一音先輩らしいですね」

「そうでしょう? 仮にも神に仕える身である私の前で、そんなことを言うのだから困りましたよ」

 彼の表情が和らぐ。懐かしそうに細められる瞳には、かつての一音が映っているのだろう。オルガンを辞めた後の一音しか知らない自分でも、その不満げな様子が目に見えるようで笑えてくる。一音はずっと変わってはいない。ただオルガンを辞めてしまっただけだ。それが堤井にとってあまりに大きい事実だったという、それだけの話。

「とはいえ信教は自由ですから。けれど彼の思う神は、私達が思う神とは――いえ、どの宗教とも、違うようでした」

「というと?」

「一音くんにとっての神は、彼自身なんです。理想の彼、と言った方が正しいでしょうか」

「理想の、彼」

 なんだか随分と観念的な話になってきた。自分はちゃんと呑み込めるだろうか。一言一句読み違えないように、堤井は牧師の言葉に集中した。

「彼にとってオルガンは、理想の自分を顕現させる道具だった。彼はオルガンを弾くたびに、自身の内にある神との逢瀬を楽しんでいました。傍から見れば、彼自身が神になったようでしたよ。お恥ずかしながら私も、あの子が神のように見えたことが何度もありました」

 大体の芸術は自己表現の側面が強い。一音はオルガンを演奏することによって理想の自己を表現し、そこに神を見たというわけか。常人には理解の及ばない範疇だが、神の如き天才だった新川一音にはそういうこともあるのだろう。

 実際、動画の中で見た彼も常軌を逸した神性をまとっていた。あれが堤井たちと同じ人間とは思えなかった。それはもしかしたら、彼自身でさえそうだったのかもしれない。オルガンを弾く時だけ、ただの人間の彼は神になれる。

「しかしそれが許されると思いますか?神を賛美する楽器で、己の中に神を見出すような行為が。少なくとも、ドイツのオルガン界は認めなかった。そして彼は追い出されるようにして日本に帰ってきました」

 続く牧師の言葉に、堤井は唖然とした。そんなことで? たったそれだけのために、一音はオルガンから遠ざけられてしまったのか。内心の信仰がどうであれ、彼の演奏は認められるべきだ。それぐらいの価値が一音のオルガンにはある。

 だから堤井は、今更言ってもどうにもならないと知りつつ反論した。やり場のない怒りをぶつけるように吐き捨てる。

「けど彼の実力は本物です。そんな曖昧なもので、あの才能を手放す方がよっぽど損失じゃないですか」

「本物だからこそですよ。赤子が十字架を踏みつけたって誰も気にしません。彼の演奏が魅力的で、これまでのオルガンを揺るがす危険性があったからこそ、彼は排斥されたんです」

「危険って、たかが音楽でしょう」

 たかが音楽。その音楽に人生を捧げ、狂わされている人間が言うことではない。それでも納得がいかなかった。音楽は、芸術はもっと開放的ななものではないのか? 堤井が無宗教だからそう思うだけなのだろうか。

「そう言いたくなる気持ちはもっともですが、実際に聴いてみれば危険というのが大げさではないとお分かりになったと思いますよ」

 牧師の言い草に、誤って彼を睨んでしまいそうになった。〝堤井にはその機会が与えられなかったのに〟なんてお門違いな悔しさを覚えたせいだ。

 生で聴いてないからって、堤井の執着が軽いものだとはされたくない。むしろ聴けなかったからこそ、こうも執着が加速したと言ってよかった。だが直接彼のオルガンを聴いた人からそう言われたら、この感情が嘘のように感じられてくる。

 危険でもなんでもいい。堤井はその音が聴きたかった。それをこの世から奪ったのはお前らだろう。お前らが堤井みたいな人間を産んだのだ。なのに偽物の感情とばかりに軽く扱うだなんて酷い。そして同時に、死ぬほど羨ましい。

 渦巻いた嫉妬心を押し殺し、堤井は尋ねる。

「誰も彼を支持する人はいなかったんですか」

「いえ、隠れた支持者は多くいました。教会オルガニストとして彼の演奏に反発した者たちでさえ、その技巧には魅了されるばかりだった」

 恍惚を滲ませながら彼は答えた。彼の中にはずっと一音の音が生き続けている。そこに堤井は自分の末路を見た気がした。

「だから余計に、恐ろしかったのだと思います。悪魔が魅力的でないのなら、誰がその誘惑に乗りましょう? ただの観客たちも同じです。彼の持つ魔力に惹かれながら、彼の爪がこちらに伸びるのに脅えていた。それでも目を逸らせないほどの圧倒的な力を持っていたのが、新川一音というオルガニストでした」

 神から悪魔へと変じた新川一音。ご大層な表現だが、オルガンという楽器の力はそのぐらい凄まじいものだった。この楽器の王は時に、人には到底背負えない力を与えてしまう。たった一人で全ての音を担おうとするのがそもそも間違いなのかもしれない。でも一音には出来てしまった。果たして彼は一人になったのだ。

「……観たい人はいても、見られたいやつはいない」

「それは一音くんの言葉ですか? つまりはそういうことですよ。竜巻の威力に目を奪われたとしても、巻き込まれて死にたくはないですから」

 ようやく腑に落ちた。彼は災害だった。それも並外れて美しい、人々を死に至らしめる災害。堤井はその爪痕に恋をしていた。

「ですが、今はこうも思うんです」

 そこで牧師は一度言葉を切った。

「それで彼が一人になってしまうぐらいなら、巻き込まれて死んでやれば良かった。……なんてね」

 ここにも一人、新川一音に人生を狂わされた人間がいる。怖い、と思った。堤井にも彼の気持ちが分かるからだ。こんなの、いつ正気でいられなくなるか分かったものじゃない。でもまだ否定させてほしい。いつか堤井が正気を失って、否定できなくなるその日までは。

「そんなことをしても、彼は喜ばなかったと思います」

「おっしゃる通りです。でも結局、彼のオルガンは失われてしまった」

 牧師の声は、静まり返った教会に浸透するように響いた。彼はここで何度、この懺悔を唱えたのだろう。


「もしかしてそれ全部、チョコレートですか」

「そうだよ」

 なんともなさげに返す一音の手にあるものは、ラッピングされた箱などが溢れんばかりに詰まった紙袋だった。

 今日はバレンタインデー。中学まではお菓子の持ち込みは禁止だったため、こんな光景を見ることはなかった。だが高校だってこの量を貰うのは都市伝説レベルだろう。帰る間際、ロッカーからこれを取り出すのを見た時はぎょっとした。並んで歩くのが嫌すぎる。ちなみに堤井は、合唱部の女子から申し訳程度の義理チョコを貰ったぐらいだ。それも嬉しいけど、一音のものとは質も量も段違いである。

「あんたってモテるんですね……」

「当たり前。顔が良くて運動もできてピアノが弾けるんだよ? モテないわけがないでしょ」

「その性格でさえなければ、納得はできます」

 堤井の前で申し訳程度にピアノを扱いやがって、とかこの人運動できるんだ、とか色々気になることはあるが口にはしなかった。全部に突っ込んでいくのはしんどい。そのため堤井は、一音の自信満々で謙虚さの欠片もない性格に言及するに留めた。

「分かってないなぁ堤井は。おれぐらいになると、正直な方が角が立たないんだよ。お前も好きだろおれのこと」

 最高に鮮やかな笑顔でそう断定してくるものだから、一瞬反応が遅れた。

「俺がいつ、あんたのことが好きだって言いました?」

「言ったじゃん。嘘だったの?さいてー、結構キュンときてたのに」

 そんな恨めしい目で見られても。キュンときてた、だなんてそっちこそ嘘つきのくせによく言う。

 記憶を辿ってみればそんなことを口走ったような気もする。気がするどころじゃない、確実に言った。しかもかなり真面目なトーンで。

 あれは一音のオルガンを選ぶか合唱部の伴奏を選ぶかの瀬戸際に立たされた時だ。「一音のオルガンが好きだが、一音自身のことも好きだ」的なことを堤井は彼に言ったのだった。今思えばかなり恥ずかしい。

 だがあの時の言葉を嘘だとは思われたくなかった。あれが嘘になった途端に今まで築いてきた関係は崩れ去る。簡単に照れ隠しで否定していいものじゃないのだ。

「嘘じゃないです、言いました。言いましたけど!」

「信用ならないな。もっかい言ってよ」

 完全に堤井をからかうつもりでいる一音の様子に絶望する。顔が火照ってくるのに、吹き付ける風は異様に冷たい。なんでバレンタインという日にこんな先輩に告白しなくちゃいけないんだろう。一音が求めたからだ!堤井はこの人にどうしても抗えない。こうなったらもうやけくそだ。

「…………好きです…………」

「あは、そんなこの世の終わりみたいな顔で告白されたの初めて」

 告白されたこと自体はあるのかよ、と思ったがそれはそうだ。彼の持つチョコレートの量が示している。

 でも彼が告白を強請ったのは堤井だけだと考えると、それこそキュンとくるものがあった。一音自身と彼のオルガンの間でグラグラと動かされてばかりだ。どちらも一音ではあるので余計に質が悪い。

「で? その大好きなおれに渡すものは?」

「ないですよ。てかそれだけ貰ってるのにこれ以上要ります?」

「……要らないね!」

「あっそう」

 つかの間悩んでから、彼ははっきり、要らないと言ってのけた。世のモテない人間全員から恨まれてしまえばいい。

 でも、どうせなら全部求めてくれたって構わないと思う。要るか? と聞きはしたが、こんなに大量だったらあと一つ増えるぐらい誤差の範囲に違いない。むしろ受け取られない方が特別感がある気さえする。どのみち渡せるものなど持ち合わせていないのだけれど。

「なに。お前のが欲しかったんだよとか、そういう殊勝なこと言って欲しかった?」

「勘弁してください。絶対言われたくない」

 そんなことを言われた日には解釈違いと純粋な喜びで一晩中転げ回る羽目になるだろう。これ以上一音に情緒を滅茶苦茶にされてはたまらない。

 全力で嫌がる堤井に、彼は訳知り顔で頷いた。

「うん、堤井はそうだよね。お前の意を汲んでやってるんだから感謝しなよ」

「それもそれで嫌だな」

「要求が多い。お前って本当に欲張りだよ、自覚あるの」

「一音先輩よりは謙虚なつもりですよ」

 堤井は一音に求めるものが多い。それは弁明しようのない事実だ。しかしその代わりに、彼が自分の持ちうる全てを奪うことも堤井は許している。一音は求めなかったが、彼が望むなら貰った微量の義理チョコだって捧げたかもしれない。

 堤井が彼に何を求め何を与えられたとしても、堤井が得たものは一音のものにしていい。だから堤井は、謙虚で模範的な信者なのである。

「どうだか。 うわ、見て堤井。バケツの水が凍ってる」

 突然そう言って彼は、グラウンド横の洗い場に放置されたバケツを指さした。見ると表面だけが薄く凍り、光を反射している。

 彼がバケツへと手を伸ばす。白い指が凍り付いた水面に触れるのを見て、ほとんど弾かれたように堤井はその手を掴んでいた。

「ちょっと、何やってんですか!」

 冷えきった、でも相応に人間らしい温度。指先は氷に触ったせいで少し濡れている。その感触を認識した途端、物凄く――気持ち悪くなってしまった。

 自分から掴んでおきながら、振り払うようにして手を放す。急に放された彼の手が重力に従って落ちた。一音はただ目をぱちぱちと瞬かせて堤井を見つめている。その視線を浴びてやっと、堤井は我に返った。

「あ……すみません」

「過保護。ガラスじゃないんだから怪我なんかしないよ」

 堤井の謝罪内容とはちょっとずれた彼の返答に胸を撫で下ろす。

 氷は割れてはいなかった。意外と分厚かったようで、綺麗にバケツに沿った円盤状のまま浮かんでいる。怪我なんかしない。その通りだ。堤井は何がそんなに怖くて、咄嗟に彼の手を掴んだりしたのだろう。

「そう、ですよね。それよりあなた手冷えすぎじゃないですか」

 あたかも彼の手が冷たすぎて放したのだというように話を逸らす。

 けれど事実としてびっくりするぐらいに冷たくはあった。あそこまで冷えているのは鍵盤奏者としてどうかしている。こんな指じゃピアノもオルガンもまともに弾けないだろう。

「こんなもんでしょ。堤井の手が熱すぎるんだよ、ずっとカイロ握ってるの?」

「冷えて指動かなくなると困りますから」

「手袋とかすればいいじゃん」

「手袋は苦手なんです。なんか覆われてると自分の手じゃないみたいで」

「は〜〜、よく分かんないね」

 やれやれといった風に首を振ってから、一音は小さく呟く。風の音にかき消されそうなそれは、けれど堤井の耳にしっかり届いた。

「生きててごめんね」

 息が止まった。一音は何を思って、こんなことを口にしている?

 堤井にとってその台詞は、死ねと言われるよりも死刑宣告に近いものだ。生きててごめん、なんて絶対、新川一音には言わせたくなかった。

「…………何言って、」

 寒さごときでは誤魔化せない震えが声に乗る。ここで彼がなんと答えるか次第で、二人の終わりが決まる。

 しかし一音は、底抜けに明るい声で言った。

「お前の手入れされた指より、冷えてカチカチになったおれの指の方が動くからさ。こんな天才が生まれてきちゃってごめん!」

「もう、あんたなんか知りません」

 彼はもう、堤井の気持ちを察している。きっと堤井が手を放した瞬間に悟ってしまったのだろう。一音が後に続けた言葉の薄さと言ったらない。そんな言葉を鵜呑みにできるほど、堤井だって馬鹿ではないのだ。

 それでも、堤井たちが踏む薄氷はまだ割れなかった。今まで凍らせ続けてきた氷は強固だ。だが入ってしまった罅は致命的で、二人の死期を早めてしまったこともまた確かであった。


 その夜堤井は、体に氷片が突き刺さった一音が死ぬ夢を見た。夢は願望だという。

 でも目覚めてそれが夢だと分かった時、堤井は心の底から安心したのだ。それだけは、誓って嘘じゃない。


 早いもので一年が終わる。通知表を返却されたばかりの教室は、がやがやとして騒がしい。

「よっしゃ留年回避! まじ危なかった〜」

 田中が嬉しそうにガッツポーズをして言う。堤井もなんとか欠点をとらずに乗り切ることができて、肩の荷が下りる気持ちだった。留年したら音大を目指すどころではない。

「俺さ、親に留年したら部活辞めて塾行けって言われてたんだよなぁ。よかった、そんなことにならなくて!」

「なんだかんだお前って、真面目に部活やってるよな」

 意外だというニュアンスを込めて堤井は言った。

 田中も堤井と同じように合唱自体には興味なかっただろうに、今でもちゃんと部活を続けている。堤井は合唱を好きになれたけれど、田中の方はどうなのか分からない。未だに一音を追っているだけという可能性もある。

「そりゃ一音さんがいますし」

 当たり前のように彼は笑った。堤井が言えたことじゃないが、どんだけ好きなんだと呆れてしまう。

「その一音先輩はしょっちゅう部活サボってるけどいいのかよ」

「いいんだよ。たまに来る方が特別感あんだろ」

「ねぇよそんなもん」

 それじゃあ、一音が居なくなったら部活も辞めるのか? とは流石に聞けなかった。縁起でもないことは軽率に言うもんじゃない。

 しかし口には出さなくとも、現実は堤井の想像をなぞるようにして進んでいた。


 三月になってからは段々と気温も上がってきていた。暖房を付けなくてもいい日が増えて、今日も第二音楽室の窓は開け放たれている。

 緩やかな風が吹き込み、ピアノの音色が流れ出ていく。隣には、音に耳を傾けながら風に髪を揺らす一音が居る。何もかも忘れたみたいに柔らかくて優しい時間だ。

「それなりに、まともな演奏になったんじゃない」

「あなたが褒めるなんて、珍しいこともあるんですね」

「最後ぐらいはね。おれ今日で部活辞めるし」

「はい?」

 あんまりにもあっさり言うものだから、すぐには意味が呑み込めなかった。あるいは、呑み込んだら終わりだと本能的に分かったからかもしれない。

「おれもさ、来年受験生なんだよね。知ってた?」

 これから始まる崩壊なんて一つも感じさせない、穏やかな声だった。

「知ってますよ。進級できたんですね」

「ぎりぎりね」

「ぎりぎりだったんですか……」

この時間がずっと続くのだと勘違いしてしまいそうなぐらい、取り留めのない会話。でも互いに、これが終わりだと知っている。

「まぁつまり潮時だってこと。それに、春が来るから」

 春は出会いの季節であり、別れの季節でもある。けれど春とはこんなにも、痛ましい言葉だっただろうか? 切ないなんて形容では生温い。この痛みは、そのまま身を切られるのと同等だ。

「一音先輩、」

 彼の名前を呼ぶ調子の切実さに自分でも驚く。それを聴いた一音の眉が困ったように下がる。これまでには見たことがなかった表情だった。

 彼も堤井との別れを惜しんでいるのだ。だからってここで手を止められるほど、一音は器用じゃない。

「最後に一つだけ教えて。お前はおれに、死んで欲しいって思ってる?」

 生きててごめん、よりもっと直球だった。

 彼は最後に堤井の罪を全て暴き立てるつもりなのだ。春を前にして、何もかもを奪い去る嵐が吹く。こうなる予感はしていた。自分と彼は、一緒に春を迎えることはできない。焼け野原に降り積もった雪は溶け、醜く爛れた地表が露出する。

「その顔が答えだよね。安心しなよ、本当に死んだりなんかしてやらないから。でもさ、死んで欲しいと思ってる奴の隣には居られないでしょ」

「……そうですね」

 至極ごもっともな意見だ。堤井だってそんな人間の隣には居たくない。

 本当は、死んで欲しいのと同じぐらい生きて欲しいのだと、そう言いたかった。一音のことが好きだ。だから一緒にいて欲しい。――言えるわけなかった。

 言えば彼は堤井を許しただろうか。そうは思わない。一音は堤井がどれだけ彼を好きかなんて重々承知だろう。その上で一緒には居られないと判断したからこその今だ。

「ねぇ、おれもお前に悪口言っていい? 間接的に死ねって言われて傷付いちゃったからさ」

 変なお伺いを立ててくる一音が可笑しくて、思わずこの状況を見誤りそうになる。

「嫌ですけど、どうぞ」

「どうも。……あのね、おれは堤井が羨ましかったんだよ。お前は才能がなくて弱いから。おれもそうだったら、生きてるだけで良かったんだろうなって思う」

 そう言った彼の顔は苦痛に歪められていた。

 一音は堤井のことをよく分かっている。ここまで的確な悪口を選べるのはもはや愛だとも思う。ずっと憧れてきた彼に才能を否定されることが、弱いと思われることが堤井にとっての一番の屈辱だった。生きてるだけでいい、持たざる者の側に分類されることが悔しかった。

 けれど何より堤井を傷付けたのは、悪口を言う彼が悲しそうだったことだ。それに比べたら彼の言葉で裂かれた傷口など、まるで見えないほど小さく思えた。

「それでもおれは、お前に望まれたかったよ」

 それだけ残して、一音は音楽室を出ていった。やがて足音も聴こえなくなっていく。

 望まれたかったなんて、そんなの。

「…………望んでないわけが、ないじゃないですか……!」

 呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく壁に吸い込まれる。

 一音のオルガンも一音自身も、何もかもが欲しかった。全部大好きで守りたかった。だからこそ何一つ選べなかったのだ。その結果がこれだ。堤井は彼みたいに二兎を追える者ではないと、知っていたはずなのに。

 いつからこんなに愚かになったのだろう。選択から目を逸らしている内に、崇めた神も愛した人も居なくなってしまった。どちらか一方でも選べていたら、せめて片方は失わずに済んだだろうか。

 新川一音のオルガンを殺したのは、彼の演奏を受け容れなかったオルガン界や民衆でも、その場に送り込んだ牧師でも、合唱部という居場所を与えた石爪でもない。

 自分だったのだ。堤井が望めなかったから、新川一音はオルガンを辞めた。

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